11:クリスのママ(6)
誕生日パーティーが終わり、ギースが控え室に現れた。
「百合」
「ギース様! ……あれ? クーちゃんは?」
てっきりギースの腕の中にいると思っていたのに、小さな王子様の姿はそこになかった。
「王妃様が呼んでいる」
ギースの表情は固い。百合の心臓が嫌な音を立て始める。
「あの、クーちゃんになにか?」
「とにかく早く行こう。ガンちゃん、おいで」
「あい」
ガントがとてとてとギースに駆け寄った。ギースは息子を軽々と抱き上げ、百合を目線で促した。
百合はこくりと頷いてみせ、ギースの後について歩き出した。会場は隣。すぐ傍のはずなのに、やけに遠く思えた。
パーティー会場に、王と王妃はいた。その二人の間にちょこんとクリスが座っている。少し不機嫌な顔をしてはいるが、体調は良さそうなので、百合はほっとした。
「ユリーシア、ですわね」
王妃が口を開いた。初めて目にする王妃は、クリスとよく似た金色の髪をしていた。黄色みの少ない白に近い金髪で、プラチナブロンドと言われる色だ。紫色の瞳が、まっすぐに百合に向けられている。
王の方は灰色に近い金髪だった。アッシュブロンドである。瞳の色は碧色で、クリスの瞳の色は王からもらったものだと分かる。
「ユリーシア、貴女には乳母を辞めてもらうことにしました」
突然王妃はそう告げた。あまりに脈絡なく言われた言葉に思考が追いつかなくて、百合はぽかんとしてしまう。
(乳母を、辞める?)
首を傾げてギースを見ると、ギースは力なく首を振ってみせた。
「貴女のせいで、クリスは二歳のくせに言葉も話せないと笑われたのです。きちんと食べさせないから、体だって小さい。成長が遅いのは全て、乳母の貴女の責任です」
王妃の鋭い視線が、百合に突き刺さった。
どうやら貴族たちにクリスの成長の遅さについて何か言われたらしい。ただ、それを百合に言われても困る。今までずっとクリスを育てていたのはユリーシアなのだから。
それに、クリスの本当の年齢は一歳九ヶ月。二歳と比べると幼さが目立つのも仕方がない。
「あ、あの」
「口答えは許しません。金輪際、クリスとは会わないように。この子にはもっと優秀なものをつけます」
ガツンと強く頭を殴られたような気がした。
クリスの乳母であることを辞めるということは、クリスの傍にいられないということだ。百合の顔からさっと血の気が引く。
クリスを見ると、綺麗な碧い瞳を丸くしてきょとんとしていた。先程までの楽しげな雰囲気が、急に重苦しいものに変わってしまったので驚いたようだ。
王妃がクリスを抱き上げ、すっと立ち上がる。そして、踵を返し、会場に背を向けた。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
「無礼な!」
呼び止めようとした百合に、王妃の怒声が飛んできた。憎々しげに細められた紫の瞳に射抜かれて、百合は青ざめるしかない。
しゃらり、と王妃の髪飾りが揺れた。大小さまざまな宝石が埋め込まれた髪飾りは、会場の明かりに照らされて、ギラギラと輝いていた。
王妃に抱かれたクリスと目が合う。
(クーちゃんと、もう会えなくなっちゃう……?)
クリスに払われた手。クリスはもう百合を必要としてくれないのか。実の母親である王妃に抱かれているクリス。手を伸ばしても到底届かない距離。
「捕らえよ」
王妃の命令に、百合の近くにいた騎士が動いた。後ろ手に拘束され、押さえつけられる。
ガントを抱いているギースの顔色がさっと変わった。拘束された百合の元へ駆け寄ろうと動き出す。
しかし、百合は目線でそれを制した。王妃の不興をギースまで買ってしまったら。残されるガントはどうする。
「連れてお行き」
王妃の冷たい声が、静まり返った会場に響いた。
百合は無理矢理引っ張られ、引き摺られる。何もできない無力な自分。悔しくて、唇を噛む。
百合を連行する騎士の足音が頭に響く。
引き摺られ、会場の出口に辿り着いた時。悲痛な幼子の叫び声が聞こえてきた。
「ままっ!」
ガントの声かと思って、百合は振り返る。しかし、ガントは指を吸いながら、ギースに大人しく抱かれている。
「まーま!」
もう一度聞こえてきた。今にも泣きだしそうな叫びは、真っ直ぐ百合に向かってくる。
声の主は、小さな手を必死に百合に向かって伸ばしていた。碧の瞳からは大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちている。王妃の腕から逃れようと、顔を真っ赤にして暴れる。ふわふわの金の髪が、汗をかいたせいでぺしゃんこになっている。
「ままーっ!」
クリスの絶叫に、会場全体の空気がビリビリと震えた。
「うわっ」
突然百合を拘束していた騎士の体が飛んだ。いきなり自由になって、百合の足はふらつく。
「クーちゃん……」
百合は囁くくらいの小さな声で、クリスの名を呼んだ。距離がありすぎて、届く訳がないと思われたその声はなぜかクリスにはきちんと聞こえたらしい。
「まぁま!」
クリスの小さな体が虹色の光に包まれる。そして、ふわりと浮かび上がった。王妃の腕からするりと抜けたクリスは、ふわふわと飛びながら、真っ直ぐに百合に向かってくる。
百合は両手を広げて、クリスを迎え入れる。
「クーちゃん!」
ぽすんとクリスの小さな体が百合の腕の中に落ちてきた。涙でべしょべしょになった顔は、百合に抱かれた途端にへにゃりと緩んだ。
「ままっ」
「うん……クーちゃん、お喋り上手ね。お利口さんね……」
ぎゅっと温かな体を抱き締めると、胸の奥がきゅんとなる。百合は柔らかな金色の髪に頬擦りをした。
「ユリーシア、クリスを返しなさい!」
王妃が青筋を立てて怒鳴り散らす。
しかし、もう百合はクリスを離す気にはなれなかった。ふるふると首を振り、クリスをぎゅっと抱き込む。