処理
4
日付変わって、放課後、美化委員会の教室に鵜月はやって来た。松壁は本来この事件に関係がないので、話がスムーズに進むよう、御加賀は鵜月がひとりで来るように指示したらしい。
教室には御加賀、私、礎、皇、鵜月の五人がいる。御加賀が話すのを、私達は黙って聞く姿勢だ。
「壱年生の教室を回って、君について色々と聞かせてもらったよ、鵜月くん。たしかに君の宇尾くんに対する献身は、誰から見ても凄まじいものだったようだね。学校での有様だけでもそれは充分に窺えるとのことだった。彼の弁当は当然君がつくって来て、昼休みに彼の口に箸でそれを運ぶところまで含めてやる。彼の教科書類や体操着等のしたくもすべて君がやっていて、鞄を持つのも、授業のたびに机の上に必要なものを並べるのも、すべて君。宇尾くんの宿題も君が全部やっていたし、授業のノートづくりも何もかも君の領分だった。彼氏と彼女と云うより、子供と母親、子供と母親と云うより、主人と召使、主人と召使と云うより、王様と下僕……いや、これでもまだ追い付かないくらい、表現のしようがないくらい、君は宇尾くんのすべてを請け負っていた。きっと半同棲のような君達は家ではさらに凄まじい生活をしていたんだろう。家事全般なんて当たり前として、宇尾くんの排泄に至るまで、すべてを君が世話していたはずだ。彼が常に満ち足りた状態であるために、あらゆる手を尽くして奉仕していたのだろう」
鵜月は黙って聞いている。その表情は、御加賀の話を否定しようというものではなく、完璧に云い当てられて驚いているふうだ。
「宇尾くんはそんな君にべったり甘えていた。付き合いたてのころは抵抗があったかも分からないが、もう彼は君にすべてを委ねるに至っていた。だって君がすべてをやってくれて自分に尽くしてくれるのだから、こんなに楽なことはない。君もそれを生き甲斐としていて、いつも幸せそうだったとみなが話していたよ。宇尾くんはもう君に完全に依存していた。人は易きに流れる。だが、それが今回の事件を招いたんだよ」
結論を述べよう、と御加賀は云った。
「宇尾くんを消してしまったのは、君だ」
鵜月の目が大きく見開かれる。
だがここまでの話から、私は既に大体の事情に察しが付いていた。なるほどこれは、憂鬱な真実だ。鵜月の恋愛に対する姿勢を嫌悪していた私だけど、胸が空くような思いなんて皆無である。それどころか身体がぐったりと怠くなった。
これだから、私は世俗を厭うのだ。見ていられないのだ。苛々するのだ。
「依存というのは、恐ろしいものだよ。宇尾くんは君に依存した。君の献身に身を任せた。すると宇尾くんが宇尾くんとして請け負うべきものを、どんどん君が担っていくようになる。宇尾くんの存在が、君に委託されていく。これが極まると、どんな結果を招くのか。そうだよ、宇尾くんが消えてしまうんだ。正確には、宇尾蓮人という存在が鵜月隘穂という存在に包括されてしまう。飲み込まれてしまう。宇尾くんのすべてを担当する君は、概念的に宇尾くんを乗っ取っているに等しかったんだよ。だから今回の消失が起こった。密室からの消失、なんてはあくまで二次的な結果に過ぎない。宇尾くんは君の中に消えてしまったんだ。こうなるともう彼を取り戻すすべはない。彼が消えてしまった以上、彼が担うものもこの世界からは消えてしまって、存在としての彼が復権することは永劫に有り得ないからだ。まあ取り戻すも何も、君は宇尾くんを取り込んでいるわけだけどね」
鵜月がそこで、乾いた笑い声をあげた。
彼女の瞳はひたすら虚空を見詰めている。顔は死人のように蒼白だ。それは絶望なんて生温いものを通り越した人間の顔だった。
「献身とは相手を殺すことだよ。君は宇尾くんを殺したようなものだ。彼のためを思っていようと何だろうと、彼の存在する意味を根こそぎ摘み取ってしまったんだから。滅私奉公なんて云うけど、滅するのは尽くす側じゃなくて、尽くされる側なんだよ。さて、これが真実だが、鵜月くん、君はどうす――」
「ははははははっ」
鵜月はよろめきながら立ち上がったかと思うと、突然駆け出した。御加賀を突き飛ばし、乾いた笑い声をあげながら、教室を飛び出していく。
私は反射的に動いた。弾かれたように立ち上がった。
「私が行く」
鵜月の後を追って走る。あの状態は危険だ。宇尾がもう戻らないと知った彼女が何をしようとしているのか……それはあまりに明白だ。尽くし尽くされる関係。御加賀はああ云ったが、鵜月だって宇尾がいなくてはその存在から意義も意味も消失してしまうのだから。
廊下の先に、どこかへと駆けていく鵜月の背中が見える。今にも転びそうな不安定な走り方だが、行き先は決まっているようだ。
勢い任せで飛び出したものの、運動不足の私なので走るのは得意じゃない。見失わないようについて行くので精一杯である。
そのとき、ふと疑問が湧いた。
なぜ、私は鵜月を追うと即決したのだろう。だって彼女がどうなろうと私に何か被害があったりはしないのに。私は彼女のことを好きでもなく、いささかの思い入れもないのに。なのに、こんな意味不明で面倒なことを私がするなんて……。
もしかして。
生きることを憂い、世俗を厭う私だけど、まだ本心では諦めきれていないのだろうか。
目の前で死のうとしている人がいて、それを回避できる余地があるとき、理屈抜きで行動するような感性が、実は私にも残っているのだろうか。
御加賀の言が思い出される。私はこれから世界と折り合いをつけていかなくてはいけなくて、少しずつでいいから適合していくべき……美化委員会での活動がその場となれば……。
「ああ、鬱陶しいっ」
いま考えなくてもいいことだ。とにかく鵜月を止めることに集中する。ただでさえ脳に酸素が行き届いていない状態なのだから。
廊下を走り、階段を上り、廊下を走り、廊下を曲がり、廊下を走り、廊下を曲がり、廊下を走り、階段を下り、廊下を走り……鵜月が這入っていったのは家庭科室だった。遅れて私も中に這入る。肺が痛い。喉も痛い。喉を通る空気が固形で、しかもひどく冷たい感覚がする。走るというのはこんなに辛いことだっただろうか。
鵜月は家庭科室の中央に立っていた。
「蓮人……今、出してあげる。今、助けてあげるからね。うちが貴方を生き返らせてあげる。そのためならうち、なんだってできるよ。なんだってできるんだから。うちは蓮人のことを本当に愛しているんだから」
血走った目。その両手は出刃包丁の柄を握り締めている。家庭科室に来たのは、包丁があるからだったのか。逆さに握られた出刃包丁の刃は鵜月の腹に向いている。鵜月はブレザーを脱ぎ、シャツをたくし上げ、腹部を露わにしていた。
「ま、待って!」
宇尾が鵜月の中に消えた……それを言葉どおりに捉え、すなわち、宇尾が鵜月の中にいるとでも解釈しているのか? いや、そういう逃避なのか? やはり単に後を追って死のうとしているだけ? 分からない。分からないが――
鵜月は包丁を自らの腹目掛けて振り下ろした。
5
うつ伏せに倒れた鵜月の身体を中心に、床を大量の血液が広がっていく。
私はそれを見下ろし、途方に暮れていた。
「あー、死んじゃったッスね、これは」
場違いに明るく、淡々とした声が聞こえて振り返ると、家庭科室に見知らぬ男子が這入ってくるところだった。
「誰?」
「あれ、知らないッスか? 巫和正太郎くんッスよ。貴女は憂端梢さんッスよね」
「巫和、正太郎……」
一瞬だけ、聞き覚えがあるような気がしたが、やっぱり知らない。
「それにしても、今回も御加賀先輩のお話は見事だったスね。巫和くん、壁に耳つけて聞いてたんス。いやはや感心したッスよ。まあでも、人間誰しも、誰か他人を取り込むまでもなく、自分の中には複数人の人間が潜んでるものッスよね。巫和くんもそういう感じ、常にしてるんスよ。自分の中で二人以上の自分が葛藤してる感じ。ほら、財布を拾ったときに脳内で天使と悪魔が浮かんでくるみたいなイメージは定番じゃないッスか。あれもそのバリエーションと思うッスね、巫和くんは。憂端さんはどうッスか?」
馴れ馴れしい奴だ。だがその気さくな態度とは裏腹に、その目は注意深く私を観察しているかのようだった。他人からそういう値踏みされるような視線を向けられるのが嫌な私は、途端に吐きそうになってくる。
「無視ッスか。まあメゲずに続けるッス。はい、ただそんな御加賀先輩の話ッスけど、今回は裏目に出たもんスよね。こんな救いも何もない結末に至るなんて。確固とした結末を迎えてしまうなんて。罪は指摘しても決して罰しない、お優しいお優しい御加賀先輩ッスけど、鵜月さんには少々毒が強すぎたみたいッスね。いや、でも悪いのは鵜月さんだと思うッスよ。器が小さかったんスよ、鵜月隘穂さん。御加賀先輩に倣って名前を云い間違えるとしたらアーホさんってところッスかね。あはは。でも、なるべくしてこうなったんだとも思うんスよ、巫和くんは。いよいよ新展開って云うか、変調って云うか、話が動き出したなって。脱却したなって」
「何が云いたいの。分からせる気ないでしょ、お前」
「巫和くんに分からせる気があってもなくても、貴女に分かろうとする気がない以上、さして意味はないッスよ。悲しいことッスけど」
淡々と話しながら巫和は、私の隣を通過し、今も広がり続ける鵜月の血の中に踏み入った。そして鵜月の死体の傍らにしゃがみ、まじまじと観察する。
「おい、お前――」
「巫和くんは、ただ貴女とお話したいだけッスよ、憂端さん。ちょっとお話したいだけなんス。それに伴って、いくつか質問したいだけなんス」
巫和は立ち上がって、こちらに向き直った。
「憂端さんって、御加賀先輩と一緒に転校してきたんスよね?」
「……それを聞いて、どうするつもりなの」
吐き気が、吐き気が込み上げてくる。
「確認ッスよ。だって巫和くんも御加賀先輩、それから貴女と同じ高校から転校してきたんスから」
駄目だ。もう我慢できない。吐いてしまいそう。
「ということは、美化委員会の泡槻さん、泡槻栖さんとも巫和くんは同じ高校から転校してきたってことッスよね」
巫和はじりじりとまた私に近づいてくる。
「でも泡槻さんも巫和くんなんて知らないとばかりだったんスよ。残念至極ッスよね。いや、あの高校についての話でもして盛り上がりたいんスよ、巫和くんは。だから早く泡槻さんとも貴女とも打ち解けたいんスよ」
もう巫和は息がかかりそうなくらい間近にいる。
「そうッスね、憂端さん、御加賀兄妹のお話にでも花を咲かせませんか? きっと楽しいと思うんスよ。もちろん、御加賀先輩も交えて。憂端さんもご存知ッスよね? 御加賀清吉の妹、御加賀清子がどうなったか」
「知らない」
知らない。本当だ。知らない。知らない。知らない。知らない。
「知らない?」
巫和が意外そうな顔をする。それからその口の端を吊り上げて、
「なおさら、早いうちにお話しないとッスね。だって美化委員会の委員長のことッスよ? そのルーツのことッスよ? 御加賀先輩が貴女達委員のみなさんを妹の代替品にしてるって話ッスよ? 知らないのはまずいでしょう。御加賀先輩は――」
「巫和くん」
聞き慣れた御加賀の声が響いた。私は金縛りにあったかのように動けなくてそちらを確認することも叶わないが、彼が私を追って此処までやって来たのは分かった。
「今日は見学を許した憶えはないんだが、何をしているんだい?」
私の目の前で、家庭科室の入口に目を向けている巫和が、屈託ない笑みを浮かべる。
「なんスか、えらく棘のある云い方に聞こえるッスよ。穏やかじゃないッスね。巫和くんはただ、同級生の女の子に挨拶してるだけじゃないッスか。転入してまだ一ヶ月、友達が欲しいんスよ」
「なら梢くんは最もおすすめできないな。友達とか、そういう俗世間的なものから一番かけ離れた子だよ」
「そのようッスね。まだ少しお話ししただけなのに、もう嫌われちゃったみたいッス。巫和くんの顔を見て、今にも吐きそうッスよ。いや、落ち込むッスね。ところでそろそろ血のにおいがきつくて敵わない。上履きも汚れちゃったし、今日のところは帰ることにするッス。お疲れ様ッス、御加賀先輩」
巫和は私の隣を通り過ぎ、どうやら家庭科室から出て行ったようだ。途端に私は身体の硬直が解けて、床に膝をついた。御加賀がそんな私のもとに駆け寄ってくる。
床に血まみれで倒れている鵜月を見て御加賀はすべてを察したようだったが、その顔にはいつも通りの微笑みが浮かんだままで、私を心底安心させてくれる。
「梢くん、偉いよ。君はいま最悪の気分かも知れないけど、君が鵜月くんを追いかけたのは、とても偉いことだ。僕が保証しよう」
労いの言葉をかけてくれる御加賀。私は何もできなかったのに……。
「……吐きそうなの。もう嫌なのに。吐くたびに、今度からは絶対に吐かないって決めるのに」
「吐いていいよ。鵜月くんが血だらけにした床と一緒に掃除するからね」
私はそれから、胃の中が空っぽになるまで吐き続けた。




