9:クリスのママ(4)
「どうしたの? ガンちゃん」
「くーちゃ」
「ああ、クーちゃんが泣いてるから心配してくれたの? 優しいね」
ガントの前に座って、その小さな体を抱き寄せた。それから、ぐりぐりと頭を撫でてやる。
その様子を見ていたロゼフィーヌが、手を差し出してきた。
「ガント様は、もっとユリーシア様と一緒にいたいんですよ。クリス王子は私が」
「へ? あ、ありがとうございます」
確かにクリスを抱いたままでは、ガントの相手をしっかりしてあげられない。百合はロゼフィーヌの気遣いに嬉しくなる。
ロゼフィーヌがクリスの脇に手を入れて、抱き上げた。
「にゃあああ!」
抱き上げられた途端、クリスが大声をあげた。百合に向かって必死に手を伸ばして泣き叫ぶ。ロゼフィーヌの腕から逃れようと、手足をバタバタさせて暴れる。
「……ロゼフィーヌ様」
百合が呆然としてロゼフィーヌを見ると、ロゼフィーヌも困惑顔で百合を見た。そして、大きくため息をついて、クリスを百合の腕の中に戻す。
「……なんだか余計なことをしてしまったみたいね。ごめんなさい」
百合のところに戻ってきたクリスは、今度こそ離されてなるものかと、全身を使ってしがみついてくる。
「いえ。……あの、私、甘やかしすぎ、なんでしょうか」
泣き叫ぶクリスを抱き直しながら、百合が尋ねる。ロゼフィーヌは目線を泳がせながら、気まずそうに答える。
「……そうかもしれないわね」
その日の夜。ユリーシアとの通信も終わった頃。
「あ、ギース様。今日は遅かったんですね」
「ああ、少し仕事が多くてな」
いつもより少し遅い時間にギースがやって来た。百合は左手でクリスを抱っこして、右手でガントの手を握りながらギースを見た。
ギースは騎士服の首元を緩めて、ふうとひとつ息を吐く。そして、ガントとそっくりの赤い髪をかきあげて、大きく伸びをした。
「クリス王子のことだが」
ギースが百合を見て口を開く。
「あ、ロゼフィーヌ様に聞きました! 本当は八月生まれなんですよね、クーちゃん」
「そうだ。ただ、公には五月生まれということになっている。誕生日パーティーも、もう明後日だ」
ギースはごく自然にクリスの頭に手を伸ばし、撫でた。クリスはきょとんとした顔をしている。
「その日は一日中、クリス王子は王と王妃の傍で過ごす予定になっている」
「え、そうなんですか? 一日中?」
「朝九時から夜八時まで。誕生日パーティーは貴族たちへのお披露目も兼ねているからな」
(大丈夫かな、クーちゃん)
何度も顔を合わせているはずのロゼフィーヌでさえ拒絶していたクリス。碌に顔も見せない王妃の傍で、良い子にしていられるだろうか。
(まあ、考えても仕方ないか)
百合はべったりくっついてくるクリスのふわふわな髪に頬擦りをする。クリスがにゃあと歓声をあげた。
「そうだ、ギース様! 灯乙女草ってなんですか?」
気にはなっていたが、ロゼフィーヌに聞きそびれたことを思い出して、ギースに尋ねる。
「灯乙女草を知らないのか?」
「はい。向こうの世界にはないと思います」
「そうか。百合はこの世界の人間ではなかったな」
少し考え込む仕草をしたギースは、何かを思いつきひとつ頷いた。
「それなら今から見に行こう」
「へ?」
「灯乙女草は城の庭にも植えてある。今は見頃というには少し早いが、ちらほら花は咲き始めている」
ギースはガントを抱き上げると、百合に手を差し出してくる。そして、戸惑う百合がおずおずと手を伸ばすと、その手をしっかりと握られた。
(こ、これは照れる!)
頬が一気に熱を持つ。そんな百合の様子に気付くことなく、ギースは庭に向かって歩き出した。
廊下を抜けて、庭に出る扉を開ける。外に一歩踏みだすと、ひんやりとした風が頬を撫でていった。
「う、わあ……」
百合は目の前の光景に感嘆の声をあげた。夜の闇の中、花なんて見られるのかと疑問に思っていたが、これなら納得だと笑みを零す。
灯乙女草は、淡く白く光る花だった。今はまだ蕾の方が多いくらいだが、ところどころに咲く花は辺りを優しく照らしている。白い城壁にその光が当たり、庭全体が不思議な明るさに満ちていた。
柔らかい芝生の上を、ギースに手を引かれながら歩く。
「すごい綺麗な花なんですね、灯乙女草って」
「このメイフローリア王国の国花でもあるからな。生育に適した地域では、もっと多くの灯乙女草が見られるらしい」
城の庭にある花壇はそこまで広い訳ではないが、充分見ごたえがある。もっと多くの花が咲いている場所なんて、想像するだけでため息が出る。