26:帰る場所(2)
その日の午後、百合はロゼフィーヌを部屋に招いていた。
心残りのないようにやっておきたいこと、と言われて思い付いたことがあったからだ。
「久しぶりね、ユリーシア様。話したいことって?」
ロゼフィーヌが空色の髪をさらりと揺らして首を傾げた。相変わらず可憐な女性だなと、百合は見惚れる。
「あ、これなんですけど」
ひょいっと掲げたのは、あの特注おまるである。
おまるの使い方を知っているのは、今のところ百合とギース、メリッサくらいだ。非常に便利なものなのに、このままではクリスとガントが成長したら倉庫行きな気がする。それはもったいない気がした。
ロゼフィーヌや他のママさんたちにも、この便利なおまるを広めたい。そんな訳で、まずはロゼフィーヌにもその便利さをアピールしておこうと思ったのだ。
「今はクーちゃんもガンちゃんもお昼寝中なので、ロイ様に使ってもらおうと思うんですけど、良いですか?」
「え、ええ。もちろんよ」
ロイは空色の瞳をくりくりとさせて、百合を見つめてきた。クリスやガントよりほんの少し小さな子どもは、大人しく百合に抱かれた。
「そういえば、ここに来るまでの警備がすごかったわ」
ロゼフィーヌがため息まじりに続ける。
「もう怪しい人間は誰ひとり通れないという感じだったわ。部屋の外も護衛騎士が増えていたわね」
「クーちゃんを狙った犯人が、まだ捕まってないですからね。かなり計画的だったようで、捜査も行き詰まってるみたいですよ」
百合は話を続けながら、ロイをおまるに跨らせた。ロイはきょとんとしたままだ。
「えっと、タイミングが合えばこれで排泄できるようになるんですよ。ロイ様、今は出ないかなー?」
「みゅ?」
首を傾げた百合に釣られたのか、ロイも同じように首を傾げる。しばらく待ってみても変わりなかったので、諦めておしめを付けた。ズボンを穿かせると、ロイはぽてぽてと歩いて、転がっていたおもちゃで遊び始めた。
「ロイ、それはクリス王子とガント様のおもちゃよ。返しなさい」
「あ、良いですよ。今、二人とも寝てますし」
「そうはいかないわ。おもちゃなら持ってきたのよ……あら?」
ロゼフィーヌは鞄を探りながら、困惑の表情を見せる。
「大変、どこかに落としてしまったみたい。どうしましょう、ロイのお気に入りだったのに」
「あ、私が探してきましょうか? もしかしたら騎士様や侍女さんが拾ってくれてるかもしれないし」
「いえ、そんなの悪いわ。子どもたちが起きた時にユリーシア様がいないと困るでしょうし」
もう一度鞄を探りだしたロゼフィーヌに、それまでクリスとガントの傍に控えていたギースが近寄る。
「俺で良ければ確認してくるが」
「ギース様? ……それならお願いしてもよろしいかしら。このくらいの青い布製のボールなのですけれど」
「分かった」
ギースがすっと部屋から出ていく。ロゼフィーヌが安心したように息を吐いた。鞄を探っていた手を止め、百合の背中へと視線を移す。
そして、ロゼフィーヌは暗い笑みを浮かべた。
「ユリーシア様」
ロゼフィーヌに呼ばれ、百合はギースが去っていった扉から目を離して振り返った。
「……ロゼフィーヌ、様?」
にこりと笑ったロゼフィーヌは、いつも以上に可憐で美しい。しかし、その手には鋭い光を反射して、きらめくものがあった。
ひやりと百合の背中に冷たいものが走る。
ナイフが百合に向けられていた。心臓を狙うように構えられた刃は、先の方が微かに震えている。
「冗談、ですよね。なんで……」
じりっと後ずさるが、百合の後ろには寝ているクリスとガントがいる。逃げる訳にはいかない。
「ずっと、邪魔だと思っていたの。王子も、貴女も」
ロゼフィーヌが両手でナイフを構えたまま、ゆっくりと百合に近付いてくる。急変したロゼフィーヌに、百合はただ困惑する。
こうなったら一か八か。
「ギース様っ!」
百合は部屋の外にも聞こえるように、大声で叫んだ。
ロゼフィーヌが舌打ちをして、ナイフを振り上げる。とりあえず、標的がクリスの方でなくて助かったと思いながら、百合はナイフを避ける。
空色の瞳が憎悪に染まる。
「消えて! 消えなさいよ!」
ぶんっと鈍い音がして、ナイフの光が直線を描く。恐怖に身が竦みそうになるが、なんとか堪える。
ロゼフィーヌは周りのことなど目に入らないらしい。百合を憎々しげに睨みつけ、また一歩踏み出す。
どうして急にこうなったのかは全く分からない。ついさっきまで仲良くしていたはずなのに、一体何がどうなったというのか。
さらに助けを呼ぼうと、百合が息を吸い込んだ瞬間。
ぽてぽてと可愛らしい足音を立てて、小さな体がロゼフィーヌへと近付いていく。空色の髪の幼子は、母親を求めて小さな手を伸ばす。
しかし、ロゼフィーヌはそんな息子に気付くことなく、勢いのままその小さな体を蹴り飛ばした。その上、邪魔だとばかりにその刃先を、こともあろうにその幼子へと向けた。
「駄目っ! 誰か、助けてっ!」
百合は叫びながら、ロイを庇って身を投げ出した。
扉が開く音。護衛騎士の怒声。火がついたように泣く子どもの声。
背中に鋭い痛みを感じて、百合の視界は暗転する。
(また、ユリーシアに怒られそうだな、これ)
腕の中にいる小さな子どもの体温に縋るように、ぎゅっとその小さな体を抱き締めた後、百合は意識を手放した。