大手町のゴースト 9 ・・・ゴーストは有能なビジネスマン?
そして、声がした。
「わからない」
声だ。闇の底からの、ひっそりした声だった。
「わからない。九階?三菱物産?わからない」
ドアの向うからだった。
「それで、あちらこちら歩いたのだ。わからない」
「・・・」
「あなたは総務課長」
「は?」
「さっき、そういいましたよね」
「はい、そうです」
「私に、見覚えはありませんか」
「見覚えったって・・・」今は真っ暗闇ではないか。
「あなたに、これから、おうかがいしてもいいですか」
「はい?」
「私はわからないのですよ。何もかも」
「わからない。どういうことです。ご自身のこととか、所属部署とか、ですか」
「そうですね」
「ご記憶を喪失されましたか」
「そういうのでしょうか?」
「まあ、まさかそんな。九階に帰られてはいかがです。それで、守衛さんに連絡してください」
「九階?なぜ?」
「だってあなた、三菱の方でしょう?情報システム部とききましたよ」
「そうですか。どなたから」
「うちの部下です」天野調査役の顔が浮ぶ。舌をだした。がせねたか?ありそうなことだ。不安になる。ドアの向うの声はいう。
「総務課長ですね」
「え?そうですよ」
「どうも気になる」
「何がです」
「あなたが」
「・・・・・・」
「いや、あなたの会社か。私は私がまったくわからないのに、不思議だ」
「いや、もうとにかく、呼んでください、守衛・・・」
「開きますよすぐ、ドアなんて。すぐに開けますから、また、お邪魔していいですか」
「いいですよ。ちょっと、きちんと話合いましょう。うちも、はっきりいって、気味悪がってる人もいるんですよ、あなたのこと。いや、大変に失礼な言い方で申し訳ない。しかし、この際、きっちり話し合って決めましょう、職場どうしで」
「まあ、職場はわからないですが、またお邪魔することにして、いいですか」
「いいですよ、さあ、開けてください、この場で、話し合えるだけのことは話し合っておきましょう。電気もつけてください」
すると、パッと明かりがついた。
何事もなかったように白色のクールな光に全身が包まれた。ドアを押す。難なく開いた。
「?」
そしてそこには誰もいなかった・・・
「今夜だけは、残業してくれませんか!?」
総務課長は、天野調査役に詰め寄った。
「どうにも仕事が終りそうにない」
天野調査役は、総務課長に対して衷心の同情を示す表情ながら、体は「いやいや」の仕草をした。
「私なんか、お役にたたないわ」
そういっているのだ。そして、萩野職員の方を見た。こっちに手伝ってもらえといってるのだろうが、萩野さんは、課長と調査役の話じたいを聞いていなかった。エジプトの痴呆みたいな顔をしていた。悪意はないのだ。本当に何も聞いてないのだ。きっと頭の中が古代文明なのだ。萩野さんに残業してもらっても、これは真実、役に立たぬ。持病のヘルペスを悪化させるだけだろう。(彼女は一か月前にヘルペスになった。そのときのお岩さんのような顔を思い出すと気の毒で耐えられない)
「熱田くんよ、熱田くんの出番よ、ねえ課長!」
アカネ職員が、これぞグッドアイデアだというように叫んだ。
総務課長は、実はそうしようかと考えかけていた。しかし、それをこのアカネにいわれてしまうと、意地でもそうしたくないという気持になった。
「熱田くんは、まだ、そのね・・・」
だめなんだ、というニュアンスを伝えようとすると、アカネの表情は豹変し、それは悪党の顔になった。そして課長を見返した。その顔は、この世の何も受けつけないという険悪で堅固な意志をもつ悪党の顔だった。うすら笑いさえ浮べていた。あとの職員(宮坂さんほか一、二名)はみんなアカネ派閥に属している。すべては絶望である。
それ以上、課長は誰にも何もいいたくなくなった。
また、夜であった。
課長は言葉どおり泣きそうだった。仕事が終らぬ。妖怪手洗いだの三菱だのいってる余裕なしだった。あの三菱氏が来ても、相手してるひまなんかない。来たらあとにしてくれといって、拒絶しよう。
ビル建設関係の起案が何種類もあった。過去の事例を参考にしようと、関係書類を取りに、地下倉庫に行った。こんなとき、部下の一人もいてくれれば、わざわざ自分で行かなくてもすむのに。ぶつぶついいながら、地下へ駆け下りて、資料をもって階段を駆け上がった。
課長はオフィスの自動ドアの前に立つ。
「?」
総務課のデスクの島が見え、熱田くんの席に誰か座っていた。熱田くんが手伝いにきたのかと思ったが、それはちがった。
忙しいから考えているひまはない。かまわず、ドアが開くと大股で事務室内に入った。そして席に座る男に、背中から鋭く、
「困りますね、どこからお入りです?」
そういいながら、男を観察する。あいつだ。鼻でかモジャモジャ手洗い男。間違いない。男の目の前のパソコンクライアント機が立ち上がっていた。ICカードを勝手に使ったのか?
「あなた、困りますよ、勝手にパソコン開けちゃあ」
しかし男は課長を無視。平然としていた。いや、のんびりしていた。茫洋とした目つきで、ディスプレイに見入っていた。
「あなた!」
課長は男のかたわらに立った。
「いやあ。これは大変」
男はつぶやく。
「あ。文書開いて。課のフォルダを見ちゃあだめだ。閉じてください」
「いやあ。しかし、案外簡単だな」
自信ありげにうなずき、微笑んでこちらを見上げて、いった。
「できますよ私」
「できますよって。あなた」
「お困りでしょう?お手伝いできますよ。結局、見積データの検証がポイントです。膨大ですが、二人ならわけないです。契約関係の書類は、彼が昼間そろえてくれているでしょう?だったら、できます。任せてください」
誠意ある口調。意外にまともな目つき。
「仕事を手伝うつもりですか。ありがたいが、外部の人に頼むのは、はちょっと・・・」
といいつつ、課長は誘惑に心動揺した。しめきりは明日なのだ。明日、ビルの基礎工事関係は起案しないと間に合わない。決算の仕事もあるし・・・
「いや、熱田さんがやったことにすればいい。熱田さんのカードを拝借してます。たしかに外部委託は問題でしょうが、緊急事態につき、内部の管理職が立ち会いのもとで行ったなら、まあ・・・」
そういいつつ、男の手はその長い白い指で、PCのキーボードをピアノのように叩き始めていた。はやい!
画面に、あっという間に特製の検証用テーブルが作成されていく。
「私は口が堅いです。いや、孤独ですから、誰かにおしえようと思っても、できないのです」そういいながら、見積書の縦横数字をチェックする見事なエクセル・テーブルが出来上がった。課長はこういうのが欲しかったのだ。「うん。大丈夫。ここの検証は、完了」と、満足そうに男はいった。
すげえ。これはいい。この調子なら、あっという間だ。課長にとっては内心、この飛び込み労働力は超垂涎ものだった。
「・・・」
課長が唖然として無言のうちにも、次のパーツの検証がディスプレイの上で華々しく整然と超スピードで進んでゆく。エクセルというのが、こんなに速く動くのを、課長は見たことがない。ことに総務課においては見たこともない。
総務課において、天野調査役を例にとると、そのキーボード操作は、ひとさし指しか使わない。それは、かのライオネル・ハンプトンのピアノ演奏(ハンプトン氏は、ベニーグッドマン楽団に属した有名なビブラフォン奏者で、彼が「ひとさし指」を鉄琴鉢の鉢ように使って、早弾くピアノ演奏は名人芸といわれた。)を連想させる。
しかしスピードがまるで違う。やたらと恐ろしく遅い・・・途切れ途切れに、両手のひとさし指で、ぽけた。ぽけた。と、キーが押される。
が、遅さという点では、やはり萩野職員だ。彼女は天野調査役に大きく優って遅い。それは、たとえば囲碁の女流棋士が名人決定戦で、緊迫した無限に続くかの間をおきつつ、碁石を、考え考え、さすのに似ていた。
・・・画面の上では、早回しフィルムのように、次々に表が現われては消え、消えてはまた新しいテーブルになり、そして数字が!数字がマシンガンの銃弾のように打ち込まれていた。
ああ、ブラインド入力だ。手元なんか全く見てないぞ、書類の数字も、ほとんど一瞬しか見てないのに。しかし、課長がポイントとなる数値合計を目でチェックすると、完璧に正しかった。
「おかしいな。昔、まるで、こんなことをやっていたみたいだ」
男は首をかしげつぶやいた。
「今は、やってないですか」
そんなはずはない、今もやってるでしょう、すごくお上手でしょう、と思いつつ課長は息をのむ。
「そろそろ、結果をメールで課長さんに送りますから、代表起案をお願いします」
男は頭を下げた。
「はい!」
課長は、超素直に頭を下げた。もはや、なんのかんの言ってられない。もう出来たじゃないの。これで、帰れるじゃないの。感激じゃないの。
涙がでそうになる。
課長の受信ボックスには起案の基礎資料がガンガンとメールされてくる。これをただ添付して、起案すればいいんだ。資料が完璧なら、起案なんて簡単なんだ。ただ結果をならべて、「下記により入札いたしたい」と、やればいいんだ。
その通り課長は起案した。
「できた。いやっほ、できたあ!」
課長は歌うように叫んだ。踊り出したいくらいだった。
これはいい。あとは次長あて起案メールすればいいんだ。これは明日の朝にしよう。課長は安堵に包まれた。こりゃあいい、引き続き、ビル業者選定の件も、決算の件も、やってもらえないか。あさましい考えが頭をよぎりつつ、課長は男に「ありがとう。た、助かりました」と、礼をいった。
「・・・・・・」
しかし、いなかった。
熱田くんの席に、たった今までいたはずなのに。彼は消えてしまった。
・・・つづく