31:帰る場所(7)
八月も終わろうとする頃のこと。
お昼寝をしているクリスとガントの汗を優しく拭ってやりながら、百合はいつものように子守歌を歌っていた。
歌い終わった時、かちゃりと静かに扉が開く音がした。百合はゆっくりと振り返る。
「……どうしたの、ギース様」
そこに立っていたのはギースだった。一瞬、またいつもの愛情表現が来るかもと身構えたのだが、ギースの表情を見て姿勢を正した。
ギースはこれまでに見たこともないくらいの渋面で、拳を握り締めていた。そして、視線を彷徨わせながら、何かを言おうとしている。
「ギース様?」
百合がもう一度呼び掛けると、ギースはやっと重い口を開いた。
「ロゼフィーヌが、毒を呷った」
ひゅっと百合は息を呑む。指先が小さく震えた。
「……大丈夫、なんですよね?」
「一命はとりとめた。しかし、眠り続けている」
百合の脳裏に甦ったのは、ロゼフィーヌの穏やかな笑顔。続いて、第一志望の大学に落ちた時の自分自身。
人生の中でこれ以上ないほどのどん底で、足掻くことすら諦めてしまったあの日々を思い出す。優しい両親が傍にいてくれたので、百合は一人で思い詰めることはなかったが、もし誰も傍にいてくれなかったら。
ロゼフィーヌと同じように、死を望んだかもしれない。
百合は唇を噛み締め、ゆるりと首を振った。百合が感じたどん底とロゼフィーヌが感じたどん底は、きっとレベルが違う。
ロゼフィーヌが呷ったのは、この世界でまだ解毒方法が見つかっていない毒だった。解毒方法が見つかるその日まで、肉体保存魔法で身体の時を止めておくのだそうだ。時が止まった身体は、ただ眠り続ける。
(ロゼフィーヌ様、ちゃんと目覚めてくれるよね?)
ぽろりと涙が零れ落ちた。悲しいというより、悔しいという涙だ。
この世界で仲良くしてくれた、初めてのママ友。向こうはこっちのことを嫌っていたのだろうが、百合はロゼフィーヌが好きだったのだ。彼女のために何もできなかったのが、悔しくてならない。
「……あ」
零れ落ちる涙もそのままに、百合はギースに詰め寄った。
「ロイ様は? ロイ様はどうなるんですか?」
ロゼフィーヌによく似た彼女の息子。まだ幼い彼は、これからどうなるのだろう。縋り付くように服の裾を掴む百合の手を優しく包み込むように、ギースは両手を添えてきた。
「ロゼフィーヌが牢に入ってからはずっと父親のところにいたらしいが、罪人の息子は要らないと言われ続けていたようだ。母親も眠り続けていることだし、孤児院に入れることになると」
「そんなの駄目!」
百合は叫んでいた。ナイフで刺されたあの時、ロゼフィーヌは息子が邪魔だとばかりに振る舞ってはいたが。あんな風に我を忘れてさえいなければ、良い母親でいられたはずなのだ。
それまでずっと、良い母親だったのだから。
そのことは、ロイの瞳を見れば、すぐに分かるから。
ロゼフィーヌは、確かに愛情を持ってロイを育てていた。彼女がまるで宝物を見るかのような瞳で息子を大切に見守っていたことを、百合は知っている。
ロイが孤児院に行けば、恐らく母親からの愛情を忘れ、何も知らないまま育つことになるだろう。父親からも見捨てられるのだ。本当は愛されていたはずのロイが愛情を知らずに生きていくなんて、あってはならないことだ。
「ギース様、お願いがあるんです」
百合は強い決意を持って、ギースと目を合わせた。ギースの紅い瞳が訝しげに揺れる。
「なんだ」
「ロイ様を、引き取らせてください」
きっとロゼフィーヌは怒るだろう。憎しみの対象である百合に大事な息子を預けるなんて、死んでも嫌に違いない。
それでも。
これは勝手にこの世を去ろうとしたロゼフィーヌへの罰だ。そして、ロゼフィーヌの人生を歪ませた百合の償いでもある。
母としての愛情をロイに伝える。ロゼフィーヌから与えられるはずだった愛情は、百合が代わりに与えていく。こんなのはただの自己満足かもしれないが、何もせずに後悔するのは嫌だった。ロゼフィーヌが目覚めるその時まで、できることをやる。
難しい顔をして考え込んでいたギースが、ふっと息を吐いた。
「……分かった」
正式に引き取るための手続きには時間がかかるだろうが、と言いながらも、ギースは力強く頷いてくれた。
「これから大変になるな」
「うん、頑張る。皆が幸せになれるように、私は私にできることを精一杯やってみせるよ」
ごしごしと涙を拭って、強気に笑ってみせる。そんな百合を眩しそうに見つめ、ギースは微笑んだ。
窓の外では、夏の日差しを浴びながら木々が葉をきらめかせている。強い光と熱が広がって、部屋の中なのに暑くて少し息苦しさを感じるくらいだ。
涼しくなる頃には、空色の髪の幼子もこの部屋にやって来るだろう。今からしっかり準備をしておこうと、百合は気を引き締めた。
いつかロゼフィーヌが目覚めたその時に、立派に成長したロイを見せてあげられるように。




