20:ガントのじいじとばあば(2)
そこに、大きな音を立てて扉を開ける迷惑な人間が現れた。
「また子どもの泣き声が聞こえたぞ!」
ふんとふんぞり返って立っているのは兄である。百合はガントを庇うように兄から隠す。しかし、大きな音に驚いてしまったガントは、みるみる顔を歪め、翠の瞳が潤んでいく。
「ぎゃああああんっ」
せっかく泣き止んだと思ったのに、兄のせいで台無しである。運の悪いことに、今はギースが部屋にいない。屋敷の護衛たちと、警備体制についての話し合いをしているのだ。いつも兄を追い返してくれるギースが不在なので、どうやってこの場を切り抜ければ良いかと頭を悩ませる。
子ども嫌いを明言するこの兄は、まだ未婚である。偉そうな態度が女性から嫌われているようだ。黙っていればそれなりに見目も良いのだが、残念な男である。
「泣いているぞ! どうするんだっ!」
ガントの泣き声と兄の大声に、大人しく寝ていたクリスまで目を覚ましてしまう。
「……ふにゃあああっ」
このパターン、何回目だろう。百合は遠い目をしてしまう。
そこに、黒髪の美少女メリッサが憤怒の表情で兄の前に立った。
「兄、邪魔!」
仁王立ちで威嚇する美少女に、兄はたじろぐ。ぶつぶつと小さな声で悪態をつきながら、すごすごと引っ込んでいく。
「……メリッサちゃん、すごい」
「百合が駄目駄目なだけ」
つんと澄ました顔をして、泣いているクリスをあやしにいくメリッサ。まだ十二歳の少女に頼ってしまう自分を情けなく思いながら、百合はガントの涙を手で拭ってやるのだった。
*
その日の夜。
『相変わらず、大変そうですわね、百合』
ユリーシアとの通信で、百合は屋敷で起こる出来事をため息まじりに報告した。ユリーシアは苦笑しながら答える。
この屋敷ではいつも使っていた鏡ではなく、持ち運び可能な小さめの鏡で通信するようにしている。ヒューミリスがわざわざ準備してくれていたのだ。少し視界が狭いのが難点だが、あまりここで大袈裟に通信するのもどうかと思うので、まあ良いだろう。
『そういえば、そろそろレポートや試験があるらしいのですけれど』
「ん? ユリーシアなら真面目に授業を受けているし、大丈夫でしょう?」
どこか不安そうなユリーシアに、百合は訝しげな視線を送る。まだ元に戻れないのだから、レポートも試験もユリーシアにこなしてもらわないと困る。必修科目の単位は落とさないようにしなければ、卒業だって危うくなってしまう。それは嫌だ。
『試験の方は自信があるのよ? 問題はレポート。今までも簡単なレポートはなんとか頑張ったのだけれど……』
「ああ、パソコンで作成するのが苦手なんだっけ」
ユリーシアは機械にとことん弱い。生まれ育った世界に存在しないものなので、馴染みがないのだ。スマホなどはなんとか使えるようになってきているが、パソコンや家電はまだまだ苦手なようだ。
『ろーまじ、というのが難しくて』
「ローマ字? もうひらがな入力にした方が早いんじゃない?」
『嫌よ。なんか負けた気がするじゃない』
ユリーシアは一体何と戦っているのだろう。頭を抱えながらレポートの数を指折り数えるユリーシア。大きなため息までついている。
「とにかく、単位を落とさないように全力で頼むね。どうしても困ったら、パパに教えてもらうと良いよ」
『そうね、そうするわ……。優しい家族で助かるわ……』
家族、と聞いて百合の表情が曇る。ユリーシアも大変そうだが、百合も負けないくらい大変だ。
二人同時にため息をついて、通信の時間は終了した。
「ユリーシアも苦労しているようだな」
クリスとガントを抱っこしたギースが、百合の傍にやって来る。百合は力なく笑ってみせた。
入れ替わってからもうすぐ二ヶ月。元に戻れるようになるまではあと一ヶ月程だ。なんとかお互いに困難を乗り越えられるように頑張るしかない。
「おいで、クーちゃん」
ギースの腕からクリスを受け取る。そろそろ寝かしつける時間だ。
ベッドに寝かせるために歩きだすと、後ろからガントがぐずる声が聞こえてきた。
「ガンちゃん?」
振り返ると、ギースの腕の中でいやいやと身を捩るガントの姿が目に入った。今にも泣きそうなその姿に百合は慌てる。急いでクリスをベッドに寝かせ、ガントに手を差し伸べる。
「ガンちゃん、ほら、ママが抱っこしてあげるからね」
「ままっ」
ガントがぎゅうとしがみついてくる。この頃のガントは、クリスよりも甘えっこな気がする。城にいた頃はここまで手が掛かる子ではなかった。環境の変化に弱いタイプだなんて、計算外だ。
「ガントもやっぱりママが良いのか……」
百合に抱かれて機嫌を直したガントを見つめ、切なそうにギースが呟く。項垂れた姿が少し哀れである。
「あの、ギース様? 私はギース様のこと、すごく頼りにしてますからね?」
「百合……」
百合の言葉に少し元気を取り戻したギース。照れ臭そうに笑顔を見せる。その笑顔に百合もほっとして笑みを返す。
「ガンちゃん、笑ってる」
メリッサがひょいと顔を覗かせて、ぽつりと零した。百合がガントの顔を見てみると、確かにメリッサの言う通り、ガントがにこにこ笑っていた。機嫌の悪い日が続いていたので、久しぶりに見る明るい顔だ。
「本当だ。ガンちゃんがにこにこしてるっ! 可愛いっ!」
嬉しくなってガントを抱き締め、頬擦りをする。その様子にクリスまではしゃぎだす。
「ままっ」
百合の腰のあたりにべったりとクリスがひっついてくる。それもまた可愛くて、百合はクリスをぎゅっと抱き締めて笑う。
「クーちゃんも可愛い! にこにこだね!」
「にこにこ?」
「にゃあっ」
ガントもクリスも上機嫌だ。こんな風に楽しい時間はここに来てから初めてのことかもしれない。
「百合、あたし思うんだけど」
子どもたちと戯れる百合に、遠慮がちにメリッサが話し掛けてくる。
「ん? なに、メリッサちゃん」
「百合が笑うと、ガンちゃんも笑うの。百合が悲しい顔をしてると、ガンちゃんは泣くの」
「……え?」
思いも寄らない指摘に、きょとんとメリッサを凝視してしまう。そこにギースまで頷きながら加わってくる。
「この屋敷に来てからずっと、百合は難しい顔をしていることが多かった。ガントは百合のことが心配なのかもしれない」
「そうなの? ガンちゃん……」
改めてガントを見ると、愛らしい翠の瞳と目が合う。言われてみれば、ユリーシアの家族のことばかり気にしていて、子どもたちに笑いかけることを忘れていたかもしれない。
「ごめんね、不安にさせちゃってたね……」
百合は二人の子どもを抱き寄せて、目を閉じる。高めの体温が心地良い。なんだか涙が出そうになったが、そんな顔を子どもたちに見せる訳にはいかないと、ぐっと堪える。
(これからは、できるだけ笑ってあげることにしよう)
少しだけ肩の力を抜いて、百合は子どもたちに頬を寄せた。