大手町のゴースト 8 ・・・お化けの正体、わかったか?
続けてまいります。ご批判歓迎いたします。よろしくお願いします。
「お化けの正体!が。わかった?」
課長は食べかけていた深海キュウリをのどにつまらせそうになる。
「ええ。正体。わかりました。あっさりと」
「何者だったんですか」
「いえねえ、私もそんなもんじゃないかと踏んでたんですがね」
「何者だったんですか」
課長は天野氏の得意そうな顔を見た。もったいつけずに、いえ。
「九階の社員ですって。情報システム部。トイレにいっちゃあ、手を洗ってばかりいる、一種の病気ですかね。十年くらい前にうちのトイレに現われたのはいいましたでしょう。しばらくはうちには来なかったんですが、その間どこか別の階や別のビルのトイレに行ってたんですね、きっと。それが、また、うちに復活したんですね」
「九階というと、三菱物産」
「そうですね」
「そこの社員ですか」
「はい」
「しかし、鏡の中の私と、あの男の姿が入れ替わったのは・・・」
「はあ-」
本当にそんなことあったのか、という顔で天野氏は課長を見る。
「私の見まちがいとでも」
「というか、錯覚というか」
「・・・・」
萩野職員が割ってはいった。手書きのエジプト風眉毛をひそめて、
「課長、疲れてたんですよ、きっと」
彼女の言い方に険はない。心から同情していた。
「そうか、そうですかね」
課長はうなだれた。そうかね。そうか疲れてるか。しかし何が私をそう疲れさせたか?それはあなたたちのせいではないの?課長の表情は苦しく曇る。
「課長も、メンタル・・・」
といいかけて、天野氏は自分で自分の口をふさいだ。課長に失礼かと思い、また、熱田くんの存在を思い出したせいだった。課長は、熱田くんの方を見た。
熱田くん・・・彼は口に豆腐をいっぱいほうばったまま、ゆっくりともぐもぐやっていた。そして、ただ、無表情のままでいた。
そしてまた夜である。
決算期が近づいているのに加え、一年後に迫ったビル建替えにむけた仕事が山ほどあった。昼間は、いやいやながら、きわめてのろのろながら、部下も仕事する。しかし残業しなければとても間に合わない。
部下は残業しない。結局課長が一人で残業する。
しかし、熱田くんが来たおかげで仕事はかなり片付いているはずなのだ。彼は偏差値トップクラスの大学(つまり東京大学)を卒業して入社した。
能力は総務課の他の先輩職員と比べ物にならぬ。はるかに抜きんでている。すぐに仕事を覚え、目覚しく仕事をこなしている。
なのにどうして課長が相変わらず残業でねばならぬというと、熱田くんが仕事を消化してくれた分、先輩職員が楽しているだけだからだ。先輩職員がますます楽して、年休や遅刻や早退や業務時間中の憩いのひととき(それは井戸端おしゃべりに回される)が増えただけだ。こんなことは説明するだけ無駄な自明のことで腹がたつだけだ。
課長は今夜も一人である。熱田くんに手伝ってもらおうかと思ったが、心の調子が万全ではないかとも考え、遠慮した。しかし、自分ひとりでやれるか、不安になっていた。仕事を引き受けるだけ引き受けて、期限に終らなかったら最悪である。大丈夫か?考えてイライラした。メンタルになりそうだ。そうこう考えるうちに、またトイレへ行く必要が生じた。今回は、「大」の方である。
大便ルームに入るにも、課長は書類を手放さなかった。洋式便器に座り、書類を読み込んだ。ことがすんで、ズボンをあげ、ドアを開けようとした。しかし、だめだった。
「!」
見ればこの部屋は、先日、熱田くんがいた部屋だ。鍵を修理したばかりである。きちんと鍵はかかった。そして鍵があかなくなった。
「なぜだ」
力をこめてドアノブを回そうとする。しかし頑として動かない。不可思議な力でロックされてしまった。
すると、しゃあっ、という水の音が聞こえた。誰かが水栓をひねって水を出した。それは手洗いスペースから聞こえた。
「・・・・・・」
あいつか。またか。
水の音は続く。そしてペーパータオルを引っ張り出す、乾いたガサツな音。はじめはゆっくり、一枚、二枚。しかし急にまとめて引っ張り出す乱暴な音に変わった。そして、手を拭く、くぐもった音。かしゃかしゃ、がさがさ。
数分間も、そんな音が続いた。
ペーパータオルがなくなってしまう。あいつのせいで、トイレ経費が無駄にかかる。よその会社の人間に、貴重なわが社の経費を無駄使いされては困る。
意を決して、課長は叫んだ。
「あのお。すみませえん。どなたかいらっしゃいますか?こっちのトイレなんですが。鍵が開かないんです。ちょっと、みてもらえませんか!」
タオルのがざがざ音が途絶えた。洗い場の水の音は相変わらず続いた。課長は、今度は怒鳴りに近い声を発した。
「すみませえん!」
と、コン!と目の前のドアが乱暴な音をたてた。ノックというより、拳骨で殴った感じだ。なんだ。いつのまにかドアの前に立ってるのか。それで、ドアを叩きやがった。怒ったのか?
若干、気押されたが、課長は続けた。
「開かないんです。お願いします、開けてください。だめなら、守衛さんを呼んでもらえませんか」
そうか。守衛がいずれ見回りにくるのだった。こんな奴に助けを求める必要はなかったと後悔した。しかし、ペーパータオルの無駄使い防止が目的だった、と思い出し、いった。
「あのう。三菱物産の方ですよね。九階の。おそくまでご苦労さまです。しかし、九階におトイレ、ございませんか?こちら、私ども貧民金融公社のおトイレでして、私、その総務課長の者なんですが。先日も、あなた、こちらにお出ましじゃございませんでしたか?」
ドアの向うの男が、あの日の鼻でかモジャモジャ男なのは、よもや間違いあるまい。決めつけて話した。違っていたとしてもドアの中にいて見えなかったのだから言い訳が立つ。(違うなら違うと否定してみろというのだ。)第三者であるなら、「妖怪お手洗い」の狼藉を世間に知らせることにつながる。いろいろ計算して課長はしゃべっていた。
「昔は、もっとよくお出ましだったときいておりますが。あの。三菱さんのおトイレが具合悪うございますでしょうか?お宅のおトイレ、お使いになれませんか。お使いになれますでしょう?だったら、手前どものところでなくてご自分のところでやっちゃあいかがですか。その、お見受けしますと、やってもいない。やってるのは、やたらと手を洗われて、やたらと紙タオルで手を拭いておられるだけでしょう。水もタオルもタダじゃないものでございましてね、そのですね・・・」
バン!
ドアが外側からぶったたかれた。課長は思わずドア前から飛びのく。
「怒りましたか?怒られた。そうですか。あなたさま、三菱物産の方じゃございませんの?九階の。人違いでしたらお怒りでしょうね。しかしですね、違ったとしましても。今も聞こえていたんですが、随分と派手に紙タオルをお使いのように聞こえたんでございますよ。せこいこと言ってるとお思いですか?でも、私、総務課長でして、経費は大切なものでございまして、こちらのおトイレは、水も紙タオルも、当社の経費でございまして、この、電気もですね・・・」
すると、「ぼっ」と目の前に閃光が見えた。赤外線を照射されたごとく、あたりが真っ赤になった。それは本当に一瞬のことで、すぐ、真っ暗になった。漆黒の闇。
「!」
停電?違うか。「電気」とかいったから、電気を切りやがったか?
・・・つづく