8:クリスのママ(3)
「そういえば」
ギースが百合の腕の中にいるクリスに目を遣った。
「そろそろ、クリス王子の二歳の誕生日パーティーがある」
「えっ? クーちゃん二歳になるんですか?」
一歳九ヶ月のガントと比べて、まだまだ幼い印象の強いクリス。ガントよりも先に誕生日を迎えることが信じられなくて、ギースの顔をまじまじと見てしまう。
「いや、本当は違うんだが……」
「どういうことですか?」
「この話はまた今度にしよう。ガントがもう眠そうだ」
ギースの目線の先には、確かに眠そうなガントがいた。
「……そうですね。ガンちゃん、ベッドでねんねしようね」
百合がガントを抱き上げようとすると、ギースがそれを手で制す。
「俺が運ぶ」
ひょいとガントの小さな体を持ち上げると、あっという間にベッドに運んでしまう。百合はクリスを抱っこしていたので、助かった。
「あ、ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらの方だ」
ギースが柔らかな笑みを浮かべる。
「百合」
突然名前を呼ばれた百合の心臓が跳ね上がる。
「今日はありがとう。……また明日」
「は、はい。また明日」
おやすみ、とガントの頭を撫でた後、ギースは部屋から出て行った。
百合は閉じられた扉をしばらく凝視してしまった。
「……本当、反則でしょ」
「にゃ」
百合の火照った頬を、クリスの小さな手のひらがぺちぺちと叩いた。
*
翌日。
「灯乙女草……ですか」
「そう。貴女も知っているでしょう? 灯乙女草が咲くころに生まれた王子は、偉大な王になるって言い伝え」
百合はクリスの誕生日の謎を解明するべく、ロゼフィーヌに色々と質問していた。ロゼフィーヌは丁寧に教えてくれる。
「王妃様はクリス王子を八月に産んだ。でも、灯乙女草ってその時期には咲かないでしょう? だから、五月生まれだと詐称して、言い伝え通りの王子だと公表したのよ」
「ええー……」
「というか、ずっとクリス王子の世話をしてきたのに、知らなかったの?」
ロゼフィーヌには、入れ替わりのことを話していない。百合は内心焦りながらも、平然とした態度で答える。
「今までは興味がなかったので」
「そうだったわね。ユリーシア様ってそういう方だったわ」
ロゼフィーヌにあっさり納得されて、百合は拍子抜けする。
「でも、急にそういうことを聞いてくるなんて。まるで、別人みたいだわ」
「あはは……」
百合は笑ってごまかす。
とりあえず、クリスの誕生日については謎が解けた。二歳の誕生日パーティーは、嘘の誕生日に合わせて行うらしい。クリスは八月生まれなので、本当はまだガントと同じ一歳九ヶ月なのだ。
「ところで、あの子は誰?」
ロゼフィーヌがちらりと見た先には、黒い髪に紅い瞳の少女がいる。
「ああ、メリッサちゃんのこと? クーちゃんの魔力が暴走しないように、見に来てくれているんです。魔術師団長様の弟子で、とっても優秀な子なんですよ」
「そうなの」
メリッサはクリスの腕輪を真剣な表情で調べている。クリスの魔力を抑える大切な腕輪だ。
まあこれも、百合が元に戻るために必要な魔力の分析という意味合いの方が大きいのだが。そこまでは言わなくても良いだろう。
クリスは大好きな百合と離されて、メリッサに腕をとられているので涙目になっている。
「ふにゃあ……」
「うるさい」
初対面の時から、メリッサの言動は冷ややかだった。しかし、冷たい言葉のわりに、その手つきは優しい。本当は優しい少女だということがよく分かる。
しかし、クリスはまだ一歳。メリッサの冷たい言い方に怯え、大きな碧い瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「にゃあああん!」
「あわわ、クーちゃん!」
百合が慌てて駆け寄って、クリスを抱き上げる。メリッサは不機嫌そうに鼻を鳴らし、呆れたように言い放つ。
「甘やかしすぎ」
「ご、ごめんね」
「別にいいけど。あたし、帰る」
メリッサはぷいとそっぽを向いて、立ち上がる。
「あ、ありがとう、メリッサちゃん!」
百合の言葉は聞こえているだろうに、聞こえていないふりをして、メリッサは部屋から出て行った。素直じゃない少女である。
「……ほかの魔術師に代えてもらった方が良いんじゃないかしら。クリス王子が可哀相だわ」
にゃあにゃあと泣いているクリスを見て、ロゼフィーヌがため息まじりに呟いた。
百合は苦笑しながら、クリスをあやす。クリスは百合の肩に顔を押しつけて、いやいやと首を振った。小さな手は百合の服をしっかりと掴み、離そうとはしない。
「……まま」
不安そうな顔をしたガントが、百合のスカートを握っていた。