3:入れ替わり(3)
「え、じゃああの人がユリーシアの旦那さん?」
鏡の向こうにいるユリーシアが、こくりと頷いた。
今、二人の子どもたちは仲良くお昼寝をしている。ごはんを食べさせた後、しばらくおもちゃで遊んでいたのだが、突然、電池が切れたかのように眠ってしまったのである。
眠る二人の子どもたちは、まるで天使のようだ。幸せそうな顔をして、柔らかな毛布に包まれている。
百合は暇になってしまったので、ユリーシアに連絡を取った。色々と分からないことが出てきたので、それを解決したかったのだ。
まず、あの赤毛の青年について。あの青年、子どもたちのごはんが部屋に運ばれてきたのを確認すると、逃げるように去っていった。本当に何をしに来たのやら。
不審人物かと思ってユリーシアに聞いてみると、答えは「旦那」。しかも、赤毛の子どもの父親であるという。言われてみると、あの青年と子どもの髪色はそっくりだった。
『名前はギース。二十四歳。王国騎士団に所属する騎士をやっているわ。政略結婚だから、仲が良い訳じゃないの。放っておいてかまわないわ』
「なんか世知辛い」
『貴族なんて皆そんなものでしょう』
ユリーシアとギースの間に生まれた子の名前は、ガントというらしい。一歳九ヶ月になる男の子。百合は「ガンちゃん」と呼ぶことに決めた。
ちなみに金髪の王子の方はクリスというらしい。こっちは「クーちゃん」と呼ぶことにする。
「というか、この身体は一人子どもを産んだ身体だったんだね……」
『そうじゃなきゃ乳母なんてできないわよ。どうやってお乳飲ませるのよ』
呆れた顔でユリーシアがため息をつく。百合もユリーシアも同じ二十歳らしいのだが、人生経験の差が激しい気がする。
「そうだ。クーちゃんって食が細いの? 今日あまり量を食べてくれなかったんだけど」
ごはんを食べさせていた時のことを思い出して、聞いてみる。
クリスは差し出された食事にいやいやと首を振って抵抗していた。百合が根気強く口に運んでやると、涙目になりながら少し食べたくらいである。ちなみに、ガントは一人でもぐもぐ食べていた。百合の分にまで手を伸ばすくらいの食欲であった。
『さあ? いつも適当に食べさせていたから、よく分からないわ』
「え? 良いの、それで?」
『私、子どもって好きじゃないのよね』
子どもを持つ母親とは思えない発言が飛び出した。百合は呆然として鏡を見つめる。
『私は私の人生を生きていきたいの。子どもは産めと周りが煩いから産んだだけよ』
そう言い捨てた横顔は、とても冷酷なものに見えた。
百合はごくりと喉を鳴らして、次に気になっていたことを口にする。
「えっと、クーちゃんのお母さんは……?」
『王妃様? あの方はクリス王子の様子を見に来たこともなければ、聞きに来たこともないわよ』
百合は知らず知らず拳を固く握り締めていた。体の奥に、ひやりと冷たいものが澱んでいく気がした。
母親というのは、もっと温かい存在であるはずだ。クリスもガントも母からの愛情を全く受けていないなんて、考えたくもなかった。
『でも、こっちの世界の文字を読み書きできて助かったわ。思う存分、勉強ができそう。さすがクリス王子よね!』
ユリーシアは明るく笑った後、『じゃあね』と通信を切ってしまった。
子どもたちの様子を尋ねることもなく、あっさりと。
「まだ、聞きたいことがあったのに」
百合は鏡に映る茶髪の美女を見つめた。しかし、あの様子では欲しい答えを得られそうにないので、諦めることにする。
聞きたいことというのは、子どもたちの言葉についてだ。一緒に遊んでいるときに気付いたが、ガントはよくお喋りする。「まんま」「ねんね」など、簡単な単語を使っていた。
一方、クリスは「にゃあ」くらいしか言わない。ガントと変わらないくらいの年齢に見えるのだが、この差は何なのだろうと頭を捻る。
百合は身近に赤ちゃんなんていなかったので、どちらが普通なのかすらよく分からない。
「ふにゃあああ」
ひとり考え込んでいた百合の耳に、クリスの泣き声が飛び込んできた。お昼寝から目が覚めたらしい。
「はいはい、クーちゃん。ここにいますよー」
優しく声を掛けながら、ベッドに近寄る。すると、クリスは百合を見て、小さな手を一生懸命伸ばしてきた。大粒の涙を零しながら、抱っこをせがむその姿に、百合の心がきゅんと鳴る。
きっと、今までもこんな風にクリスは手を伸ばしてきたのだろう。何度も、何度も。しかし、実の母親は無関心、乳母は子ども嫌い。その小さな手は、誰に取ってもらえるというのか。
百合はクリスの小さな体を抱き上げた。子ども特有の高い体温が伝わってくる。
入れ替わりが元に戻るまでの間だけにはなるが、これからはこの小さな手を自分が取ってあげようと、百合は思った。母親でもなければ乳母でもないが、これも何かの縁である。
「……ん?」
百合は抱き上げたクリスのお尻をぽんぽんと軽く叩いてから、眉を顰めた。
濡れている。
「ちょっと待って。まさか、ガンちゃんも?」
ベッドの上ですやすや眠るガントを慎重に移動させると、ぐっしょりと濡れたシーツが露わになった。
よく考えてみれば、朝起きてからずっと、おしめを替えていなかった。自分の手際の悪さが嫌になる。
「にゃあああ!」
お尻が気持ち悪いのだろう。クリスは泣き続けている。もうおしめを替えるだけではなく、服も替えた方が良いと判断して、百合はクローゼットを開けた。
替えのおしめと新しい子ども服を準備して、着替えさせる。おしめなんて替えたことがなかったので、かなり適当になったが、仕方ない。
クリスの着替えが終わると、ついでにガントの着替えもやっておこうと思い立つ。眠っている内にやってしまえば楽な気がしたのだ。
しかし、ガントは抱き上げた途端、目を覚ましてしまった。そして、大音量で泣き始める。気持ちよく寝ていたところを起こされて、ご機嫌斜めになってしまったようだ。
「ああ、ごめんね。でもほら、おしめ替えたらきっと気持ち良いと思うから! ね、ガンちゃん」
なんとかガントを宥めようと四苦八苦する百合。その百合の足にクリスが絡みついてくる。
「うわ、クーちゃん! 危ないよ、蹴っちゃうよ、踏んじゃうよ!」
思わず大きな声で叫ぶと、クリスは驚いたのか、大きな碧の瞳をまん丸にして百合を見上げた。そして、せっかく泣き止んでいたのに、また目が潤み始める。
「にゃああああ!」
「ぎゃああああ!」
「クーちゃんもガンちゃんも、落ち着こうか。うん……はあぁ……」
二人の泣き声による大合唱に項垂れるしかない百合だった。