10:クリスのママ(5)
「にゃ、にゃ」
「ん? どうしたの、クーちゃん。……ああ、お花を近くで見たいの?」
お尻をぽんぽん跳ねさせながら、クリスが光る花に手を伸ばす。百合はギースと繋いでいた手を離して、クリスをそっと下におろした。
クリスはぽてぽてと花に近付き、小さな指で花びらを突く。
「にゃ!」
「うん、綺麗だね。お花、キラキラね」
クリスの傍にしゃがんで、一緒に灯乙女草を眺める。その百合の背中に、何かがぴとっとくっついてきた。
「ガンちゃん?」
「きら、ら?」
「ふふ、キラキラ、ね」
「きらきら」
ギースに抱かれていたはずのガントが、百合にくっついて花を見ていた。翠の瞳に、花の光が反射してきらめいている。
「クーちゃん、ガンちゃん。お空も見てごらん。ほら、お星さまもキラキラだよ」
「にゃ!」
「きらきら!」
空には数多の星がきらめいていた。天空の星と地上の花。どちらも夜の闇の中で、優しい光を放っている。
百合は幼い頃によく歌っていた歌を口ずさむ。父と母、二人に手を繋いでもらって眺めていた星空を思い出しながら。キラキラと光る星の歌。
クリスとガントが百合の歌を真似ようと声を出す。可愛らしい幼子の歌声は、百合の歌声と重なって、夜の空に消えていく。
ギースはそんな微笑ましい三人を眺めて、頬を緩めた。
歌声に誘われた風が、ふわりと吹き抜ける。灯乙女草の花がその風に撫でられて、優しく揺れた。
*
クリスの誕生日パーティーの日がやって来た。
予定通り、朝九時にパーティー会場に行けるように、百合は早起きして準備をした。クリスはいつもよりも立派な、パーティーの主役の服を着て、王と王妃の間に座る。
誕生日パーティーが行われる会場は、華やかに飾りつけられていた。学校の体育館くらいはありそうな広い空間には、豪華な料理が至る所に置かれ、招待客の舌を楽しませている。
百合はその会場の隣の控え室に待機することになった。直接クリスの様子を窺うことはできないが、何かあればすぐに駆けつけることができる。
会場には王族の身を守る近衛騎士として、ギースがいる。クリスに何かあれば、すぐに伝えに来てくれるらしい。
「まま?」
クリスのことが心配でそわそわしている百合に、ガントがくっついてきた。
「ガ、ガンちゃん。ママ、クーちゃんのことが心配です」
ぎゅっと小さな体を抱き締めると、ガントが嬉しそうに笑い声をあげた。そして、百合を抱き返すように、ぎゅっとしがみついてくる。
隣のパーティー会場から、賑やかな楽団の音楽が聞こえてくる。控え室にいる百合とガントはその音楽を聞きながら、いつもと少し違う雰囲気を楽しんだ。
クリスは一時間毎に控え室に連れてこられた。おしめを替えるためである。ギースに抱かれて控え室に入ってくるクリスはかなり不機嫌で、驚くほどの膨れっ面を披露している。
「にゃあ」
立派な服を着た小さな王子様は、不服を申し立てる。
一回目に連れてこられた時は、百合に会えて満面の笑みを見せていたのだが、すぐに会場に戻されて大泣きしていた。二回目、三回目と回数を重ねるたびに笑顔と涙を繰り返し、だんだん疲れてきたようだ。
「が、がんばって、クーちゃん。明日からはまたずっと一緒にいられるから!」
膨れっ面のクリスを励ますように、百合がその小さな手を取る。
「にゃっ!」
不機嫌なクリスは、百合の手を払った。思ってもみなかったクリスの反応に、百合は涙が出そうになる。
「ク、クーちゃん……」
「にゃ」
ぷいとそっぽを向くクリスをギースが抱き上げた。
「そろそろ会場へ戻らなくては。……大丈夫か?」
「寂しい」
両手で顔を覆ってしまった百合に苦笑しながら、ギースはクリスを連れて会場に戻った。
気が付くと、もう夜七時過ぎだった。長いようで短かった一日がようやく終わりそうだ。
百合はクリスに払われてしまった手をじっと見つめる。
「クーちゃんに嫌われたかな」
「くーちゃ?」
ガントが落ち込む百合の膝の上にぽんと乗ってくる。百合はさらさらの赤毛を丁寧に撫でながら、弱音を吐く。
「今日は本当のママが傍にいるんだもんね。私みたいな薄情な乳母なんて、もう忘れちゃったのかな。ガンちゃん、ママどうしたらいいのかな? うう……クーちゃん……」
「まま」
慰めるように擦り寄ってくるガント。その優しさが身に染みる。
ユリーシアと入れ替わってから、クリスはずっと百合にべったりだった。すぐに抱っこをせがみ、抱き上げてやるとにこにこ笑う。百合以外の人間は警戒し、人見知りする。
百合だけが特別。そう思っていた。
しかし、よく考えてみれば、一緒に過ごしたのはほんの二週間ほどである。その程度で特別になれるなんて、思い上がりも甚だしい。
「はあぁ……ガンちゃんはママの傍にずっといてね……」
「あい」
ひとしきり落ち込み、ガントに慰めてもらう百合なのであった。