番外編2:クリスと魔法の授業
窓から見える景色がすっかり秋めいてきた頃。大きな魔力を持っているクリスに、魔法を上手に使えるようになってもらうため、魔法の授業を受けさせることになった。教えてくれるのは、魔術師団長ヒューミリスである。
さっそく授業が行われる魔術訓練室に向かおうと、百合はクリスを抱き上げた。
「それじゃあギース様。ガンちゃんとロイきゅんのこと、お願いしますね」
「ああ、任せてくれ」
ギースがロイを抱っこしたまま、力強く頷いた。頼もしい夫に惚れ直す百合。思わず頬が熱くなり、じっとギースを見つめてしまう。ギースも百合を見つめ、蕩けそうなほど甘い笑みを浮かべた。
「ふみゅ……」
甘い空気を壊したのはロイだった。百合と離れるのが不安なのか、空色の瞳は潤んでいる。柔らかな桃色のほっぺたを、ぽろりときらめく涙が滑り落ちていく。
「ロイきゅん……。大丈夫、授業が終わったらすぐに戻ってくるから」
涙の雫を優しく拭い、空色の髪に頬擦りをする。しかし、ロイは泣き止む気配がない。なんだか百合まで泣きそうになる。
「百合、そろそろ行かないと。時間だ」
「う、うん」
ギースに促されて、百合は歩きだす。後ろ髪を引かれる思いというのを初めて味わってしまった。
「ガンちゃん、ママ行ってくるね」
ガントにも声を掛ける。しかしガントは座り込んでいて、こちらを見ようともしていなかった。何をしているのかというと。
「じいじからもらったクレヨン、そんなに気に入ったんだ……」
ガントは祖父からもらったクレヨンで、ぐりぐりとお絵描きをしていた。画用紙いっぱいに描かれるガントの絵。かなり芸術的な作品である。
「良い子でお絵描きしててね。行ってくるね」
「ん、ばいばーい」
「えっ」
ガントは百合の方を全く見ずに、ひらひらと手を振った。その姿に百合は大きなショックを受ける。
「ガ、ガンちゃん……」
またも百合は泣きそうになる。ロイのように泣かれるのも辛いが、ガントのように快く送り出されるのも、これまた辛い。
「百合、大丈夫か」
「寂しい」
ギースの心配そうな声に、情けない返事しかできない百合だった。
*
魔術訓練室の扉を開けると、ヒューミリスとメリッサが出迎えてくれた。クリスはメリッサを見て「ねえね!」と嬉しそうに手を伸ばした。メリッサは少し困ったような顔をしながらも、クリスの手を取ってあげている。
「さて、今日は身を守る魔法を教えようと思っておる」
ヒューミリスがクリスとメリッサを優しい目で見つめながら言った。
「身を守る魔法……」
「本来ならもう少し大きくなってから教えるんじゃがな。クリス王子なら大丈夫じゃろう」
ヒューミリスが朗らかに笑い、魔術訓練室に置いてあるクッションを指した。
「ここにクリス王子を座らせておくれ」
「は、はいっ!」
魔法の授業を見学できるなんて、少しわくわくしてしまう。自分で魔法が使えたらもっと楽しかったのだろうが、百合は魔力がないようなのでそこは諦めるしかない。
クリスはクッションの上にちょこんと座って、こてりと首を傾げている。何が始まるのか分からないようだ。
「それではさっそく始めるか」
ヒューミリスがポケットの中から黒い板のようなものを取り出した。そして、その板を顔面につける。いわゆる仮面というやつだ。
百合はその仮面を見て「あ」と声を漏らした。それは以前襲われた時に見た覆面とそっくりだったのである。あの時はギースが百合と子どもたちを守ってくれたのだった。
(かっこよかったな、あの時のギース様……)
ギースの雄姿を思い出して、ひとり悶える。熱くなった頬に手を当てて、震える息を吐く。
そんな百合は置いておいて、ヒューミリスは仮面をしたままクリスに近付いた。クリスは碧い瞳を目一杯見開いたかと思うと、一気に顔を歪ませる。
「ふ……ふにゃあああ!」
ヒューミリスから逃げるように、とたとたと百合のところへ駆けてくるクリス。百合は両手を広げてクリスを迎え入れると、きゅっと抱き締めた。
「大丈夫、ママが守るからね」
「……それじゃ意味ないんだけど」
抱き締め合うクリスと百合を見て、メリッサが呆れたように声を出した。
どうやら、恐いものから身を守る魔法を本能的に引き出すというのが今回の目的らしい。百合がクリスを守ってしまうと、クリスはいつまでたっても新しい魔法を開花させられないのだ。
「という訳で。百合はクーちゃんが助けを求めてきても我慢してね」
「はい。分かりました……」
百合は訓練室の隅っこに移動させられた。クリスは涙でべしょべしょの顔をしたまま、クッションの上に帰還する。
「にゃあああ! ままー!」
仮面をつけたヒューミリスが、再びクリスに近付く。クリスは小さな手で目を覆い、クッションの上で丸まった。
「クーちゃん……」
百合の可愛い王子様が新しい魔法を開花させる様子はない。ハラハラしながらクリスを見守り続けるしかない百合。知らず知らずのうちに組み合わせていた手のひらは、じっとりと汗ばんでいく。
「にゃー! にゃー!」
「……クーちゃん! 今行くからね!」
仮面を追い払おうと、小さな手が必死にふりふりされているのを見て、耐えきれずに百合は走り出した。
「ままー!」
「クーちゃん!」
ひしっと抱き合うクリスと百合。
「だから、それじゃ意味ないの! 一分も耐えてないじゃない!」
メリッサが足をだんだんと打ち付けながら怒る。クリスと百合は、メリッサを恐々と見上げながらも離れようとはしない。
そんな中、ヒューミリスが仮面を外して、困ったように笑った。
「百合。このままではクリス王子が身を守る魔法を使えるようにはなれんぞ」
「……でも、こんなに泣いてるのに」
「ピンチの時こそ、新しい魔法は開花しやすいんじゃ。いいか、百合。クリス王子ならできる。我が子を信じてやりなさい」
親というものは、ずっと子どもの傍にいられるわけではない。いつか独り立ちするその日のため、時には遠くから見守り、成長を促すことだって必要なのだ。
分かっている。それでも。
「だって、クーちゃんはまだ、こんなに小さいのに。私、クーちゃんが泣いてるの、ただ黙って見てるなんて、そんな……ぐすっ」
百合の目から、ぼろぼろと涙が溢れだした。親としてまだまだ未熟な自分が情けなくて。腕の中のクリスをぎゅっと抱き締めたまま、百合は泣いた。
そんな百合を見て、クリスが「にゃっ?」と裏返った声を出す。それから百合の頬をぺしぺし叩いたり、首を傾げたりした。それでも泣き止まない百合に、クリスはへにょりと眉を下げた。
そして、クリスはくるっとヒューミリスの方を振り返った。その碧の瞳は勇ましい光を宿している。
「まま、まもるの!」
次の瞬間、虹色の光が百合とクリスを包み込んだ。ヒューミリスは驚いて後ずさる。
「……これはまた、立派な結界じゃな」
「この結界、魔法も効かないみたい。すごい」
ヒューミリスとメリッサが、虹色の光の膜を慎重に調べる。百合は膜に包まれたまま、腕の中のクリスを見つめた。
「もしかして、身を守る魔法、使えるようになっちゃったの?」
「にゃっ」
「……クーちゃん! すごい、すごいよ! 天才だよー!」
当初予定していたやり方とは違うが、こうしてクリスは立派に身を守る魔法「結界」を開花させたのだった。クリスのママへの愛は強かった。
*
授業を終えて部屋に戻ると、ガントとロイ、そしてギースが待っていた。
「まま、こえ、あげる!」
ガントがそう言って、画用紙を差し出してきた。そこには茶色のクレヨンの線がダイナミックに描かれている。
「ガントがロイと一緒に描いていた。ママの絵だそうだ」
ギースの解説を聞いて、百合は目を丸くする。ガントのママへの愛も強かったのだ。
「ガンちゃん! ロイきゅん! ……二人とも、絵の才能があるのね! 天才だよー!」
百合はその日、三人の子どもたちは皆天才に違いないと、鏡の向こうのユリーシアに報告した。あまりの熱弁に、ユリーシアは引いていたという。
クーちゃんはママを守れる強い子!
明日の番外編第三話は「だから、知りたいんだ」。
百合とギースの、二人っきりのデートのお話です。
引き続き、楽しんでもらえると嬉しいです♪




