2:入れ替わり(2)
世界を越えた入れ替わり。この魔法を使った本人であれば、簡単に元に戻せるという。しかし、その本人というのが一歳児である。とりあえず、元に戻すように頼んでみたが、まあ無駄だった。
「ねえ、おじいちゃん。これ、本当にこの王子がやったことなの?」
魔術師団長ヒューミリスという名前が長くて覚えられそうになかったので、「おじいちゃん」呼びをしてしまった。その「おじいちゃん」は気分を害した様子もなく、微笑みながら頷いた。
「間違いない。魔力の残滓が、確かにこの子のものじゃからな」
全く、とんでもない一歳児がいたものである。
「百合もユリーシアも、このままでは困るじゃろう。ほかに元に戻せる方法はないか、少し調べてみよう」
『お願いします』
「お願いします」
ユリーシアと百合の声が重なった。
とにかく、すぐに元に戻るのは無理ということで、入れ替わったままでひとまず過ごすしかない。ユリーシアには百合の代わりに大学に行ってもらうことにした。幸い今は五月。大きな試験もないので、授業に出席さえしていればなんとかなるだろう。
ヒューミリスのおかげで、鏡さえあればユリーシアと意思疎通できるようになったので助かった。鏡面をとんとんと指先で二回ノックをすると、ユリーシアに繋がるのだ。
ユリーシアは百合と繋がっている手鏡を持ち、大学へと向かってくれた。スマホではなく手鏡を持ち歩く姿は奇妙だろうが、深く考えないことにする。
『この世界は、女性でも男性と同じように勉強させてもらえるのね』
ユリーシアが期待に満ちた声をあげた。どうやらユリーシアは勉強することが苦にならない性質のようだ。授業を受けるのが楽しみでしょうがないらしい。
「まあ適当に席に座っていれば良いから」
あまり目立つことをしてもらっても困る。大人しく授業を聞くふりをしてくれればそれで良い。なんなら寝ていても良いとさえ思っている。
『あら、せっかくですもの。しっかり学ばせていただくわ』
ユリーシアはそう言って、通信を切った。繋ぐ時と同じように指先で二回ノックをすると切れるのである。
百合の目の前の鏡が、普通の鏡に戻る。鏡面には困り顔をした茶髪の美女が映し出された。美女の腕の中には、金髪碧眼の愛らしい子どもがいる。
「さて、こっちは子守りをすれば良いんだよね」
「にゃあ」
猫のような返事をする王子に、百合はため息をつく。こんな大変な事態を引き起こした犯人のくせに、反省の色がなさすぎる。
「もう……本当に大変なんだからね! 分かってるのかなっ?」
ぷくぷくのほっぺをを人差し指でつんつん突く。金髪の子どもはきゃっきゃっと楽しそうに笑った。
そのまま王子と戯れていると、突然、扉が乱暴にノックされた。そして、答える暇もなく扉が開かれた。
「ユリーシア!」
「ひっ!」
部屋に入ってきたのは、赤毛の青年だった。背が高く、堂々としている。腰に剣を佩いており、白い制服がよく似合っている。胸元には剣と盾が刺繍されているのが見えた。
青年は長い脚でさっと百合の目の前まで近寄ってきた。
百合は無意識に王子をぎゅっと抱き締めた。この子を守るのは自分しかいないのだ。
青年は黙って百合を見下ろしてくる。紅い瞳は訝しげに細められていた。
(恐い! なに、この人、誰っ?)
百合の背中に冷たいものが一筋流れた。その時。
「ふ……ふにゃあああ!」
百合に抱っこされてからずっとご機嫌だった王子が、大声で泣き始めた。顔を真っ赤にして、大きな瞳からぽろぽろと涙を零す。
大音量の泣き声に、青年がたじろいだ。
「……ぎゃあああん!」
少し離れた位置からも、泣き声が聞こえてきた。王子の泣き声に重なり、凄まじい合唱となる。
百合は青年を放置して、泣き声を発する子どもに駆け寄った。先程まで大人しく寝ていた赤毛の子どもが、小さな拳を握り締めて泣き叫んでいた。
「よしよし。びっくりしたね。もう大丈夫、大丈夫だよ」
ベッドに腰掛けて、二人の子どもを膝の上に乗せる。ぎゅっと小さな二つの体を抱き寄せて、優しく揺らす。
激しく泣いていた二人の子どもが、少しずつ落ち着いてきた。百合の服は子どもたちの涙でかなりぐっしょり濡れてしまった。いや、よく見ると、二人とも涙だけでなく鼻水も出ている。これは鼻水もついてしまっているだろうか。
「はああ……」
がっくりと項垂れる百合に、遠慮がちな声が掛けられる。
「だ、大丈夫か」
赤毛の青年は挙動不審な様子で、少し離れた位置に立っていた。近寄ってくる気配はない。
「大丈夫です。というか、何か用ですか?」
「朝食をまだとっていないと聞いて」
苛々した声で尋ねた百合に、申し訳なさそうに青年が答えた。
「あ、忘れてた」
ぽかんと口を開けてしまう。膝の上にいた赤毛の子どもの腹が、元気よくぐうと鳴った。絶妙なタイミングである。
「とりあえず、ごはんだね」
「にゃ」
「ぶぅ」
猫と豚の鳴き声のような返事が返ってきて、百合は思わず噴き出した。