僕が化け猫になった話
僕は猫である。名前はまだ無い。猫といってもそんじょそこらの猫ではない。化け猫である。かれこれ云百年は生きている。……はずである。
はず、というのは、僕は自分の誕生日を知らないからだ。一番古い記憶では、すでに僕は飼い猫だった。
それはいつの時代だったか、長いながーい縁側で、ご主人の膝に抱かれて、彼の他愛もない独り言を聞いていた。季節は暖かかったので、少なくとも冬ではない。夏の始まりか、春のような季節だった。
「やあやあ、猫よ。俺は流行り病なのだそうだ」
そう言ってご主人は、静かに笑っていた。まだ子猫だった僕は、ご主人が指先で耳をくすぐってくるのが気持ち良くて、にゃあと鳴いた。
「この屋敷には、もう俺とお前と、使いの者しか居ないよ。……俺は世話など必要ないと言ったのだがね。どうにも俺は幸せ者らしい。病の恐ろしさよりも、俺への忠義とやらが大事らしい。馬鹿なやつらだよ。本当に」
そう言ってご主人は優しく微笑んだ。素直じゃない人だなあ、と庭先を眺めながら僕は思った。
「まあ、いずれ嫌でも追い出してやるつもりだがね……。幸いこの病は猫には移らないようだ。こう見えても人の子でね。独り寂しく死ぬのは忍びない。お前には最後まで付き合って貰うよ。当然、それなりのお礼はしよう。……正直、これがお礼と呼ぶのに相応しいかどうかは分からないがね。だが、お前をとっておきにしてやろう。このとっておきはいつでも、お前が望めば放棄出来る。気が向いたらお前もあっちへ来るが良い。最高のマタタビでも用意しておくよ」
そう言ってご主人は、それまで耳を弄くっていた指先を僕の額にあてた。ご主人の指先がぼんやりと光る。額から暖かな力が身体に流れて来るのが分かる。僕はその時、化け猫になった。人の言葉も喋れるようになったし、色々なものに化ける事も出来るようになった。他にも色々と出来るようになった。それは、本来ご主人の力だった。
僕は早速、人に化けた。まだ子猫だったから、子供の姿だったけど。ご主人の膝から庭先に飛び降りて、ご主人に問いかけた。
「ご主人、ご主人。この力があれば、あなたは随分と長生き出来そうですけど。……本当に貰っちゃって良いんですか? これ」
ご主人は静かに微笑むと、こう答えた。
「構わんよ。俺は人として死ぬことにしよう。散々、人外としてズルをしてきたからね。最後ぐらいは、まあ、人として死んでみたくなったのさ」
「さいで」
僕は猫の姿に戻るとまた、ご主人の膝に飛び乗った。触り心地が気にいったのか、また耳を触られる。
「猫よ。お前がいつまで生きるつもりか分からないが、広すぎる世の中を生きるコツとしてはな。自分を持って、自分を持たないことだ。だから、俺はお前に名前を付けぬ。例え、紫陽花を胡麻と呼ぼうが、その美しさは変わらぬ。そのように生きよ。それが、己を見失わぬコツだ」
僕はよく分からなかったので、にゃあと返事をした。
「その力を悪用しようが、善行に使おうが、もうすぐこの世から居なくなる俺には知ったこっちゃないがな。己が望むままに生きろよ。猫らしく、紫陽花であれよ」
そこまで言うと、満足したのか、ご主人は眠りについたようだった。
それから一年程して、ご主人は静かに息を引き取った。優れない天気続きの季節だったのに、その日だけは僕が化け猫になった日のように気持ちの良い天気だった。
見送ったのは僕だけだった。その頃には使いの者はもう誰も残っていなかった。難癖つけてご主人が追い払ったのだ。
使いの者は皆、涙を流しながらご主人の許を去って行った。それはきっと、ご主人の優しさが分かっちゃったからだ。ばれてますよ、ご主人。
ご主人は最後にまた、僕の耳を一撫でして、ふっと笑って、旅立った。僕は子供に化けて、いつも一緒に日向ぼっこしていた縁側を飛び越えて、ご主人の一族のもとまで、ご主人最後の使いの者として、主の死を伝えに向かった。
必死になって、屋敷があった山を下り、街を抜けて、本邸を目指した。日は次第に暮れはじめ、何故か虫の鳴き声がやたらと耳についた。
当たり構わず走って来たので僕は泥だらけになっていた。人の姿で走るのはこれが始めてだったからね。
なんとか本邸の門を乗り越えて、たまたま通りかかった偉そうな人にご主人の使いであることを伝えると。
「病が移る! 居なくなれ!」
と、追い払われた。おまけに石まで投げられた。
しょうがなく、僕はトボトボとご主人の許へと帰った。
月が綺麗な夜だった。連日続いた雨のせいで空気はスッと澄んでいて、いつぞやご主人が話してくれた「かぐや姫」とやらが空から降りてきそうな雰囲気だった。
僕は庭先にせっせと穴を掘った。ご主人が好きだった紫陽花の近くに。穴を掘りながら、ご主人のように独り言を呟いてみた。
「ご主人。せっかく貰ったとっておきでしたから、気まぐれな僕ですが、人に化けて、最後くらいはご主人の使いの者として仕事でもしてやろうかと思ったのですよ。ところがどっこい。これが裏目に出てしまいました」
紫陽花が風にゆらゆらゆらゆら。
「人ってのは、なんだか生き辛い生き物ですね。なんだかもう放棄したくなっちゃいました」
あいも変わらず、紫陽花がゆらゆらゆらゆらり。
人の姿のまま、素手で穴を掘っていたせいで、爪が何枚か剥がれて痛い。
「でもね。それでも、ご主人は人として死ぬことを選んだのだから、きっと何か素晴らしいものを持っている生き物なんでしょうね。少なくとも、それが分かるまでは、せっかく貰ったとっておきですし、生きてみようと思いますよ」
一際強い風が、今は無い筈の僕の猫の耳を揺らす。
……ああ、馬鹿だなあ。馬鹿だなあ僕は。
死んだ人に、慰められてしまった。
「でもね。いつか死ぬときは猫として死にますよ。じゃなかったら喜んでマタタビを貰えないですからね。耳を触って貰えませんからね」
ふっと穴を掘る手を休めて、猫の姿の時のように顔を上げる。
そこにあるのはいつものご主人の顔ではなくて、それはそれは丸いお月さん。
「ああ。ご主人。今日はこんなに天気が良い夜なのに、何故か雨が降っています。こんなことは、初めてだ。でも、きっと、こんな綺麗な天気雨なら、紫陽花も喜ぶと思うんです」
そして、雲もないのに雨は降り続けた。
当時の僕にはいったいその雨がどこから降ってくるのかが分からなかったけど、云百年生きた今ならちょっとだけ分かる。ちょっとだけね。
それでも、まだご主人がどうしてあんなに満ち足りた顔で人として死んでいったのかは分からない。
何度、あんな綺麗な天気雨の夜を越えても、いまだにちゃんと分からない。
だからね、ご主人。僕はまだ、もうちょっと生きてみようと思います。
それは、僕が化け猫になった話。
少しだけ、人に近づいた話。