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後編

▼ 5


 転送されたレムミラスが新たなゾーンの中に歩み出てくると、ブーンドックが出迎えてくれた。

「お疲れさまです」

「全員、無事か。まずは成功だな」

 レムミラスは周囲を見渡した。〈妖精の輪〉は生い茂る樹木に囲まれており、円形に配置された石柱が草地に影を伸ばしていた。シブヤでは昼過ぎだったが、ここではまだ午前中らしい。

 時差の感覚からしても、ここが中東サーバーのフィールドであるのは確かなようだ。

 但し、朝だと云っても太陽は既に強烈な陽射しで輝いている。上空は雲ひとつ無く晴れ渡っていた。

 自分でもゾーンの情報を視界に表示させて確認したが、確かに地名や他の諸元は読むことの出来ないアラビア文字風に記述されている。諦めたレムミラスは風景から何か読み取れないか周囲を見渡してみた。

 木立の向こうには報告にあったとおり、白っぽい砂丘の一部が見え隠れしている。どうやら四方を小高い砂丘に囲まれた窪地のような場所に、そのオアシスは存在しているようだった。どの方向を見ても砂丘の向こう側を見通すことはできないらしい。

 そして一方の方向には、白い砂と対照的に青くきらめく水面が木々の間から見え隠れしていた。周囲の乾燥した砂漠環境の中にあるしては、不自然なまでに清廉な水が湧き出しているらしい。その水は小さな湖と云っても差し支えないようだった。

 現実のようには思えないその美しい環境は、あるいはゲームとしてのイメージを優先させた結果であるのかも知れなかった。

「他の皆は?」

「あっちで恵方良さんの水浴びを見物しています」

「は?」


 行ってみると、きらめく水面の中に恵方良がいた。着ていたものは全て湖畔に脱ぎ捨てられており、一糸まとわぬ裸体が眩しかった。

 ゼン=ゼンと雲隠仁左がニヤニヤと笑みを浮かべて木陰の中に陣取っている。

「おう、やっと来たか。遅かったな」と恵方良が水の中から手を振った。まったく何も隠す気がないようである。

「ナニヲシテイル」

「暑いんだよ。仕方ないだろう。こんなところで四〇分も待ってたから汗だくだ。君らもどうだ。涼しいぞ」

「いや、あっしらは見ているだけで」

「目の保養だねえ」

「はっはっは。見たければ好きなだけ見たまえ」

「エボさん、太っ腹ぁ」

「何を云う、ゼンさん。このスレンダーな体型のどこに余分な肉があると云うのかね」

 恵方良はまったく恥じ入ること無く泳いでいる。考えてみれば、プレイヤーとしてはこの場にいるのは全員が成人男性なのだから、何も不都合なことは無い。特に見られる側が気にしていないのなら、とやかく口を出す筋合いもない……筈である。

 しかし釈然としないものはある。〈大災害〉後の生理的な臨場感を伴う世界においては、これはこのまま放置していてはいけない問題であるような気がしてならなかった。この世界なりの公序良俗を定義する必要があるのではないか。

 いや、元の世界でも、男同士でも、やっぱりこれはイカンだろう。


「姐御は玉の肌でゲスなぁ」

「仁さん、前屈みだぞ」

「こりゃお恥ずかしい。へっへっへ」

 近い将来、男が男を襲う事例が発生するのではないかとレムミラスには思われてならなかった。

「ゲームだったときは全裸になんてなれなかったが、こうしてリアルに脱げるというのは、なかなか開放的だな」

「見せつけなくてもいい。お前と違って貧乳属性はないんだ。誘惑したけりゃもう少し肉をつけろ」

「だがそのおかげで性別が食い違っても、然したる不都合はないぞ。いやぁ、巨乳に設定した女性キャラに入ってしまった男性プレーヤーは、今頃は難儀しているだろうねえ」

 恵方良の云うとおり、〈エルダー・テイル〉はオンラインゲームなのだから、プレイヤーは自分の性別や年齢と無関係にキャラクターを設定できる。ただそれが現実化した今となっては、その趣味嗜好が裏目に出てしまった者も沢山いると思われた。

 現実の肉体と身長差や体重差がありすぎる場合、単純な動作でも感覚がズレると云うのは容易に予想できることだが、幸いにして〈自決観測隊〉のメンバーはほぼ標準的な体型の者が多かった。

 一番、逞しい体型なのはブーンドックだったが、訊いてみると「車の運転と似ていますね。車両感覚が身についていれば不都合は無いです」と云う回答だった。

 ようやく恵方良が岸辺に上がってきた。濡れた髪や尻尾から水を滴らせているのが実になまめかしく、また蠱惑的だった。孤尾族の種族特技〈狐の蠱惑〉が発揮されているのだ。

 ゼン=ゼンと仁左が惚れ惚れと見とれている傍らで、レムミラスは心中で何度も「だが男だ」と言い聞かせた。

「こんな青春映画あったよな。少年と少女が砂漠のオアシスで二人きりになるやつ」

「貴様、フィービーを愚弄する気か。さっさと服を着ろ」


 ◆


 ようやく〈自決観測隊〉は本来の目的である探査に着手した。

 具体的には〈妖精の輪〉によって到着したゾーンの特定作業であるが、初回からなかなか難しい作業になってしまった。

 だが、ゼン=ゼンは「やりがいのある仕事だね」と張り切っていた。砂漠の強烈な陽射しを避ける為にひとまず黒いコートを脱いで頭から被り直したゼン=ゼンは、サブ職業である測量士のアイテムを組立て、周辺地域の地形を計測するべく準備し始めた。

「これが測距儀だ。光を使って距離を測定し、同時に角度や方位も測定する。僕の秘密兵器、秘宝級アイテム〈高精度測量儀(トータルステーション)〉さ」

 伸縮性の多段式三脚を伸ばして立った台の上には小さな箱形のアイテムが乗っており、円盤状に磨かれた水晶体がはめ込まれていた。更にゼン=ゼンは自分の魔法鞄から小さな反射体を取り出した。

「仁さん、手伝ってくれるかい」

「ようがす。何でもお手伝いいたしやすぜ」

「じゃあ、これを持ってあそこの砂丘の上に立ってくれないか」

「あそこを……登るんでやすか」

「そう。この測距儀から出た光をこいつが反射することで測定する。細かいことは念話で指示するから」

「……合点だ」

 三度笠を被り直し、諦めたように首を振ってから、仁左は砂丘の急斜面に向かって駆けだしていった。

 同様の測定を繰り返すことで正確な地形データを収集するのだとゼン=ゼンは説明した。どうやら仁左はその後も何度も走り回る羽目になるらしい。

「測量は力仕事だからね」とゼン=ゼン。

 把握した測量結果を基にして地形を計算し、筆写師では及ばぬほどに精密なゾーンの地形図を作成できるのが、この測量士と呼ばれるサブ職業の特徴だった。

 一方、レムミラスの方はオアシス周辺の景観をスケッチするのに余念が無かった。サブ職業である画家の技能をフルに発揮し、瞬く間に描き上げられていく風景画は驚くほど正確だった。

「この世界には写真がないからな。画家はゲーム時代にはフィールドの風景画像やスクリーンショットを加工できる便利な職業だったんだが、今では自分がカメラ代わりだ」

「でもゼンさんとレムさんの技能で、かなりの情報収集にはなりますね」

 恵方良とブーンドックは会話を交わしながら、まだ測量の及んでいない側の砂丘の斜面を登っていった。

 地形データの他にも、周辺に棲息するモンスターの生態や、現地の〈大地人〉とのコンタクト等も重要だと考えられていたが、この海外サーバーに追加された新規ゾーンには〈大地人〉の集落が見当たらなかった。

 恵方良としては、現地の〈大地人〉から〈妖精の輪〉を使用して出入りしている不審な者──自分達のことではなく、〈造物主(クリエイター)〉と思われる存在のことである──についての聞き込みも行いたかったところである。

「このゾーンは何の為に作られたんでしょう」

「新たなクエストの出発点としてかな。例えば、あそこへ行くための」

 砂丘に登ってみると、広大な砂漠の景観が飛び込んできた。そして果てしなく連なる砂丘の向こうに、蜃気楼が浮かんでいた。何やら街のような遺跡のような人工的な建築物の映像が空中に揺らめいている。

「あそこに行けば、何かのイベントが発生しそうですね」

「だが、それは我々の当面の仕事ではないな。とりあえず記録だけさせよう」

 恵方良が念話でレムミラスを呼びつけると、エルフの画家はぼやきつつも砂丘を登って来た。


 レムミラスがスケッチしている傍らでしばらく蜃気楼を眺めていると、彼方の砂丘に広範囲に砂煙が立ち昇るのが見て取れた。蜃気楼が曇り、かき消されていく。

「砂嵐か?」

「いや……あれは中で何か動いているな。生き物だぞ」

「まさか」

 この距離から見えるほどの生き物がどれほどの大きさになるのか想像して恵方良は身震いした。

 だがそれは幻ではなく、砂嵐と見紛うほどに大規模な砂煙を立てて、何かが砂の海の上を移動しているのだった。

「ブーンさん、君にはあれが何に見える?」

「ロンガ砂漠で似た奴を見たことがあります。〈砂蚯蚓(サンドワーム)〉ってヤツですが」

「〈砂蚯蚓(サンドワーム)〉は体長一〇メートル程度だろう。だがあいつはその何十倍もありそうだな」

「サンドワームの親玉だ。〈砂蚯蚓(すなみみず)〉をサンドワームと呼ぶなら、あいつの呼び名はひとつしかない」

「〈砂蟲(シャイフルド)〉」恵方良とレムミラスがきれいに唱和した。

「誰か乗ってますよ」とブーンドックが云うと、恵方良は露骨に嫌な顔をした。

「逃げよう」

「え、どうして。現地の〈大地人〉に話を聞きたかったんじゃ?」

「勘弁してくれ。フレーメンのサンドライダーだぞ。とっ捕まったら全員、殺されて身体中の水を搾り取られるに決まってる」

「どうして判るんですか」

「そういう元ネタがあるの! とにかく隠れろ。撤収準備だ」

 オアシスに向かって砂丘の斜面を転がり落ちるように三人は駆けだしていた。走りながら恵方良がゼン=ゼンに念話をかける。

「ゼンさん、測量はもういい。撤収だ」

「いや、測量はもう大方終わったんだけどね。ちょっと問題が……」とゼン=ゼンの声が応えた。

「何を云ってる。すぐ逃げないと──」

 オアシスの茂みを掻き分け、ゼン=ゼンと仁左の姿を探す。二人はオアシスの湖畔に両手を上げて立っていた。二人の回りを数人の凶悪な面構えの男達が武器を手にして取り囲んでいる。

「遅かったか」


 ◆


 五人は一箇所に集められて跪かされていた。両手は頭の後ろで組まされている。

 突然現れた砂漠の民は、五人には判らない言語で何か話し合っている。

「ちんぷんかんぷんだな」

「新規ゾーンだから日本語の自動翻訳システムがまだ当たってないんだろ」

「少しでも話が出来れば良かったんだが……」

「お前のトークで何とかならんのか。自分は救世主だとか何とか云ってさ」

「バカ云え。〈道の短縮〉もしてないのにクイサッツハデラッハが名乗れるか」

 恵方良とレムミラスの会話の内容はブーンドックには半分も理解できなかった。

「僕ら殺されるんでしょうか」

「多分な」

「なら計画通りじゃないですか」

「全員、殺されてはアイテムの回収が出来ん。最後の一人は〈帰還呪文〉で帰らないと」

「何スか、この人達は。タリバンかイスラム国でやすかい」

「その何倍も怖い連中だよ。まぁ、ムジャヒディンには違いないんだが」

 小声でひそひそ話していると、砂漠の民の一人が大声で何か喚いてレムミラスの頭を小突いた。恐らく黙れと云ったのだろう。しかめ面をして黙り込むレムミラスだったが、ブーンドックはよく事情が飲み込めていないようだった。

「この人達、〈大地人〉ですよね。こっちの方が強いんじゃないですか?」

「相手のレベルが判らんだろう。イベント用に強化された〈大地人〉なら太刀打ちできないかも」

「でも、ステータス画面にレベルが表示されてますが」

「アラビア語だろ。読めるのか?」

「いいえ。でもアラビア数字なら判りますよ。普通の数字だもの」

 ブーンドックの言葉に、恵方良とレムミラスは顔を見合わせた。


 結局、理解できない外国語と怖ろしげな雰囲気に呑まれていただけなのだと判明し、あっと云う間に形勢は逆転した。一般の〈大地人〉が九〇レベルの〈冒険者〉に敵うわけがないのだった。

「てっきり、何か考えがあって拘束されているのだと思ってたんですけど」

「面目ない。ビビッてただけでした」

 ブーンドックの前で恵方良はひたすら恐縮して頭を掻いた。今度は砂漠の民の方がひとかたまりにされて縛り上げられている。

「こいつら、どうしやすか?」

「そのままでいいだろ。もがいている内に縄は解ける」

「やっぱ、最初の内は色々と失敗することもあるねえ」

「お前が思い込みで気圧されるからいかんのだ」

「お前だって釣られてたくせに」

 恵方良とレムミラスが云い合っていると、傍らで縛り上げた砂漠の民の男達が何やら身をよじって恐怖の叫び声を上げた。見れば一人の男の衣服に小さな虫がたかっている。

「何でえ、虫一匹くらいで大の男が情けねぇ」仁左が払いのけてやろうと手を伸ばす。

「いや、仁さん、そいつは──」

「え?」

 次の瞬間、その小さな生物は仁左の手の甲に、鋭い針を突き立てていた。

「──蠍だろ。〈毒蠍(スコーピオン)〉の一種だと思うんだが」

「そんな。うわ、なんか目眩がしてきやした。ちょっと苦し」

 ばたりと仁左が倒れる。そして雲隠仁左の身体は光の粒子と化して消失した。何点かの所持品が後に残される。

「すごい猛毒だ」吸い寄せられるように恵方良は仁左の倒れた跡に手を伸ばす。

「バカ、何してる」

「〈毒蠍(スコーピオン)〉系の新種かも。採取しておこう。新しい呪薬が出来るかも知れん」

「そう云えば恵方良さんは毒使いでしたね」とブーンドック。

 魔法鞄から回復用の薬草を入れていた信玄袋を取り出し、無造作に小さなモンスターをつまみ上げて放り込んだ。無論、その過程で恵方良の手は刺されまくっていた。

「元気がいいな、こいつ。おお、凄い効き目だ。目がまわ」

 云い終わらないうちに恵方良も光と共に消失する。毒物に耐性のある恵方良ですら、数秒と保たなかった。

「あ。こっちにもう一匹いるぞ」と、ゼン=ゼンが砂漠の民の足下に這い寄ろうとしていた〈毒蠍(スコーピオン)〉に手を伸ばした。

「おい、ゼンさん」

「手っ取り早く死に戻れると思って。うん、これは効く──」

 ゼン=ゼンもまたばったり倒れると、その身体は光となって消失していった。縛り上げられた砂漠の民達は驚愕の表情を浮かべて〈冒険者〉達を見つめている。次々に致命的な生き物に恐れげも無く手を出しては絶命して消えてしまうのだから、まったく理解出来ないのだろう。

「じゃあ、あとはよろしくお願いします」

 ブーンドックもまたレムミラスに一礼して、ゼン=ゼンに続いた。

「もう、しょうがないなあ」

 ブツブツと文句を垂れながら、レムミラスはあちこちに散らばったアイテム類を回収していった。ついでに砂漠の民の縛めを解いてやるが、怯えた男達はもはや抵抗する気も無いようだった。

「まったくお騒がせして申し訳ない。それじゃ失礼しますよ。トラウマにならないでね」

 〈帰還呪文〉を唱えるとレムミラスの身体も輝き始める。耳の尖ったエルフは片手を上げた。中指と薬指でVサインを作る。

「命、常しえに栄えあれ」

 最後に見た光景は我先に逃げ出していく砂漠の民の後ろ姿だった。



▼ 6


 白い砂が敷きつめられた渚に恵方良は立っていた。静謐で神聖な空気が一帯に満ちている。緩やかに打ち寄せる波は透き通るように美しく、それ自体が淡い光を放っているかのようだった。

 見上げればそこには満天の星々。その中のひとつは一際大きく、青く輝きながら暗黒の淵に浮かんでいた。

 恵方良は今いるゾーンの情報を視界に呼び出してみた。

 ──〈Mare Tranquillitatis〉。

 目をすがめてその表示を眺める。

「ま、まれ・とらん……とらんくいりたちす?」

 また読めないゾーン名称だと恵方良は憮然とした。アラビア語よりはマシだが、言語に達者な方ではないので、これがどこの国の言葉なのか判らない。英語でなさそうだ。

 しかしここがどこであれ、幻想的で美しい景観はつい先刻まで見ていたビジョンの後味の悪さを洗い流すかのように感じられた。

 背後で砂を踏みしめる音がして、ブーンドックが現れた。


「やあ」

「どうも」

 軽く会釈を交わし、二人は波の寄せ来る彼方を眺めた。

「死ぬ度にこんな綺麗な場所へ来られるなら、なかなか悪くないじゃないか」

「その前に見る夢が最悪なんですけどね」

「あれか……。なかなか強烈だったな。ブーンさんは毎回、あんなのを見てるのかい?」

「ええ。だいぶ慣れましたけどね」

「強いな、君は」

 それは今まで生きてきた人生の中でも、後悔と無念の感情を最大限に呼び覚ます場面の再体験だった。今まで忘れ去り、記憶の底に封じてきた出来事がはっきりと思い出され、居たたまれない気持ちに苛まれる。

「一瞬、タイムスリップでもやらかしたのかと思ったよ。あるいはPTSDの患者が味わうフラッシュバックと云うのは、ああいうものなのかな」

「恵方良さんはどんな夢を……。あ、いや、僭越でした」

「いや、構わんよ。私の場合は、まず女房が離婚を切り出してきたときに戻ってしまった。我が人生、最悪の時ってやつだ。他にも親が死んだときの場面にも出くわしたな」

 恵方良が既婚者だったというのは初耳だった。レムミラスの話では二人とも独身だと云うことだったが、今独身だからと云って過去も独身だったとは限らない。あるいは恵方良にはレムミラスにも語らなかった過去もあるのかも知れない。いや当然、あるだろう。

 他人のプライベートに踏み込んでしまい、ブーンドックは白面のマスクの下で顔を歪ませた。

「あの、なんか、すいません……」

「よいよい。気にするな。むしろ話せば楽になる」

 二人して波打ち際をゆっくりと散策しながら、ぽつぽつと恵方良は話し続けた。

「思えば、恥の多い人生を送ってきたもんだ。太宰治でなくても、誰だって人生は後悔の連続だな。色んな場面を思い出したよ。就職の採用試験で面接に失敗してしまったときのこととか。大学受験に落ちたときのこととか。あのとき、ああすれば良かった、こうすれば良かったと思うことばかりさ」

 ブーンドックは何も云えず、ただ黙って聞いているばかりだった。そうすることしか出来なかった。それ以外に何が出来ただろう。

 ひとしきり思い出話を披露した後、恵方良は不意に口調を変えた。

「ただまぁ……判らないことがある」

「何がですか」

「何故、苦い記憶ばかり味わうのだろう。人生、そればかりと云うわけでもあるまい。幸せだった頃の記憶を何故、味わえないのだろう。それがこの世界の復活の仕様なのだとしたら、そんなものを味わわせてどうするつもりなのか。これは〈造物主(クリエイター)〉を見つけたら、是非とも訊いてみたいところだな」

「そうですね」

「それとも〈造物主(クリエイター)〉は、我々のメンタルを鍛えてくれてるつもりなのかな。実はセルデシアは精神の修行の場だったのです、とかな。ふん、大きなお世話だ」


 彼方から低い鐘の音のような音が響いてきた。二人は足を止めてその音に聞き入った。どこか郷愁を誘う、物悲しい音色だった。誰かが泣いている、あるいは誰かを呼んでいるのだろうか。そう思わせるような遠鳴りだった。

「その辺に灯台でもあるのかな」と恵方良。

「灯台、ですか」

「うん。昔、読んだ小説のことを思い出してしまったよ。短編でな、灯台に恋した恐竜の物語だ」

 何万年もの太古から深い海の底に生き続けた恐竜の最後の一頭が、遠くから聞こえてくる灯台の霧笛の音に引き寄せられてやって来ると云うストーリーだ、と恵方良は語った。自分と同じ声で吠える灯台は、恐竜にとって残された唯一の仲間のように感じられたのだった。

「この海に恐竜はいないでしょう」

「そうだな、灯台も見当たらない。ならばあの音は何だろう。誰が誰を呼んでいるのやら」

 答えのない問いを恵方良は独り言ちた。


 波打ち際を歩き続けているうちに、いつの間にか一帯にチラチラと燐光を放つ雪のようなものが舞い始めていた。

 その淡い光の中に、また一人の影が現れた。ミラーグラスに黒コートのゼン=ゼンだった。

「エボさん。それにブンさんも」

 ブーンドックは気さくに手を振るゼン=ゼンのミラーグラスの下で、彼の頬が濡れているのを見て取った。ゼン=ゼンは静かに泣いていたらしい。ただ彼はそれを隠すつもりもないようだった。

「また泣いちゃったよ。死ぬ度に見てしまうものらしいね、アレは」

「キツい体験だったかい」

「まあね。事故ったときのこととか。医者が告知したときのこととか。色々さ」

 それがどんな事故で、どんな告知が為されたのか、ブーンドックには訊くことが出来なかった。恵方良は知っているのか、あるいは深く知るつもりがないのか、軽く受け流した。ゼン=ゼンの方でもそれ以上、語るつもりはないらしく、不意に話題を変えてきた。

「ここはどこなんだろ。あの世の入口かな。海のように見えるが、実は三途の川とか。僕らは彼岸まで来てしまったのかな」

「この世の向こう岸と云う意味では、その通りかもな」と恵方良は云って、燐光の舞う暗い空を指さした。青く大きな球体が深淵の中に浮かんでいる。

「元いたところはあそこだろう」

「あれは……どう見ても地球のように見えるね」

「セルデシアだ。〈ハーフガイア・プロジェクト〉によって作られたミニ地球だよ」

「するとここは月か」

「そのようだな。私の世界モデルは修正する必要があるようだ。〈造物主(クリエイター)〉の自家製宇宙は思ってたより広いらしい」

 月面であるにしては、水も空気も存在しているのが不合理だったが、それを疑問視しても始まらない。ここはそういうフィールドゾーンなのだ。

 恵方良はかがみ込んで足下の砂をすくい上げた。「これが月の砂(レゴリス)か。初めて見た」

「ここも新しい拡張パックで追加されたゾーンなのでしょうか」

「さて。普通のゾーンとは、ちょっと違うと思うね。かなり特殊な場所だろう」

「エボさんの云ってた〈造物主(クリエイター)〉の本拠地と云うのも、案外ここにあるんじゃないのかい」

「是非、探索してみたいが、時間が無いようだ」

 この場に留まっていられる刻限が迫っていると、誰に急かされたわけでは無いのにその場の全員がそれを感じていた。

 そして各自がなにがしかの供物を、この海に捧げねばならないこともまた、皆が承知していた。同時に、宙を舞う淡い雪片も、打ち寄せる波も、全てが〈冒険者〉の記憶の欠片なのだと、誰が告げるでもなく理解していた。

 各人が僅かながら己の毛先を切り取って海に撒いていく。単純だが厳粛な儀式のようだった。そうやってこの海は〈冒険者〉の思いをまた僅かに増やしていくのだ。

「〈追憶の海〉か」

「詩人だね」

「いや、そういう昔のヒット曲があるんだが」

「ブーンさんも死ぬ都度、こうして髪の毛や何かを流してきたのかい」

「ええ。ただ、そのことは復活して目が覚めると忘れてしまうようです。ここへ来るとまた思い出すんですけどね」

「そうか。忘れてしまうのか……」


 恵方良はつい先日、ブーンドックやレムミラスに語ったことを思い出していた。自分達がセルデシアにいる間の、現実世界での自分達の有り様の可能性。

 ひとつは意識の戻らない昏睡状態が続いている可能性。

 あるいは時間経過など一切ないと云う可能性。

 だがもうひとつ、恵方良には考えていることがあった。こうして死ぬ度に〈冒険者〉が僅かながら自分の一部を〈追憶の海〉に流さねばならないことが、第三の可能性が現実味を帯びていることを感じさせた。

 月面にあるこの海が、〈冒険者〉の記憶や、思念の集合であるなら、それを提供している自分達もまた、情報の集合体に過ぎないのではないか。思い返せば、日々〈冒険者〉の身体はエントロピーの法則に反して修復され、汚破損が解消されている。それをいつの間にか自然なこととして受け入れているが、それこそが自分達が物理的な存在ではない証拠なのではないか。

 自分達が単なるコピーである可能性。それが恵方良が怖れていることだった。

 実は現実世界の自分達は今でも変わらぬ日常を過ごしているのかも知れない。セルデシアに〈冒険者〉として存在している自分達は、ある瞬間に写し取られたコピーに過ぎず、ただ自分達が人間であると云う記憶だけを抱えているのではないか。

 自分達が人間であると思い込んでいるだけの、単なる情報体。今まで一度として実体を持った人間であったことなど無いのかも知れない。

 その可能性は、例えこの場で話したことが全て忘れ去られてしまうとしても、決してブーンドックに告げてはならないことだ。いや、どこにいようと口外してはなるまい。ブーンドックだけでなく、大抵の〈冒険者〉はこの考えに耐えられないのではないか。

 帰還するべき現実世界など端から存在しないのだと、再会するべき妻子の元には最初からもう一人のオリジナルの自分がいるのだと、そんな残酷なことをどうして告げられるだろう。


「どうかしましたか?」

「いや。何でもない。そう云えば仁さんはどうしたのだろう。一緒に死んだのなら、ここで会えてもいい筈だが」

「どこかその辺りにいるのかも知れないが、広い海岸だからね」

 渚の彼方から再び鐘の音にも似た遠鳴りが響いてきた。

「時間だ」

「そうですね」

「また、ここへ来るぞ。何度でもな。そのうち、死ななくてもここへ来る道を見つけてやろう。〈自決観測隊〉の名にかけてだ」

 やがて各人の周囲に闇が濃くなり、空を舞う雪片も、潮騒の音も、謎に満ちた遠鳴りも、すべてが忘却の淵へと沈んでいった。


 ◆


 見上げると大聖堂の天井があった。ドーム上層の明かり取りから差し込む光が聖堂の壁画を美しく染め上げていた。

「目が覚めたか」

 レムミラスの声がした。白い渚の記憶は既に失われていた。そのくせ、その前に見たビジョンについては鮮明に覚えている。こちらの方こそ、さっさと忘れてしまいたい記憶だった。恵方良はうなり声を上げた。

「酷い夢を見た。あんまりだ」

「皆、そう云うな。そんなにひどいのか」

「お前も死んでみれば判る。別れる前の女房が不倫相手の子供を妊娠したと云って母子手帳を突きつけてくるんだ」

「それは……ひどいな。うん」

 ゆっくりと身を起こして石造りの寝台に腰掛けると、レムミラスが水筒を差し出した。恵方良はそれを受け取り一口飲んだ。何も加工されていない水は、それだけで有り難かった。

「他の皆は?」

「いるよ。全員、無事だ」

 首を巡らせると、大聖堂の中に並んだ石造りの寝台の上に〈自決観測隊〉のメンバーが思い思いの格好で身を起こしていた。恵方良の覚醒が一番遅かったようであるが、ゼン=ゼンもまだ軽い目眩があるのか額を押さえて顔をしかめている。

 レムミラスは寝台を回って、メンバーを介抱していった。

 多少の倦怠感はあるものの、総じて復活後の体調は良好と云ってもよかった。この調子でなら、一日に数回の探査は可能だと思われた。

 回復の早かったブーンドックはもう寝台から降りて立ち上がっている。何度も復活を繰り返しているので慣れているのか、元より頑健であるのか、その回復スピードは恵方良やゼン=ゼンよりも早かった。


 その一方で、一人だけ回復が遅れている者もいた。

 雲隠仁左は目に見えて消耗しているようだった。寝台に座り直してはいるものの、がくりと肩を落として首をうなだれている。

 ブーンドックが近寄っても何の反応も無い。虚ろな目で床を見つめて小さな声で繰り返し何かを呟いている。

「ごめんなさいもうしませんごめんなさいもうしませんごめんなさいもうしません」

「仁さん?」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ」

 ブーンドックが仁左の肩に触れると、びくりとその身体が跳ね上がった。同時に裏返った声で悲鳴をあげる。口の端から牙が覗き、狼牙族特有の遠吠えのような声は静かな大聖堂の中で予想外の大きさに反響した。

「大丈夫ですか、仁さん。しっかりして」

 ブーンドックの呼びかけに、仁左の瞳が生気を取り戻した。浅い呼吸に何度も肩を上下させて周囲を見回す。ようやく自分がどこにいるのか思い出したようである。

「あ、あ、あっしは。あっしは──」

「落ち着いて。ほら、水だ」レムミラスが水筒を差し出す。仁左は無言で受け取り、空になるまで飲み干した。そして大きく深呼吸する。

「もう……大丈夫でさァ。ご心配……おかけしやした」

 仁左はそう云って空になった水筒をレムミラスに返したが、その様子があまり大丈夫でなさそうなことは傍目にも明かだった。


 ◆


 しばらく休憩した後、〈自決観測隊〉のメンバーは大聖堂を後にした。正面の階段を降りて、再び〈妖精の輪〉がある通りに向かってぞろぞろと坂道を下っていく。

 一日は終わっておらず、五月の陽射しはまだ明るかった。

 恵方良にもゼン=ゼンにも、特に異常は見受けられない。一団の先頭を行く恵方良は盛んに自分の見た夢が如何に酷いものだったか、自慢するかのようにレムミラスに語っている。聞かされているレムミラスは閉口しているようだが、恵方良はお構いなしである。

 ゼン=ゼンは特に何も語らないが、ミラーグラスに隠れた表情は平静そのものだ。

 只一人、雲隠仁左だけが覇気がなく、ひとり遅れてとぼとぼと付いてくる。

 ブーンドックは何度か短く振り返って、遅れてくる仁左を観察していた。仁左の態度は覚えのあるものだった。

 〈大災害〉が起こった当初、ログオフしようとしてブーンドックと共に何度か復活した〈冒険者〉の中に、今の仁左と似たような態度を取るものがいた。そして例外なくログオフの試みから脱落していった。

 ──これは駄目かも知れないな。

 冷静にブーンドックは分析していた。復活の際に見てしまう走馬燈のようなビジョンと押し寄せる悔恨の念に耐えられない者もいるのだった。

 だから再び一行が〈妖精の輪〉の前に立ったとき、仁左が尻込みしてもブーンドックは驚かなかった。

「勘弁して下せい。あっしにゃ無理でさぁ」弱々しく仁左は頭を下げた。

「どうしたんだ、仁さん」

「あんな……。あんなもんを見ちまうなんて、知らなかったんでさ。またあんなもんを見るのかと思うと、あっしゃ……」

 仁左の云う「あんなもの」が具体的にどのようなものなのかは判らなかったが、各人の体験からして、それはきっと相当に好ましからざるものだと云うことは予想できた。

 ──無理もないけど、ただの一度でへこたれてしまうのもどうかな。

 ブーンドックの感想は白面のマスクの下に隠され、誰にも伺い知ることは出来なかった。

「大丈夫だ、仁さん。次は仁さんが〈帰還呪文〉を使えばいい。まだたった一回じゃないか」

 恵方良が励ますように仁左の肩に触れた。その瞬間の仁左の反応は激烈だった。

「触るなあッ」

 悲鳴を上げるかのように叫んで恵方良を突き飛ばす。その勢いはあまりに強く、恵方良の身体は数メートル先まで飛んで尻餅をついた。

「……あ」

 我に返った仁左が呆然としていると、突如として空中に異変が生じた。細かいプラズマ放電の火花が仁左と恵方良の間の一点に生じていた。

 〈衛士〉がやって来たのだ。


 〈冒険者〉同士の諍いを防ぐ為、戦闘行為禁止区域に指定されたフィールドゾーンには〈動力甲冑〉を纏った〈衛士〉が出動する。アキバやシブヤといったプレイヤータウンがそれに該当し、そこでの戦闘行為は直ちに排除の対象となるのだった。

 いかなる監視機構によるものか〈衛士〉には〈冒険者〉が戦闘行為禁止区域内のどこで、どんなダメージを負ったのかが判るものらしい。

 そして今、仁左が恵方良を突き飛ばしたことは、明確な暴力の行使であると認められてしまったようだった。

 三体の〈衛士〉が放電と共に空中に出現した。

 かつて存在した魔法文明の遺産という設定の〈動力甲冑〉は、並みの〈冒険者〉など足下にも及ばぬ戦闘力を発揮する。最高レベルの〈冒険者〉でも取り押さえられるようにデザインされているのだから、当然と云えば当然ではある。

 それが三体。

「〈冒険者〉による戦闘行為を確認しました。これより行為者を制圧、拘束します。抵抗は無意味です」

 一体の〈衛士〉が宣言する。その声は非人間的なまでに冷厳だった。

 その背後から恵方良が取りなすように話しかける。

「いやいや、今のは戦闘行為じゃ──」

「下がってください」

 一体の〈衛士〉が立ちふさがり恵方良の言葉を遮った。〈衛士〉の任務遂行は半ば自動的であり、情状酌量の余地などないことは〈エルダー・テイル〉がゲームだった時から広く知られた事実だった。

 しかもリアルな世界へと変転を遂げたセルデシアで初めて遭遇する〈動力甲冑〉の偉容は圧倒的だった。そこいらのフィールドに出没する二〇レベルの雑魚モンスターとは格が違うのである。

「ひ、ひ……」

 仁左は声にならない悲鳴を漏らせて後退りする。通常、抵抗さえしなければ一時的な拘束だけで済まされるのだが、目前に迫る〈動力甲冑〉の巨体は仁左から正常な思考を奪ってしまったようだった。

「来るな、来るな!」

 腰から長脇差しを抜いて闇雲に振り回す。刀剣を抜きはしなくても、棒状の物体を振り回せば、迫ってくる〈衛士〉に当たるのは当然である。堅い金属音が響いた。

「〈衛士〉への戦闘行為を確認しました。対象を拘束から排除に切り替えます。抵抗は無意味です」

「おい、誤解だと云ってるだろう!」

 恵方良が一体の〈衛士〉の注意を引こうと、〈妖術師〉の杖で甲冑の背中を叩いた。軽く叩いただけであるが、それでも一線を越えてしまったらしい。叩かれた〈衛士〉がぐるりと向きを変える。

「〈衛士〉への戦闘行為を確認しました」

「あのバカ……」見守っていたレムミラスが頭を抱えた。

 その時、ゼン=ゼンとブーンドックが同時に動いた。

 武器を構えて仁左に振り下ろそうとしていた〈衛士〉に対して、ゼン=ゼンが割り込む。〈ファントムステップ〉の素早い動きは黒いコートの残像を引き、〈ドラッグムーブ〉で〈衛士〉の刀剣は軌道を逸らされて空を切った。

 一方、ブーンドックの方はもっと直接的だった。背負った処刑刀を抜き放つや、恵方良に迫っていく〈衛士〉に背後から〈サドンインパクト〉を叩き込む。重い金属同士がぶつかりあう音がシブヤの街に豪快に響き渡った。

 勿論、これらの行動が〈衛士〉に対して、なにがしかのダメージを与えることなどあり得ない。

「〈衛士〉への戦闘行為を確認しました。対象者は全員排除します。抵抗は無意味です」

 三体の〈衛士〉は断固たる行動に移った。

「抵抗は無意味です」


 周囲の〈大地人〉や〈冒険者〉が野次馬となって見守る中、任務を果たした〈衛士〉が再び宙へと消えていく。あとにはレムミラス一人が残されていた。

 地面に落ちて転がったままの杖や処刑刀、ミラーグラスや三度笠を拾い上げ、レムミラスは大聖堂の方へと踵を返した。

「もう。バカばっかり……」



▼ 7


 〈Mare Tranquillitatis〉。

 恵方良は目をすがめてそのゾーン情報を眺める。

「まれ・とらんくいりたちす」

 何度読んでも意味不明なゾーン名称だった。自動翻訳機能が追いついていないゾーンは一体、どれくらいあるのだろうか。

 白い月砂を踏みしめながら歩き出すと、今度は雲隠仁左はすぐに見つかった。浜辺に座り込んで海を眺めている。

「仁さん、そこにいたか」

「姐御」

 座り込んだまま、仁左は恵方良を見上げた。その頬には涙の跡が付いていた。

「男なのに姐御と呼ばれるのもおかしなものだが、まぁ今は女だからな」

 恵方良は仁左の傍らに立ったが、並んで座ることはなかった。そのまま腰を下ろすことなく、寄せては返す波を見つめている。しばらくの間、二人は無言だった。


「何故でやすか」唐突に仁左が口を開いた。

「何が」

「〈衛士〉はあっしだけを狙っていたのに」

「あの連中の頭が堅いのは前からだが、リアルになっても変わらないねぇ。まぁ、私の場合は積極的に君を庇ったわけではないんだが、ゼンさんとブーンさんが何を考えていたのかまでは判らないな」

「巻き添え食らわせて申し訳ないです」

「あの二人にはあとで君の口からそう伝えればいい。私にはそんなに気兼ねする必要は無いぞ。元より、何度も死ぬことが前提のギルドだと云ったろう。一度や二度、無駄に死んだところで構うことはない。復活することにも慣れておかないとな」

「なんであんな、突き飛ばしちまったりしたのか、自分でも判らなくて」

「私が不用意なことをしたからだろう。復活のときに見る夢の内容は人それぞれのようだし、最初の経験でパニクったとしても無理からぬ事だと思うぞ。かなり辛い夢だったのかな」

「ええ。結構」

「そうか。私の見た夢もかなり強烈な内容だぞ。別れる前の女房が──」

「それはレムの旦那に話していたのを聞きやしたから」

「あ、そう」

 話の接ぎ穂を失い恵方良が黙り込むと、間を置いて仁左の方から話し始めた。

「へへ。あっしの話は姐御やギルドの旦那方に比べれば、どうってこたァねぇ経験でやすよ。そもそも独り身でやすし」

 独身者だから大した経験はしていないと云うのは如何なものかと恵方良は思ったが、ことさら口を挟むのは止めておいた。待っていると、再び仁左は語り始めた。

「あっしの場合は、親の期待を裏切っちまったことが夢になって出てきやした。昔、ちょっと、警察の厄介になったことがありやして」

「ほう」

「未成年でやしたから大事にはならずに済みやしたが、親に迎えに来てもらうときが気まずかったス。母親が泣きましてね」

「ああ、親を泣かすってのは辛いな。私にも覚えがある」

「姐御もでやすか」

「怒鳴られたり叱られたりする方が、何も云わずに泣かれるより遥かに楽だ。あれは本当に堪える」

「そうスね。あっしの両親の場合も、こちらを全然責めなくて。母親はただ泣くだけ。父親の方も黙って肩を叩くだけで、何も云わないんでさ。それが堪らなく嫌でやした」

「ああ──」それで、と恵方良は腑に落ちた。仁左が自分を突き飛ばした原因はそこにあったのか。


 静かに仁左は詳細を語り始めた。それは恥を忍んだ告白だった。恵方良はただ黙ってそれを聞いていた。

「へへ。とんだお耳汚しを」

「いや。それはかなり辛い思い出だな。そういうのは思い返すだけで居たたまれなくなる」

「まったくで」

「あまり繰り返して味わいたくないものだろう」

「いや、それが──」

 意外なことに仁左は恵方良の言葉を打ち消した。二度目になると、最初の時ほどの衝撃はなかったのだと云う。

「辛いのは辛いんでやすが、打ちのめされるって程じゃないんで。こうして話を聞いてもらえたこともありますかね。今は随分と楽になりやした」

「そうだな。人に話すと楽になるというのはあるな。それに、この場で話したことは全部オフレコだ。目を覚ますと忘れてしまうそうだし」

「そりゃ有り難ぇ。それじゃあ、オフレコついでにもう一つ」

「うん?」

「あっしゃ旦那方ほど歳食ってるわけじゃねェんでやす。実はまだ三〇にもなってなくて。ブーンの旦那よりもまだずっと下でして」

「何だそんなことか。まぁ、レムミラスの奴は仁さんがかなり若いんじゃないかと疑っていたようだがね。別に〈自決観測隊〉はプレイヤーの年齢制限を設けているわけじゃないぞ」

 恵方良は仁左の告白を一笑に付し去った。

「姐御は太っ腹でやすねぇ」

「何を云う、仁さん。このスレンダーな体型のどこに余分な肉があると云うのかね」

 そこは笑うところなのだろうかと仁左が微妙な笑みを浮かべていると、水平線の彼方から以前にも聞いた鐘の音を思わせる遠鳴りが響いてきた。それは何かの合図であるかのように思われた。この浜辺に滞在できる刻限が近づいているようだった。

「この場所のことを後で思い出せればいいのにな。何とかここの情報を持ち帰りたいものだが」

「いや、忘れてくださいよ。さっきの話もオフレコですぜ」

「はは、それもそうか。じゃあそろそろ、行こうか」

「へい」

 恵方良の言葉に、仁左は砂を払って立ち上がった。


 ◆


 目を覚ますと、またシブヤの大聖堂の中だった。レムミラスの声が何やら説教口調で聞こえてくる。

「まったく、〈衛士〉に斬りつけたらどうなるかくらい判っていたろう」

「放っておけなかったんですよ」と疲れた声で弁明しているのはブーンドックだ。「それにほら、一回余計に死ねるわけですし、〈衛士〉に排除されて死ぬのはまだ一度も試したことのない死に方だったんで、ひょっとして何か違うかもと咄嗟に考えまして」

「それで。何か違うところはあったのか」

「いや。何も変わったところはないですね。普通の復活でした」

「やれやれ」

「でも〈衛士〉を攻撃して、手っ取り早く死亡カウンタを回すと云うのは、なかなか巧い手だと思いませんか」

「いやいやいや。その前に〈衛士〉を呼ばなきゃいかんだろう。その為の暴力沙汰を頻発させていたら、回りの恨みを買ってロクなことにはならんぞ」

「うーん。何もせずに〈衛士〉だけ呼べませんかねえ」

「他の手を考えろ。この世界、死に方は百万通りだって選べるんだ」

「いや、百万通りも必要ないです。六万五千五百三十五通りで充分。そうだ、恵方良さんに呪薬を処方してもらって、死ぬ手もありますね」

 そこまで聞いたところで恵方良はゆっくりと身を起こした。

「ただではやらんぞ。ちゃんとギルドの探査計画を手伝ってくれないと」

「お。目が覚めたか」

 隣の寝台には復活したブーンドックが座り込んでおり、傍らにはレムミラスが立っていた。手にしていた杖を恵方良に押しつけて、同時に説教の矛先がこちらを向く。

「わざわざ〈衛士〉をぶん殴るなんてどうかしてるぞ」

「うーむ。あの程度で攻撃だと認識されるとは意外だった」

「二度とやるなよ」

「はーい」

 二人のやり取りを見ていたブーンドックが吹き出した。「どっちがギルマスなのか判らないですね」

 するとゼン=ゼンの声が横から冷やかすのが聞こえた。

「表のギルマスと影のギルマスだよ。真のギルマスがどちらなのかは云うまでもない」

「そっちも目が覚めたか」とレムミラス。

 恵方良が首を巡らせると、反対側の寝台の上でゼン=ゼンが起き上がるところだった。更にその向こうでは雲隠仁左もうめき声を上げて目を覚まそうとしていた。


 復活した仁左はひたすら恐縮してギルドのメンバーに頭を下げまくったが、恵方良を始めブーンドックもゼン=ゼンも特に気にする素振りを見せなかった。

「自分の判断でやったことですよ」

「大したことじゃないない」

「まぁ、これも付き合いだ」

「付き合いで死ぬのかお前は」

 誰一人として仁左を責めず、口々に軽口をたたき合う〈自決観測隊〉の一同だったが、ふとレムミラスは真顔になって仁左に尋ねた。これ以上、一緒にギルドの活動を継続させることが出来るのかと問われた仁左は、数秒黙り込み、やがて顔を上げた。

「お願いしやす」

「いいのかい。何度も酷い夢を見ることになるぞ」

「承知の上でやす。正直、一回だけだと逃げ出していたところでやすが、〈衛士〉に斬られたおかげで二回目も無理矢理、見せられちまいやして、それで少し……慣れたと云いやすか、マシになりやした」

 仁左の言葉を聞いたブーンドックはマスクの下で意外そうに片眉を上げた。悪夢的ビジョンから逃げ出そうとした〈冒険者〉の中では、初めて見る反応だったからだ。ブーンドックの中で仁左の評価が上方修正された。

「それに……二回目に目が覚める前に、最初の時とは違う何かを見たような気がしやして」

「ほう」

「夢の内容は酷いものでやしたが、その後で誰かに励まされたというか、元気づけられたというか。うーん。女神か天女のようなお方に会ったような気もするんでやすが……」

「え、そんな美人が夢の中に出てくるなんてズルいぞ」と恵方良。

「何を云っとるんだお前は」レムミラスが呆れた声を上げる。

 説明しようとすればするほど、記憶は薄れ、不確かになって霧散してしまった。ゼン=ゼンが夢なんてそんなものさと、慰めるように言葉を添えた。恵方良も大きく肯いた。

「そうだな。人生辛いことは色々ある。大事なのは過去に囚われることなく前進することだ。立ち上がれもう一度、の精神だぞ」

「いいこと云うじゃないか」とレムミラス。

「うむ。ちなみに私の見た夢も酷いものだったぞ。別れる前の女房が──」

「それはもういいから」



▼ 8


 その日、二度目の転送も特に問題なく行われた。念のために再度、〈自決観測隊〉は一〇分間隔で〈妖精の輪〉へと進入したが、全員が同じフィールドゾーンに転送されていた。

 残雪の残るいずこかの山中だった。頭上には鉛色の曇天が広がっている。事前に念話が繋がるところからすると、ヤマトサーバー内の何処かではあるようだが、かなり北方の地方らしい。

 視界に呼び出したゾーン情報によると、名称は〈ペシルカンイ〉と表示されている。レムミラスはほっと安堵した。

「やれやれ。今度はちゃんと読める場所だな。どこだかは判らんが」

「いや、もう判ったよ」

 振り向くとゼン=ゼンが少し離れた大木の枝の上に立って彼方を見晴らしていた。レムミラスが苦労して登っていくと、黒コートの〈冒険者〉は木々の間を透かすようにして一方向を指さした。

 雪を被った樹木にところどころ遮られているが、見えるのはどこかの都市のようである。ここは郊外の山中であるらしい。

「ね。見覚えのある円形の城塞だろ」

 ヤマトサーバーの中で城塞都市と呼べるものは幾つかあるが、その都市はレムミラスにも判る特徴的な城壁を備えていた。それはヤマトサーバー五大都市の中で最も北に位置する都市、プレイヤータウンでもある〈エッゾ帝国〉の首都ススキノだった。


 場所が特定できたことで、〈自決観測隊〉の任務はほぼ終了した。簡単な測量とスケッチを済ませると、あとは帰還するばかりとなった。

「次は仁さんが殿だ。頼んだよ」

「へい。お任せを」

「まぁ、待て待て」

 レムミラスと仁左が帰還の段取りを打ち合わせていると、横から恵方良が口を挟んできた。そしてこのまま帰還するのは勿体ないと云いだした。

「せっかくススキノの近くにまで来ているのに。もう少し情報収集して行こうじゃないか。他所のプレイヤータウンがどうなっているのか知りたいと思わんのか」

「プレイヤータウンの近くにいるのは危険だぞ。ホームタウン設定が変更される怖れもある」

「城塞の中に入らなければいいんだろ。その前にどこかの〈大地人〉の集落でも見つけて尋ねてみればいい」

 結局、恵方良の提案に押し切られ、一行はぞろぞろと雪の残る山道を下り始めた。曇天ではあるが特に天候が崩れることもなく、午後もかなり過ぎてはいたがまだ周辺は明るいままだった。

「ススキノの近くにこんな〈妖精の輪〉があったとは寡聞にして知らなかったな」

「そうですね。大抵はトランスポート・ゲートを使いますものね」

「この辺りにゃ、巨人とかは出ませんですかね」

 仁左が周囲を見回しながら尋ねた。〈エッゾ帝国〉と云えば北方の巨人族との戦いが絶え間ないと云う設定の軍事帝国として有名な場所である。巨人退治のクエストも多数用意されていて、アキバを拠点とする〈冒険者〉であっても、一度や二度は必ず訪れたことのある街だった。

「シュマリナイ辺りの原野まで出て行けばともかく、ススキノにこんなに近いところでは巨人は出ないだろ」

 ぞろぞろと山を下っていくのに然程の時間は必要なかった。〈冒険者〉の健脚は意識していなくてもかなりの移動速度を出せるものらしい。


 ◆


 山を下りきると、もうススキノの城壁が間近に迫っていた。

「誰かいないものかな。ススキノのプレイヤーでも近くを通りかかれば話を聞けるのにな」

 それ以上、城壁には近づかず回り込むように移動を開始した一行は、しばらくして前方に大勢の人の気配を感じ取った。〈冒険者〉が多数、集まっているようだが、生い茂る針葉樹に阻まれて見通すことは出来なかった。

「何だ?」恵方良が首を傾げる。

 近づいていこうとしたところで、不意に別の方向から茂みを掻き分けながら見知らぬ男達が現れた。少人数の一団であり、前方に感じた気配の元に急行しようとしていて出くわしたように見受けられた。見たところ〈冒険者〉の標準的な六人パーティである。

「誰だッ」

 先頭の見知らぬ〈武士〉が鋭く誰何する。相手方にとっても〈自決観測隊〉の出現は予期せぬものだったらしい。恵方良が誰何に応えるよりも早く、相手方は〈自決観測隊〉のステータス画面を読んでいた。

「君たち、ススキノの──」

「こいつら、余所者だぞ!」

「仲間がいやがったのか!」

 訳が判らぬうちに見知らぬ〈冒険者〉達は口々に叫んで散開していく。こちらを包囲するつもりのようだ。

「何だか知らないけど、随分と殺気立ってる連中だね」とゼン=ゼン。

 事態を把握する間もなく、相手方の中にいた〈神祇官〉が目前の〈武士〉に〈禊の障壁〉をかける。青白い垂幕が〈武士〉の前に展開していく。

「何か誤解があるようだが、話を──」

「問答無用ッ」

 〈武士〉の〈兜割り〉が恵方良の脳天に炸裂する刹那、ゼン=ゼンが飛燕の身のこなしで割り込んだ。〈武闘家〉の〈ドーンティングポーズ〉が一撃を受け止める。白刃を左右から挟み込んだゼン=ゼンの両掌は吸い付いたように動かない。

「貴様ぁ」

 大剣の間合いよりも深く懐に入られた〈武士〉が距離を置こうと飛び退るよりも早く、ゼン=ゼンは無言のまま追随して〈サイレントパーム〉の掌底を叩き込むが青白い障壁に阻まれて大したダメージは与えられなかった。

「おいおい、PKでもするつもりか」

 戸惑う恵方良に向かって人相の悪い〈盗剣士〉が斬りつけてくる。

「PKですけどぉ、それが何か?」

「姐御、下がって。こいつら何云っても聞く耳持ちやせんぜ。こりゃ正真正銘のPKなんですってば!」

 仁左の長脇差が敵のカトラスを受け止める。同時に〈自決観測隊〉のメンバーの身体が脈動する光に包まれ始める。レムミラスが〈ガイアビートヒーリング〉を唱えているのだ。最早、レムミラスは戦闘が不可避であると腹を括ったらしい。

「こいつらの回復役(ヒーラー)はあのエルフだけだ。先に畳んじまえッ」

 〈武士〉の指示に従い、敵の〈暗殺者〉がレムミラスに襲いかかる。ブーンドックが処刑刀を振り回してそれに斬りつけるが、動作の大きな処刑人の剣は軽々と躱されてしまった。

「恵方良さん、お願いします!」

 ブーンドックの呼びかけに一瞬、戸惑いを見せた恵方良だったが、すぐに何を求められているのか察して呪文を唱え始めた。アキバ郊外のフィールドでモンスター達を一撃の下に屠り去った毒属性の強化を行うのだ。〈暗殺者〉の処刑人と〈妖術師〉の毒使いの相性は抜群と云ってもよい。

 但し、自分達と同等のレベルを持つ〈冒険者〉は、初心者向けフィールドの雑魚モンスターと同列に扱えるものでは無かった。

 一本の矢がほぼ無音で飛来し、恵方良の身体を刺し貫いた。呪文の詠唱を続けられずに恵方良が倒れる。

 次の瞬間にはたて続けに飛来した矢がブーンドックの逞しい身体に二本、三本と突き立てられた。敵の一団には〈暗殺者〉が二人いて、片方は弓使いだったのだ。

 ブーンドックが膝を突くのを見て勝ち誇った弓使いだったが、その直後に頭上から雷撃を見舞われる。レムミラスが〈ライトニングフォール〉を放ったのだ。

 だがそのレムミラスも、隙を突かれて敵の〈召喚術師〉が召喚したサラマンダーの炎に包まれる。木立の中の戦闘は乱戦の様相を呈していた。


 しかしながら最初から分の悪い戦闘ではあった。敵の一団は六人編成であるのに対して、〈自決観測隊〉は五人。しかも結成間もない即席ギルドである彼らはろくな戦闘訓練もしていなかったのだから連係プレーを期待するのは難しいと云うものである。

 客観的に見ると〈自決観測隊〉の敗北は明かだった。

 恵方良が倒れ、ブーンドックの戦力も半減してしまったことで形勢はかなり不利に傾いてしまった。それでも善戦した仁左とブーンドックが敵の〈盗剣士〉一名と〈暗殺者〉二名を倒してはいたが、〈自決観測隊〉もレムミラスが倒され、既に光と共に消失している。

 ブーンドックは処刑刀にすがりながら辛うじて立っていたが、ゼン=ゼンが敵の〈武士〉に切り伏せられるのを救うことは出来なかった。

 ブーンドックが左右に視線を走らせると、恵方良と仁左は消失こそ免れているものの、地に伏して力尽きて動けないようである。もはや残った三人に抵抗する術はなかった。

「手こずらせやがって」

 肩で息をしながらもリーダーらしい〈武士〉はまだ立っている。その足下でゼン=ゼンの身体が光となって分解していった。

 〈神祇官〉と〈召喚術師〉も戦闘の趨勢が決まったと見て、警戒を解いて近づいてくるが、ブーンドックには為す術がなかった。

「おい、回復してくれ」

 〈武士〉が〈召喚術師〉に声を掛けるが、MPの残量が僅かであるのか〈召喚術師〉はそれに応じようとしない。〈武士〉はいまいましげに舌打ちし、ゼン=ゼンが消失した後に残したアイテム類を漁ったが、HP回復用の薬草の類は見つからなかったようだ。

 今度はそのまま倒れている恵方良に近寄っていく。無造作に足で恵方良の身体を転がすと魔法鞄が転がり落ちた。

「やめろ、貴様……」ブーンドックがかすれた声で制止する。

「あぁ? 死に損ないが何云ってやがる。回復したら止め刺してやるからそこで待ってろ」

 〈武士〉はぞんざいに言葉を吐き捨て、恵方良の魔法鞄を漁った。先に恵方良に止めを刺せば、確実に手に入るアイテム類はその半分程度だが、まだ息のある〈冒険者〉から奪う分にはそっくり手に入れられると踏んだのだろう。そのあさましい姿はもはや侍などではなく、盗賊、山賊の類にそっくりだった。

 魔法鞄を逆さまにして、中身を無造作に足下にバラ撒いた。その中に回復薬を入れた信玄袋があった。

「これか」紐を解いて掌の上に袋の中身をぶちまける。

 薬草と共に小さな生き物がぽとりと落ちた。乱暴に扱われてその生き物は大層怒っていた。

「なんじゃこらぁッ」素っ頓狂な悲鳴と共に〈武士〉の身体が硬直し、次の瞬間にはもう光に分解されていた。

 何が起きたのか〈神祇官〉と〈召喚術師〉には理解出来ない。すると更に予想外の出来事が起きた。

 〈召喚術師〉が無造作に跨ぎ越えてきた仁左の身体がむくりと起き上がったのである。〈召喚術師〉が振り向くよりも早く、仁左の刀は相手の腹部を貫いていた。

 渾身の力を込めた一撃にHPを削り取られ、〈召喚術師〉もまた光となって分解されていった。

 血まみれの形相も凄まじい仁左の気迫に加え、ようやくブーンドックも処刑刀を引きづって一歩を踏み出した。一人残った〈神祇官〉に戦闘力は皆無である。一目散に茂みを踏みしだいて逃げ出して行った。

 その姿を見送った後、がくりと膝を突く仁左をブーンドックが抱え上げた。

「へ、へ。やりやしたぜ。ざまァ見ろッてんでィ」勝ち誇ってはいるが、仁左のHPも尽きかけている。もう立っていることも出来ないようである。

「大丈夫ですか、仁さん」

「あっしの奥の手、〈フェイクデス〉でさ。要するに死んだふりでやすがね」

「すっかり騙されましたよ。今、回復を──」

 ブーンドックは自分のベルトから回復用のアイテムを取り出そうとしたが、仁左はそれを押し止めた。

「姐御は……御無事でやすか。そいつァ姐御に使ってやって下せい。あっしはもう、一足先に失礼しやす」

「でも仁さんは──」

 ブーンドックは云いかけたが仁左が首を振るのを見て口をつぐんだ。

「もう大丈夫でやす。何度も何度も同じ夢を見てパニクるほど無様な真似はいたしやせん。おっと、その前に姐御の大事なこいつを……」

 落ちていた恵方良の信玄袋を拾い上げ、仁左は猛毒の尻尾を振り立てて威嚇する〈毒蠍〉をつまんでその口に放り込む。

「こりゃホントにキ」

 また仁左は最後まで云い終えることが出来なかった。


 恵方良の身体に刺さった矢を引き抜き、回復薬をあてがうと矢傷が見る間に癒えていく。ゲームの仕様に準じた現象である。低いうなり声と共に恵方良が目を開いた。

「あいつらは?」

 戦闘の顛末をざっくり報告すると、恵方良は溜息をついた。

「まさかススキノがこんな物騒な場所になっていたとは。城壁に隣接するゾーンでPKが横行するなんて」

「アキバより荒んでますね」

「ブーンさん、君もひどい怪我じゃないか。矢が刺さったままだぞ」

「別に回復しなくても大丈夫ですよ。動くのに不都合がありますが、それほど痛いわけじゃないし。それにどの道、死に戻るつもりです」

 〈冒険者〉の肉体は頑健な上に、痛覚の仕組みも現実世界とは異なるものらしく、肉体的な損傷もある種の「状態異常」として処理されてしまうらしい。ある程度以上の苦痛は遮断され、動作の不都合としてのみ感じられるのが有り難いことであるが、これもまたこの世界が現実のものでは無いことを表していた。

 恵方良がレムミラスやゼン=ゼンが遺していったアイテム類を拾い集めている間に、僅かながらブーンドックのHPも回復し始めていた。

「それにしてもあいつら、我々を誰かと間違えているようだったな」

「仲間がいたのかって云ってましたね」

「誰のことだか知らんが傍迷惑なことだ。大体、あいつら何者なんだ。ブーンさんは連中のステータス画面を見たかい」

「チラリとだけ。同じギルドに所属してましたね。〈ブリガン……〉なんとか」

 その時、木立の向こうから聞こえてくる喧噪が更に大きくなった。恵方良とブーンドックは顔を見合わせた。

 歩ける程度には回復したブーンドックと共に雪の積もった茂みを進むと、木立は途切れてススキノの城門へと続く広い街道のような道に突き当たった。そこでもまた〈冒険者〉同士の戦闘が行われていた。

 城壁の外で少人数の決闘が行われているのを、十数人の〈冒険者〉が取り囲んでいるように見受けられた。遠巻きにしている〈冒険者〉のステータスをこっそり確認すると、全員が〈ブリガンティア〉なるギルドのメンバーだった。

「さっきの連中の仲間らしいぞ。こりゃ出て行かない方が無難だな」

 誰もが輪の中央で繰り広げられている決闘に気を取られ、木立に隠れて見守っている二人には気付いていないようである。

 すると大きなどよめきが沸き起こった。決闘が予想外の展開を見せたのだ。


 ブーンドックの見たところ、その決闘は筋肉質の大男である〈武闘家〉と対照的に痩身の〈盗剣士〉の間で行われているようだった。〈盗剣士〉は猫人族であるらしい。

 〈盗剣士〉の背後には数人の仲間が控えており、猫人族の〈冒険者〉は仲間を守るために戦っているようだったが、その仲間の方もまた別の〈ブリガンティア〉のメンバーに囲まれている。

 体躯の良い〈守護戦士〉がたった一人で防御に徹して持ち堪えているが、それも時間の問題のように見える。あまり正々堂々とした戦いには見受けられなかった。

 多勢に無勢の戦いではあったが劣勢である筈の〈盗剣士〉の態度には余裕が感じられ、その剣技は鮮やかの一語に尽きた。

 そして勝敗は次の瞬間に決した。

 強烈な〈武闘家〉の一撃を躱して宙を舞った〈盗剣士〉が目にも止まらぬ斬撃を繰り出し、着地したときに倒れたのは〈武闘家〉の方だった。九〇レベルの〈武闘家〉が瞬殺されると云うあり得ない場面をブーンドックは目撃した。

「見ましたか、今の」

「凄すぎて何だかよく判らなかったな」

 劣勢だった少人数の〈冒険者〉達の見事な逆転劇だった。倒された〈武闘家〉が首領だったのか、途端に足並みが乱れ始める〈ブリガンティア〉の一団。問答無用にPKを仕掛けてくるような盗賊紛いのギルドの結束は、案の定もろいものらしい。

 勝利した側の少数派の〈冒険者〉の中から、リーダーらしい白いマントの魔術師が進み出て何やら宣言し始めた。〈妖術師〉なのか〈付与術師〉なのか定かではなかったが、話している言葉はブーンドック達の耳にも届いた。

 白いマントの魔術師は「アキバの街とここは、もはや往復できないほどの距離ではありません」と云っていたのだ。

 その後、勝利した少数派の〈冒険者〉達は、三頭の〈鷲獅子(グリフォン)〉を召喚すると云う更に驚くべきことをやってのけ、全員がそれに騎乗し飛び去っていった。まるで映画のような現実味に欠ける出来事だった。

 傾きかけた太陽に向かって遠くなっていく〈鷲獅子(グリフォン)〉のシルエットは、すぐに木立に遮られて見えなくなってしまった。

「何だったんでしょうね」

「彼らはアキバから来たと云っていたな。そりゃ、あんなのに乗って飛んでいけるなら往復も可能だろうさ。我々も帰ろう、ブーンさん。さっきの戦闘で疲れたよ」


 ◆


 〈帰還呪文〉を唱えた恵方良は、夕日の差すシブヤの街の入口に立っていた。

 方角を確かめ、長く伸びた影が引きながら大聖堂に向かって歩き出す。寺院の鐘が夕映えに染められた廃墟の間に響き渡っていた。

 大聖堂の前まで来ると、既に復活していた仲間達が正面階段に三々五々に腰掛けて恵方良を待っていた。レムミラス、ゼン=ゼン、雲隠仁左の三人である。

 仁左は復活を繰り返す度に平静を取り戻していくようである。

「よう」と恵方良は手を振った。

「お前が〈帰還呪文〉を使ったと云うことは、ブーンさんはどうした」とレムミラス。

「一足先に死に戻っている筈だが、すぐに復活して出てくるだろ」

 ブーンドックの身体に刺さった矢を引き抜くことで、更に残り少ないHPを削ると云う後味の悪い作業を思い返して恵方良は顔をしかめた。

「大体の話は仁さんから聞いたよ。辛うじて勝ったみたいだが、何者だったんだ?」

 恵方良はススキノで見た顛末をかいつまんで説明した。

「すると何か。私らはその凄腕の〈冒険者〉らの仲間に間違われていたのか」

「そのようだ」

「〈鷲獅子(グリフォン)〉を召喚できるなんて只者じゃないね。確か〈鷲獅子(グリフォン)〉の召喚笛は〈死霊が原〉の大規模戦闘(フルレイド)に勝利しないとゲットできなかった筈だよ。僕が手に入れ損なったアイテムだ」

 ゼン=ゼンの口振りからすると、彼もまた伝説の大規模戦闘(フルレイド)に挑んだことがあるらしい。だがソロ・プレイヤーが大規模戦闘(フルレイド)に参加するには有志を募る他はないが、そのような即席のパーティばかりで挑んでも勝利することは難しい高難易度コンテンツだったのだとゼン=ゼンは語った。

「そいつら、アキバから来たと云っていたな」

「ゲートなしで移動してくるなんて大した連中でやすね。何の用だったんでやすかね」

「大方、アキバの雰囲気が悪いからススキノに退避しようとしたら、そっちの方がもっと治安が悪かったので慌てて退散した……とか云うことなんじゃないのかな」

「なるほど」

 納得した仁左が肯いていると、背後から階段を降りてくる足音がした。振り仰ぐと元気な姿のブーンドックがいた。矢傷はもう癒えている。

「お待たせしました」

「おう。それじゃ諸君、お疲れさま。晩飯にでもしよう」


 〈自決観測隊〉の本部として改装された恵方良の個人ゾーンの階下の食堂で、五人はテーブルを囲んだ。例によって味のしない食事ではあったが、皆で囲む食卓は気の滅入る補給作業をいくらかでも和らげてくれた。

 一段落付くと恵方良が切り出した。

「さて、休憩したらまた行くぞ」

「え。また行くの」

「まだ宵の口だろう。一日はまだ終わっていないし、〈妖精の輪〉は二四時間営業しているのだからな。当然、夜間の接続テーブルも調査しなければならん。いずれは真夜中や、明け方の時間帯でも探索に出て行くつもりだ」

 二四かける二八で六七二マスになる大きな表を広げて恵方良は示した。まだマス目は五箇所しか埋まっていない。

「一日最低、三回は行こう。我々は五人なのだから、最大で五回は行ける筈だ」

「またあの夢を見るのか」レムミラスがげんなりした顔で呟いた。

「そう云えばお前は今回初めて死んだんだな。どうだった、初めての復活は」

「ひどい夢を見た」

「皆、そうだ。で?」興味津々と云った顔で恵方良が尋ねる。残る三人もレムミラスの方を見つめている。

 諦めてレムミラスは白状した。

「新入社員だった頃のことを夢に見たんだ。三日も徹夜してデバッグしたが作業が終わらず納期に遅れてしまった。あの頃は……本当にひどい生活だった」

「ブラックな企業だったんですか」

「もう真っ黒。おかげで胃に穴が開いて鬱になりかけた。その後の転職もなかなか巧くいかなくてね……」

 虚ろな目をして当時を振り返るレムミラスを励ますように恵方良が努めて明るく振る舞い、話題を変えようとした。

「まぁ、なんだ。人生、辛いことは色々ある。私の場合も──」

 だが恵方良の言葉もまた〈自決観測隊〉の全員が押し止め、最後まで語られることはなかった。



▼ 跋


 樹海に飲み込まれつつある廃墟としてデザインされたシブヤの街に月が昇った。月明かりがほのかに〈妖精の輪〉の石柱を照らしている。

 夜の街に寺院の鐘の音が静かに響く。

「よし、準備はいいな。では行こう。未知の世界を探索し、新しい生命、新しい文明を求め、人類未踏の宇宙へと」

 恵方良が先頭になって石柱の輪の中に踏み込んでいき、そしてその姿はかき消えた。今度は一〇分の間を置かず、全員で転移するのだ。

 ゼン=ゼンと仁左も恵方良の後に続いていく。

「やれやれ。このギルドも相当、ブラックだって気がしてきたよ」と、ぼやくレムミラス。

「でも他にすること、ないんでしょう?」

 ブーンドックの云うとおりではある。今後、自分はただひたすら〈妖精の輪〉を使って、何処とも知れない場所へ出向いては、HPをゼロにして死亡カウンタを回しながらシブヤに戻ると云う行為を繰り返すのだろう。

「まあね。人間、若いうちは何でも出来ると思っているが、歳食ってからは自分に出来る只ひとつのことを性懲りもなくやり続けるだけだってことかな」

「なんか深い言葉ですね」

「受け売りだよ。さあ、行こうかブーンさん」

 〈妖精の輪〉はレムミラスとブーンドックの姿も飲み込み、あとにはただ夜の静寂が広がるばかりだった。



〈自決観測隊 後編〉

 半年前まで『ログ・ホライズン』のロの字も知らない私に、強烈に洗脳と布教を施してくれた友人のために書きました。

 本作を書いている最中も、ツッコミとアドバイスを入れてくれて本当に感謝しております。それでも原作との齟齬、矛盾があれば作者の責任であります。

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