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美化委員会の不浄理論  作者: 凛野冥
美化委員会の不浄で不条理な理論
18/19

真実3

    6


「要は顕在けんざいと潜在。意識と無意識という話ッスよ」

 正太郎さんは私の髪を掴んだまま話す。痛みのせいで、視界が涙で滲む。

「清子ちゃんは貴女達では意識できない、無意識の領域に身を隠してるんス。そして絶対に表に出てこない。顕在しない。それが清子ちゃんの消失の真相なんス。本当は消えてない。まだ逃げ続けてるだけなんス。四つの人格が膨大な量の矛盾を抱えたまま生きていられるのは、清子ちゃんが裏で調整してるからなんスよ。どのタイミングでどの人格がどのような解釈をしてどのような誤魔化しをするか判断する。記憶の齟齬を無視させたり、あるいは改竄したりすることで、四つの人格が各々の連続性を保てるようにする。管理とはそういうことッス。そうやって御加賀清子の四つの人格は成り立ってるんス」

 正太郎さんは私の髪を掴んだまま、もう片方の包丁を握っている手を私の顔の前へ……そして包丁を左右に揺らす。

「やめて……」

「だからやめないですって。さて、分かったッスか? まだ清子ちゃんは消えちゃいない。巫和くんは今ここで、清子ちゃんを引きずり出そうと思ってるんスよ」

 正太郎さんは満面の笑みだ。

「そうすることでしか、貴女達は自分達が同一人物であり、御加賀清子であると認めないんスからね。でも清子ちゃんを引きずり出せれば、今度こそ破綻ッス。貴女の人格は滅茶苦茶になる。これ以上の逃避はできなくなる。逃げ場はなくなる。そうしたうえで、巫和くんは貴女を今度こそぶっ壊すんスよ。再起不能に破壊するんス。不安定で脆くて儚い貴女は素敵だ。でもいい加減、壊れたところが見たいんスよ。そうして貴女をぶっ壊せば、それは御加賀先輩を壊すことにも繋がる。あの人が守ろうとしていたものを、巫和くんが全部台無しにしちゃうんスからね。御加賀兄妹の終わりッス。二人は最悪なかたちで破綻し、巫和くんのずっと見たかった光景が現れる。巫和くんの勝ちッス。ああ、想像しただけで興奮するッスよ。ほら清子ちゃん、出て来てください」

 包丁の刃の側面が、私の頬に当てられる。冷たい感触。少しでも動けば肉が切れて、血が滴るだろう。

「嫌……嫌です……」

「もう話は充分ッス。いくら懇切丁寧こんせつていねいに話したところで、貴女に自覚させることは無理だろうと思ってたッスよ。だからもう最後の手段しか残されてないんス。他のすべては消化できたんスからね。後はもう何をしてもいいんスよ。無理矢理、拷問するように、苦痛を与え続け、強引に清子ちゃんを引きずり出せばいいだけだ。貴女が壊れるまで悪逆の限りを尽くせばいいだけだ。ああ、ついに叶うッスよ。ここまで追いかけてきた甲斐があったってもんッス」

「嫌、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、い――」

「おっと」

 正太郎さんは包丁の切っ先を、私の口元に向ける。

 そしてじりじりと、ゆっくり、刃の先端が、私の口元に迫ってくる。

「あんまりうるさくされるのは避けたいッスね。まずはじめに咥内をズタズタにしてしまうのも手ッスよね」

 助けて……。

 助けて――と、〈その名前〉を呼ぼうとした――その瞬間、教室の扉が勢い良く開け放たれる音が響いた。

 視線をそちらに向けると人影が二つ――いや、違う、ひとつだ――視界が涙で滲んでいるせいで、よく見えないんだ――でも、それでも、そんな視界でも、それが誰かは分かった。

 委員長が教室に這入ってきた。

「あれ、思ってたより随分と早かったッスね、御加賀先輩。これは予想外だったッス」

「栖くんから離れてくれ」

 落ち着き払った口調だけど、そこには威圧的なものが多分に含まれている。私もぞっとしてしまうくらいに。

「怖いッスね。御加賀先輩、まあ話を聞いてくださいよ」

 正太郎さんは、私の髪を離し、包丁も一旦ひいたけど、身体は私から離れようとしない。

「巫和くんは敬愛する御加賀先輩のために、清子ちゃんを引きずり出そうとしてあげてるんスよ。もっと感謝して、協力してくれてもいいんじゃないッスか? だって会えるんスよ、最愛の妹さんに。分かったらそこで見ていてくださいって。分かるッスよね? 聡明な御加賀先輩ならお分かりのはずだ。それ以上近づいたら、妹さんの可愛いお顔をズタズタに――」

 そのとき、委員長が駆け出した。二歩と半歩で一気に正太郎さんの間近まで迫り、そして彼の顔面を殴りつけた。突然の出来事で反応しきれなかった正太郎さんは体勢を崩し――そこに委員長が飛び掛かる。正太郎さんの手を離れた包丁が宙を舞う。

 信じられなかった。あの委員長が、こんな手段に打って出るなんて。彼らしくない、なんて次元の話じゃない。彼はそれをしたくないのではなく、できないはずなのだ。いくら怒りに我を忘れたとしても、こんな粗野で短絡的な行動は委員長にとって自分の流儀も矜持も存在意義もすべてを瓦解がかいさせてしまうのだ。彼が常々、第一優先として最も厳格に守り、決して揺らぐことはないと思われた、彼の美学に真っ向から反するのだ。それを何の躊躇いもなく実行するなんて、私には信じられなかった。

 正太郎さんもやられっぱなしじゃない。へらへら笑っている表情はどこかに飛んで行って、必死の形相で委員長に反撃する。殴り、蹴り、打ち、引っ掻き、抉り、齧り、委員長と正太郎さんは床の上で取っ組み合いになっている――いや、取っ組み合いなんて生易しいものじゃない。奇声を発しながら、ひとかけらの理性も残っていないかのようで、両者の気迫は殺し合いのそれだった。見ていられないくらい醜い争い――でも私は釘付けになっていた。

 だって委員長は、自分のすべてを捨ててまで、こんな姿になってまで、私を助けようとしてくれているのだ。私を一番に、何よりも大切に、守ろうとしてくれているのだ。

「委員長、負けないでっ!」

 私はこんなに大きな声を出すことができたのか、と自分でも驚いた。こんな素直な想いを素直に吐き出すことができたんだ、私は。

 委員長と正太郎さんはどちらかが動けなくなるまで止まらないつもりだ。私は、正太郎さんも委員長のことが憎くて憎くて堪らないのだと知った。結局そういうことだったのだ。単なる自己防衛でここまでなるはずがない。それだったらとっくに委員長にやられているはずだ。だから彼も、委員長を殺したいほど嫌っていたのだ。何が彼をそうさせたのかは分からないけど、彼の執念だって相当なものには違いないのだから。でも、それでも私は――

「委員長っ!」

 委員長に死んで欲しくない。私の事なんてどうだっていい。ただただ、委員長に死んで欲しくないと思う。

 床で揉み合っていた二人だったが、委員長が正太郎さんの頭を両手で掴み、そのまま床に叩き付けた――それで……轟々ごうごうと燃えていた炎が消えたかのように……周囲はまた、静寂に戻った。

 聞こえるのは委員長の荒い息遣いと、私の啜り泣く声だけ。私はいつの間にか泣いていた。正太郎さんは、ぴくりとも動かない。

「……ごめん、栖くん。怖い思いを、させてしまったね」

 やがて委員長はそう云った。いつも通りの、優しい声音だった。

「ううんっ……大丈夫だよっ……」

 嗚咽おえつ混じりに、私は答える。

「だってっ……委員長が助けに来てっ、くれたからっ」

 委員長は立ち上がって私の傍まで来ると、私を椅子に拘束しているガムテープを剥がし始めた。

「もう安心していいよ」

「うんっ……」

 すべてのガムテープが剥がされ、私は自由になった。まだちょっと胸のあたりが苦しいけど、涙も止まっていた。

「立てる?」

「うん。私は乱暴はされずに済んだから……。それより委員長こそ、大丈夫、なの?」

 委員長は傷だらけだ。髪も服装も乱れに乱れ、顔は腫れ上がり、あちこちから血が出ているし、さっきからふらついている。身だしなみに誰よりも気を遣っている委員長のこんな姿も、私ははじめて見た……ううん、違う。はじめてじゃ、ない。微かにだけど、おぼろげにだけど、彼のこういう姿を私は、何度も見てきた気が、する。

 いつも私を守ろうとして、そのたびに傷だらけになって……そんな彼の姿が、確かに、記憶に残っている。でも彼はいつも、私の前では気丈に笑って見せるのだ――

「大丈夫だよ。このくらい、なんてことはないさ」

 ああ、また涙が、溢れ出しそうになってしまう……。

「ありがとう……」

「うん、まあ礼くらいは受け取っておこう。でも僕としたことが今回は格好悪いところを見られてしまって、恥じ入るばかりだよ」

「ううん、格好良かったよ。すごく」

 本当に、格好良かった。

「そうかい? まあ何をしていても僕は格好良いからね、無理もない」

 いつもの調子でそう云って、委員長は「さあ」と私の手を引いた。

 委員長が私の手を握るのは、はじめてだろうか。それともこれも、はじめてではないのだろうか。

「早く此処を出よう」

「……うん」

 委員長と私は教室を出て行く。委員長が後ろ手に扉を閉めるとき、私はつい訊いてしまった。

「巫和正太郎は……死んだの?」

 でも委員長は少しも動揺しなかった。

「気を失っているだけだよ。僕が人殺しなんてすると思うかい? ましてや君の目の前で?」

「それは……」

「もっとも、彼が君の前に姿を現すことは二度とないだろう」

「え、どうして?」

「彼はもうこの教室から出られないからさ。きっと、彼は永劫に閉じ込められるはずだよ」

 その口調は、委員長がいつも依頼人に対して真実を告げるときのそれだった。

 どういうことだろう。出ようと思えば出られそうだけど……。

「憶えてないかい? 空野くんだよ。空野八重くんだ」

「あ、この教室……」

 この場所は……。それに委員長が這入ってくるとき、一瞬、人影が二つあるように見えたのも……。委員長が正太郎さんの予想より早く此処にやって来られたのも……。

「で、でも、あれは全部、嘘だったって。八重さんは空き教室なんかじゃなくて、あのとき錠をかけたのは――」

「栖くん、いつも云っているじゃないか」

 私はまた一瞬、震えた。

「分かっているだろう、栖くん。云ってごらん」

「……真実なんて、掃いて捨てるほどある」

「その通り」

 肩の荷が下りたみたいに、急に身体が軽くなる感じがした。

「ところで栖くん、今から君を連れて行きたい場所があるんだ」

 委員長は私の手を握る力を少し強める。

「どこ?」

「君が憧れていた場所さ。静かで、広大で、閉塞感から解放してくれる、そんな素敵な場所だ」


    7


 委員長が私を連れて来たのは、学校の屋上だった。

 見上げれば一面の夜空。どこまでも広がる無限の宇宙に、ぽつぽつと星がきらめいている。

 そうだ、学校にはこんな場所があったんだ。

 これはたしかに、ちょっとした、閉塞感からの解放だった。

 心が空くような、少し愉快で、それなのに少し切ない、嫌味じゃない感動に優しく包まれる。

 周囲は静かで、此処には委員長と私の二人きりで、なんだかすごく特別な場所みたいだ。

「ふふふ、ふふふふ」

 思わず笑い声が洩れてしまう。

「気に入ったかい?」

 委員長の問いかけに、私は迷わず首を縦に振る。

 意味もなく、ぶらぶらと歩き回ってしまう。委員長はそんな私を、見守ってくれている。

 なんだろう、この幸せな気持ち。もっと浸っていたいと思わされる。

 巫和正太郎が私に語ったことの真偽について委員長に訊ねたいという気は少しもなかった。きっと委員長もそれが良いと思っているはずだ。言葉を交わさなくても、この場所では気持ちが通じ合っているみたいに感じる。

 確かなものなんてなくて、曖昧で、だからこそ凡庸で、心地良い時間。

 不条理でも、これが私達なんだ。

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