27:帰る場所(3)
あれは、まだ肌寒さを感じる頃のことだったと思う。
百合はコートに身を包み、人だかりの中にいた。百合と同じくらいの年齢の人たちが、揃って同じところを見ている。
百合は手元の紙に書いてある番号を確認して、顔を上げる。目の前のボードには、数字がずらりと並んでいた。
「1211、1212、1214、1217……」
ひとつひとつ、見落とさないように。口に出して、慎重に。
しかし、そんな小さな努力は徒労に終わる。
「……ない……」
手が震えたのは寒さのせいだけではなかった。
百合はその日、第一志望の大学に落ちたのだった。
滑り止めとして選んだ大学には、百合が苦手とする派手な人間が多かった。ぎゃあぎゃあと騒ぎ、授業を妨害する。そんな人間が集う場所。こんなところで友人なんて作れる訳がない。自分と気の合う人間を見つけられる気すらしなかった。
両親は浪人しても良いと言ってくれていた。しかし、現役合格で喜ぶ友人に、自分は浪人するなんて恥ずかしくて言いたくなかった。百合のちっぽけな矜持は、結局何の役にも立たないまま埋もれていった。
望み通りの大学に合格した友人が憎かった。無駄に高い学費を払うことになった両親が可哀相だった。そして、何ひとつ上手くやれない自分が、心の底から情けなかった。
(どこか別の世界にでも行ってしまいたい)
第一志望の大学に落ちてから、外出するのも気が進まず、家に籠もりがちになった。高校までの友人とも縁を切った。誰からも必要とされず、ただぼんやりと生きていくだけ。
百合はずっと、そんな生きる意味もないような世界にいた。
*
気が付くと、そこは真っ白な世界だった。目の端に映るのは黒い髪の毛。自分の身体を確認し、これはユリーシアではなく本来の自分の身体だと認識する。
隣を見ると、鏡でしか見たことのなかった茶髪の美女がいた。
「ユリーシア?」
百合が語りかけると、茶髪の美女はゆっくりと頷いた。
「百合……貴女、今度は何をしたの」
じとりと美女に睨まれて、百合はへらりと笑ってみせた。
「えっと、刺された?」
「はあっ?」
事情を話すと、案の定、険しい顔のユリーシアに怒られた。
「だからロゼフィーヌ様はさっさと切り捨てろと言いましたのに」
「そうだっけ……?」
百合とユリーシアは、真っ白な空間で並んで座っていた。他にすることもないので、ただぼんやりと話をするだけだ。
「ね、ユリーシア。ここってやっぱり死後の世界なのかな?」
「縁起でもないこと言わないで下さる? 私にはまだまだやりたいことが山ほどありますのよ!」
勉強もバイトももっと極めたいし、海外にだって行ってみたい。いずれは自分の会社を設立し、皆が羨む女社長になってやる。
ユリーシアはそう語った。
「いやいや、それって私の世界でやりたいことじゃん……」
「百合は? やりたいこと、ないんですの?」
ユリーシアに聞かれ、百合は考える。
もっとクリスやガントの成長を間近で見ていたい。彼らの歩む道が明るく幸せであるように、できる限りのことをやってあげたい。
「百合だって、私の世界でやりたいことばかりではありませんの」
「本当だねえ」
くすくすと笑うと、ユリーシアも釣られたように笑った。
「そういえば百合、ギース様とはどうなりたいんですの?」
「へっ?」
突然の質問に、間抜けな声が出る。
「ど、どういう意味?」
おろおろしながらユリーシアを窺うと、ユリーシアは余裕ぶった笑みを浮かべて口の端を引き上げた。
「異性として、意識しているのではなくて?」
ぼっと頬が熱くなる。
「な、なに言ってるの! ギース様は既婚者だよ? そんなこと、考えたことないよ!」
百合はぶんぶんと首を振って否定する。確かに最初の頃は容姿も良いし、その笑顔にドキドキしたこともあるが。
今は子どもたちを慈しむ様子が好ましいとか、暗殺者から守ってくれる様子が頼もしいとか、どちらかというと穏やかで落ち着いた感情しか抱いていない。恋愛というより家族愛に近い、と思う。
熱くなった頬を両手で覆って、百合は唸る。そんな百合をちらりと横目で見てから、ユリーシアはひとつ息を吐いた。
「ギース様と私は政略結婚だった。ギース様が歩み寄ろうとして下さっていたのは分かっていたわ。でも私は、どうしても仲良くする気にはなれなかった。……薄情よね」
「ユリーシア?」
「薄情な私は、百合の世界に行ってもっと薄情になったわ。私の人生をギース様に邪魔されることなく歩んでいけることに、喜びを覚えたのよ」
ユリーシアは遠くを見つめていた。どこまでも白い空間をただじっと見据え、言葉を探している。
「……私はあの人を嫌いな訳ではないの。恋愛感情を抱くことは出来なかったけれど、幸せになってほしいとは思っているのよ。彼が本当に好きな人と一緒になれるなら、それが一番良いの」
ユリーシアが百合の肩を掴んだ。
「私はギース様の妻として失格だわ。元に戻ったら、きっと離縁することになるでしょう」
「だ、駄目だよ、そんなの!」
ユリーシアは情けない顔になった百合に、真剣な瞳で懇願する。
「百合。妻失格の私なんかに遠慮しないで。一人の男性として、ギース様のことを見てあげて」
「でも、そんな」
「言っておくけれど、百合以外の女には死んでもこんなこと頼まないわよ? 私が認めているのは百合だけなんだから」
吹っ切れたように明るい顔で、ユリーシアが笑った。
「で、でも! 生きて戻れるか分からないし!」
「気合いで戻るわよ」
「生きて戻った先がどちらの世界なのか分からないし!」
「気合いで選ぶわよ」
「でも、でも!」
往生際が悪く、なおも言い募ろうとする百合。その百合をユリーシアは一喝する。
「とにかく全て、気合いで何とかするわよ!」
百合は呆気にとられて、口をぱくぱくさせるしかできない。しかし、自信満々に言ってのけるユリーシアを見ていると、本当に何とかなりそうな気もしてきた。
百合とユリーシアは目を合わせて、同時に噴き出した。
「分かったよ、ユリーシア。気合いで何とかしよう! それで、何とかなったらその時には……」
「その時には?」
百合はユリーシアに耳打ちをする。ユリーシアは目を丸くした後、くすくすと笑いだす。
(さあ、気合いを入れて戻ろうか!)
迷いのないまっすぐな瞳で、二人は天を仰いだ。