乾いていたのは体ではなく心だった
今回とうとう愛花が青木に告白します。
直前に小島と寝ておいて、しかもそれを青木に告げた直後の告白です。一体どうなるやら。。。
さすがに一晩に三回も交わるのは体にこたえた。あたしはベッドに突っ伏したまま、ぼんやりと悲しみにふけっていた。こんなに体を酷使しても、相変わらず心は満たされなかった。乾いていたのは体ではなく心だったのだと今更のように悟った。あたしの肉欲は単なる肉欲ではなかった。青木さんへの恋心に裏打ちされた、満たされない心ゆえの性愛の感情だった。
そんなあたしの心には露ほども気付かない青木さんは、ゆっくりと体を起こしながら
「今くれた思い出だけどさあ、ちょっと今のは恋愛の思い出とは言えないな」
と不平を鳴らした。そう言われても、あたしは自分がどんな男を売ったのか最早思い出せない。
「愛花ちゃんはもう覚えてないだろうけど、今のは遊びで寝た男の話だよ。まあ遊びで寝るっていうのも経験だしこれはこれでもらっておくけど、次は最後になるし、ちゃんと恋愛した男の話が聞きたいな」
最後という言葉があたしの胸を貫いた。
「そんなの、やだ」
思わずあたしは、つぶやいていた。
「もう青木さんと会えなくなるなんて、やだ」
青木さんは驚いた顔で、あたしを見詰めた。
「あたし青木さんを、好きなんだよ」
消え入りそうな声を出した後で、とうとう言ってしまったと思った。決して言えないと思い胸に秘めていた想いは、一度口を吐いて出ると、後から後から言葉がこぼれ落ちてきた。
「本当は何も買ってもらわなくてよかったの。先週も別に、コートとかブーツとかいらなかったの。でも青木さんがカネで買いたいって言ってるのに、『いいえ。無料でどうぞ』なんてそんなのかえって惨めじゃない? でも最初は、最初に買ってもらった時はここまで好きになるなんて思ってなくて、ちょっとは好意はあったけど、青木さんはゲイだしカノジョもいるし、まさか好きになっちゃうなんて……」
ここまで言うと、あたしは息を吐いて
「ごめん。忘れて」
と言った。
「言うつもりじゃなかったの。こんなみっともないこと。次に会った時八人目の思い出売ってそれで終わりなのは分かってるの。でももっと思い出を売れば、青木さんともっと会えるって思ったりしたけど、それじゃああたしすっからかんになっちゃう。唯一の思い出がこんなきつい恋愛じゃあたしやってらんないし。もっと会ったら、きっともっと好きになっちゃうからいいの。これで。気にしないで。人を好きになるなんてよくあることだもん。生きてりゃ色んなことがあるんだし」
すると青木さんはあたしを後ろからそっと抱きしめた。あたしは胸の高鳴りを覚え、あ、幸福だと思った。ついさっき三回も交わって得られなかった充足感が、こんなことで得られてしまうとは不思議だった。
「ちっとも、みっともなくなんかないよ」
と青木さんはいたわるように言った。右耳に青木さんの唇が寄せられて、そこから声がするものだから、あたしはまるで愛撫されているかのようにドキドキした。
「そんなこと言ったら、こんな歪んだやり方で自分をごまかしてるオレの方が、よっぽどみっともないよ。ごめんな。オレは前のカノジョを傷つけた時本当に後悔したから、次に思い出を手に入れる時には、ビジネスライクにいこうと思ってたんだ。でも仕事相手を好きになることは普通にあることだよな。その相手とこんなことしてれば尚更だよな」
「もう、いいよ」
とあたしは言った。口にできないと思っていた思いを案外あっさり語ってしまい、幾分すっきりしたし、青木さんがいたわりの態度を示してくれたことで、少しばかり満足できた。青木さんが自分に対して全く恋愛感情を持っていないのは辛かったが、仮に少しばかり気のある態度を示されたら、諦めがつかなくなっただろうと思われた。
青木さんはあたしを抱いたまま
「愛花ちゃん、次の日曜空いてる?」
と尋ねた。
「うん」
答えながら最後の約束だと思った。こんな風に青木さんに予定を尋ねられるのも、これで最後だと思うと、問われる喜びともう二度と問われない切なさが交互にあたしに押し寄せてきた。すると青木さんは
「早くて、何時頃来れる?」
と意外な質問をした。
「どうして?」とあたしは尋ねた。次回八人目の思い出を売れば、青木さんとの関係は終わる。その分のプレゼントは先週すでに受け取ってあったから、次回は夜から会えばいいはずだった。
「最後になっちゃうからどっか出かけようかと思ってさ。昼間会うのって、今まで買い物だけだったじゃん?」
「気ィ遣ってやんの」
青木さんの提案を嬉しく思いながらあたしは茶化した。青木さんの優しさが、胸に詰まった。
「悪いと思っただけだよ。まあ最後の日に昼間から会ったからって、罪滅ぼしになるとは思わないけど、じゃあこれからも会い続ければいいかっていったらそれは違うし。オレみたいな男早く忘れた方が身のためだしな」
そう言って青木さんはあたしの頬に顔を寄せた。またしても幸福を感じた。あたしは振られたっていうのに、まるで恋愛が成就したかのような幸福を感じた。
「忘れられるかな」と自信無さそうにあたしがつぶやくと、青木さんは
「オレがもらった思い出のほとんどは、もう過去として処理されてたよ。かなり強烈な恋愛もあったけどな」
と励ますように言った。
「処理されてないのも、あったんだ」
あたしは少し不安になる。青木さんのことも、あたしはいつまでも引きずってしまうのではないかと心配になった。
すると青木さんは
「うん。正直今オレきついもん。だから愛花ちゃんにもっと思い出ねだったって部分あるよ。他に思い出もらえば中和されるかなと思って。でもまだきつい。『忘れたい男の思い出売って』とか言っといて、いざもらってみると持て余す思い出もあった」
と少し困ったように言った。
「じゃあ思い出買ったこと、後悔してる?」
「分かんねえな。でもあの時は他に方法が思いつかなかったから後悔とは違うかな。後悔って、他に選択肢があった場合に使う言葉だろ」
あたしは他に選択肢があったんだろうか。今となってみると、どうして青木さんの誘いに乗ったのかよく分からなかった。青木さんの言う過去として未処理だったという男を、それ程までにして、忘れたかったということだろうが、また忘れねばならない男との別れを控えた今となっては、失った男たちの記憶が恋しかった。
そういえばあたしは以前、歌子にこう言ったことがあった。
「別れを繰り返す度に、悲しいけれど忘れることが上手くなるの」
あれは誰と別れた時に口にしたのだろうか。思い出を手繰ってみたものの、もう行き当たるものは無かった。虚しさを覚え、あたしは傷心と引き換えに空虚を手に入れたことを悟った。傷心と空虚は一体どっちがマシな感情なんだろう。七人もの傷心の記憶を青木さんに引き渡した今となっては、あたしは最早答えを出すことができなかった。
木曜日の仕事場は大抵、閑古鳥が鳴いている。金曜日を目前に控えた夜に飲みに繰り出そうとするような男は少ないのだろう。あたしは一組客を送り出すと、入口近くの待機席へ向かった。すでにくるみちゃんという二十三歳の女が所在無さげに腰を下ろしていた。
あたしがその真向かいに席を取ると、ちょうど店全体がぐるりと見渡せた。店内には客は二組だけで、それぞれ人数に見合った女の子がついている。時計は一時を回ったばかりだから、まだ新たに客が入る可能性は充分にあった。それまでつかの間の休憩を楽しもうとあたしがマイセンに火を点けると、くるみちゃんが灰皿をあたしの方へ滑らせながら、待ち構えていたかのように口を開いた。
「ねえ愛花さん、須田さんってお客さん分かります?」
「須田さん?」
思い当たる客の顔は浮かばなかった。そもそもあたしは、客に名前を尋ねないだけでなく、名乗られても覚える気をさらさら持たないという、およそ水商売にあるまじき姿勢で日々接客に励んでいるからだ。
「昨日も来てたらしいんですけど、愛花さんと同い年で背が大きい人。市役所に勤めてるんですけどね」
あたしは一人の男を思い出した。昨夜確かに三人連れの男がやって来て、市役所勤めと言っていた。その中に一人背が高くやたらと顔の造作の大きい男がいたはずだ。年齢は聞かなかったが多分自分と同年代だろう。
「あ、もしかして志保ちゃんと一緒についた人かも」
とあたしが言うと、くるみちゃんは
「そう、その人」
と一瞬嬉しそうな顔をした後すぐに顔を曇らせて
「くるみね、その人と付き合ってたんだけど三回エッチしたらね、電話に出てくれなくなっちゃったんですよ」
と言い出した。
「かかってもこないの?」
「そう。二~三日したら、メールで返事がやっと返ってくるんですよ。『仕事が忙しかった』とかって。でね、くるみ水曜日は休みなんですけど『昨日須田さんが店に来てたよ』って志保ちゃんに聞いて頭きちゃって。連絡くれないから忙しいのかと思ってれば、わざわざくるみの休みの日に店に来るし。もうくるみとは会いたくないってことですよね」
「もうやめなよ。そんな奴」
煙を吐き出しながらあたしは言った。他人事だといとも簡単に、終止符を打つよう勧めることができる。けれどそれは冷たいことではない。第三者だからこそ適切なアドバイスができるというものだ。
くるみちゃんにしたって、別れを勧めて欲しいからこそ、今まで二~三度しか言葉を交わしたことのないあたしに、こんな相談を持ちかけてきたのだろう。くるみちゃんとは出勤日が二日しか合わない上、出勤時刻もずれていたため、今まで言葉を交わす機会は少なかったのだ。
「でもね、くるみもう二週間もエッチしてないんですよ」
いきなりの発言にあたしはのけぞった。はあ何の話? その須田とかいう男に冷たくされて辛いって話じゃないの? 煙にむせそうになりながらあたしは
「いいじゃん。そんなの。くるみちゃん可愛いんだしすぐ新しいカレできるよ」
とくるみを励ました。実際くるみちゃんは可愛らしい女だった。つれない男の相談をしているせいか、潤んだ瞳が抱きしめたいほどに愛くるしい。
こんなはかなげな女が前述のセリフを述べた事実に、あたしは目を白黒させた。今でこそ青木さんと週一のペースで寝ており、四日前には一晩で三戦も交えたとはいえ、あたしは元々は、半年くらいなら男と寝なくても焦りを覚えないタイプだった。
とはいえ水商売を始めてからは、お人形のような顔をした女の子が、情欲に満ち満ちたセリフを吐くのを何度も目撃していたが、彼女たちは幾分照れを交えたり、照れゆえに悪ぶった言い方をしていたものだ。
ところがくるみちゃんは、切実にそれを口にしたものだから、あたしはドキドキしながら
「こんな可愛い子を、こんなに悲しませる男がいるなんて信じられない」
と続けた。くるみちゃんのあからさまな性欲に気が動転してしまい、話題の矛先をその須田とかいう男に何とか戻そうと願っての発言だった。
するとくるみちゃんは
「やっぱり男より、女の人の方が優しいですよね。いっそ女の人と付き合った方がいいのかなって思うんですよ」
と大真面目な顔をした。あたしが生唾をごくりと飲んで「そうなの?」と聞き返した時、ボーイがくるみちゃんにテーブルナンバーを告げにやって来て、話は中断された。
今しがた来店した一人客のテーブルに、向かうくるみちゃんの、か細い後ろ姿を見送りながら、あたしは呆然としていた。肉欲があんなにみなぎっているんなら、さぞかし男好きなのかと思ったら違うのね。とあたしはいつの間にか、灰皿に置き去りになっていたタバコをもみ消しながら考えた。そういう理由で同性愛に走ろうとする人もいるんだ。あんなに可愛いのにねえ。
そこでふとあたしは思いついた。あの子ならあたしが誘えば、そういう関係になっちゃえるんだ。そうすればあたしもレズってことになるから、青木さんのカノジョと立場が同じになる。そうすれば青木さんにあたしを選ぶよう迫ることも可能なんだ。
けれどこれはあたしにとって、あくまでも思いつきの域を脱しなかった。女と付き合って女と寝るということが、どうしてもピンと来ないのだ。あたしは綺麗な女の子が好きだったし、店に来る度に着飾った美しい女の子たちを眺めるのは楽しみの一つだった。こんなにいっぺんに、可愛い女の子たちと仲良くなれる環境なんてなかなかないわと、あたしはその点はこの仕事場に満足していた。
けれどそんな思いを女に対する劣情に転換しようとしても、なぜか上手くいかない。結局、あたしが持っている可愛い女の子への好意は、リカちゃん人形を可愛がる幼女の心境かと、あたしは失望と安堵の入り混じった溜め息を吐いた。
大体くるみちゃんとそんな仲になったって、本命は別にいるんだから、くるみちゃんと安定した関係なんて築けないだろう。万一築けたとしても、だからって青木さんがカノジョからあたしに乗り換えるとは限らない。よしんば青木さんがあたしを後釜に据えてくれたとしても、そんな愛の無いまやかしの関係を手に入れても仕方が無い。
結局あたしはレズになんてなれないし、娼婦の真似事をしてはみたけど、心は娼婦になりきれなくて何てあたしって中途半端なんだろう。そしてその半端加減が、あたしをこんな事態に追いやって、その半端加減が、あたしをこれ以上の泥沼からは救おうとしてくれているなんて。とどのつまりは、半端なあたしが半端な事態を招いて、半端な結末を迎えようとしているってことか。
あたしはもう一本マイセンを取り出すと
「馬鹿みたい」
と小さくつぶやいた。そして自分を馬鹿みたいだと思うような恋には、早く見切りをつけなくてはと、自分にきつく言い聞かせた。
青木さんがあたしの車を運転したことはあったけれど、青木さんの車に乗るのは初めてだ。
たいした車ではないことは知っている。ノートはコンパクトカーだもの。けれどあたしはがっかりしたりしない。世間に対し世間並みの顔を作っている青木さんが、値の張らない実用車を所持しているのは当たり前だからだ。青木さんの持ち物の一つ一つは、カモフラージュする自分を鎧うため選ばれているのだろう。そう思うと、安価な車の助手席に座る際もドキドキと心臓が高鳴る。あたしは何よりも青木さんの後ろめたさが好きなのだ。
運転席に座った青木さんに
「どこへ行きたい?」
と尋ねられあたしは少し考え込んだ。青木さんと行きたい所は数限りなくあったが、二人でショッピング以外の目的で出かけるのはこれが最初で最後なのだ。そう思うと、ふさわしい行き先など皆目見当がつかなかった。
「青木さんは?」
と聞き返すと青木さんは
「そうだなあ。天気もいいし紅葉でも見に行こうか」
と提案した。あたしは賛成した。本当はアウトドアを楽しむにはほんの少し風が強いようにも思ったけれど、壁の内側にいようと外側にいようと、今日秋風が吹いている事実は変わらないと思われたし、それに何よりあたしにとっては、青木さんと二人でいられるのなら場所はどこでも構わなかった。
紅葉狩りをする観光客の群れを通り過ぎ、正に秋の木々の他には何も無いような、山の麓に近づくと、青木さんはやっと車を停めた。二人きりになりたいあたしの気持ちを察してくれているんだろうかと思いつつ、あたしは青木さんに続いて車を降りた。
冴え渡る秋の空気の中で木の葉が黄色く赤く色づいている。あたしの目線は、リーフゴールドと呼ばれる黄色いイチョウを素通りし、真っ赤なモミジの前でぴたりと止まった。その鮮やかな赤は、青木さんのアパートへ初めて訪れた時に見た夢を、あたしに思い出させた。こんなモミジの葉やツタの葉の赤さよりもっと、赤い赤い夢だった。
あの赤い炎の中に誰か知った人を見たような気がするけれど、あれは誰だったろう。思い出せない。けれどあたしはその人と同じ所に行きたくて、危険を承知で誘惑に乗った気がする。あれは一体誰だったんだろう。
あたしが物思いにふけっていると、青木さんは、「秋だなあ」と至極当然のことをつぶやいてから
「どの季節が、一番好き?」
と尋ねてきた。
「昔は春が好きだったけど、今はどの季節もそれぞれ好きよ」
と答えると青木さんは
「そっか。オレは秋が一番好きだよ。曖昧で中途半端で」
と人気の無い静かな景色を愛でるように言った。
「そう」と返事をした後あたしは
「あたしのこと、ほんのちょっとは好きだった?」
と尋ねた。青木さんは表情を変えずに「ああ」と答えた。
「『好きだ』って言われて悪いことしたなって思うくらいに。うん。中途半端な君を中途半端に好きだったよ」
「あたしは中途半端な青木さんを、すごーく好きだったよ」
そう言いながらあたしは、今でも好きなのに過去形を使わねばならないことに気付き、涙が出そうになった。最後に会うって一体何なんだろうと思った。好きだからこれで最後とはいえこうして会っているのに、会話の上では、まるで過去の出来事のように処理されていくなんて。
目の前で木の葉がどんどんと落ちていき、あたしに時の流れを伝える。分かっているわよ! とあたしは叫び出したい気分だった。
時間はどんどん流れるから、今あたしが感じた些細な言葉上の時間のずれなんて、明日にもなれば問題にもならなくなるってこと、あたしにだって分かってるのよ。でも今現在青木さんを好きなあたしがここにいて、目の前には青木さんが立っていて、青木さんの両の瞳には確かにあたしが映っていて、二人は今確かにここにいるのに、それなのにみんなみんな過ぎ去っちゃうなんて。
そしてそこまで痛切な思いを幾つも、あたしはいとも簡単に手放してしまったなんて。
あたしは目をつぶりそしてうなだれた。思い出を売るなんて、絶対してはいけないことだったんだと思った。そんなの過去の自分を排除して殺すようなものだ。仮に人生の汚点になるような恋愛だって、覚えていなければ後悔することもできやしない。
後悔と廃棄は違う。どんな思い出だって、無かったことにはできないしするべきじゃない。過去からきちんと学ぶべきだし学べないならせめて覚えておくべきだった。人間の記憶力には限界があるけど、その範囲で覚えておくべきだった。そうすれば十年後二十年後に悟ることもあったかも知れなかったのに。
あああたしは二十五年も生きていて、そんな簡単なことが、どうして分からなかったんだろう。物事はいつも経験から判断しているくせに、時には幼少時代の記憶からこの年齢になって学ぶことだってあるっていうのに、それなのにどうして、分からなかったんだろう。
「青木さん」
あたしは財布から三万円抜き取ると、青木さんに差し出した。
「今日で最後だったけどあたしもう思い出は売れない。だから……」
失った過去はもう取り戻せないからこそ、あたしはせめて、今夜売る予定だった思い出だけは守ろうと決意した。
隠れマザコンだった二十二歳の頃のカレ。いつもあたしより、お母さんを優先させていたあの人との思い出なんか、熨斗付けてくれてやろうと思っていたけど、そんなあの人でもあの頃あたしは一生懸命恋していた。あの頃のあたしが傷ついたからこそ、マザコンと孝行息子の違いが分かるようになれたのに、そんな大事な経験を、売ろうとしていたなんて。ごめんね。二十二歳の頃のあたし。
けれど青木さんは
「いいよ。しまって」
とあたしを制した。
「でも」
「オレ今日は愛花ちゃんから思い出買う気無かったよ。自分を好きだって子に、そんなことさせられないし、オレむしろ今日はオレの思い出買おうと思ってた」
「え?」
あたしは耳を疑った。この人は一体何を言っているんだろう。
「そうすればオレのこと、忘れられるだろ」
優しく微笑む青木さんをあたしは思わずなじった。
「自分の思い出買ってどうすんの。そんなことしたら頭爆発するんじゃない? ありえない思い出で人格がおかしくなるかもよ」
すると青木さんは
「いいんだよ。オレなんかどうなったって」
と投げやりにつぶやいた。こんな捨て鉢な青木さんの顔を見るのは初めてだ。
「何ヤケになってんのよ。病気のお母さん心配させたくないんでしょ」
「ああ」
「だったら自分のこと大事にしなよ。カモフラージュで社会的に生きるのが、安泰ならそうする。それで歪みが生まれるんなら、本当にゲイになるなりカウンセリング受けるなり何か方法あるでしょ」
大声を出しながらあたしは、他人事だとつくづく、冷静で良心的なアドバイスができてしまう自分に驚いた。自分を大事にしろなどという言葉がどの口から出てきたのやら、我ながら不思議でならない。案の定青木さんは
「何だよ。自分だってこの間ヤケで男と寝たくせに」
と、もっともな反論をしてきた。
「知らない。そんなのどうせ売った思い出でしょ。だったらもう青木さんの思い出なんだから青木さんがやったことじゃん」
忘れた強みで言い返しつつ、そうか、あたしは最近ヤケで男と寝たのかとあたしは我が事ながらびっくりした。すると青木さんは一呼吸置いた後
「思い出買うのも、きついんだよ」
とつぶやいた。
「恋愛観も人生観も違う相手から買う訳だから、どうもしっくりいかない。すでに人格がおかしくなった気分だよ」
そう言うと青木さんは、傍らのイチョウの木に疲れた様子で寄りかかった。ああこの人も辛かったのかと思った途端、あたしは自分の気持ちが少し贖われたような気がした。苦しんでいたのは自分だけではなかった。形は違うがこの人も悩んでいた。
そう思いながらあたしがせいせいした気分で
「売るのだってきついわよ。今の自分の考え方とか、おそらく経験に裏打ちされていただろう部分がすっぽり抜けちゃって、最近自分が何なのかよく分かんないもん」
と言うと青木さんはふふっと笑って言った。
「お互い勉強になったよな。思い出は売るもんじゃない。買うもんじゃない」
「あたしにとっては、全く今後に役立たない教訓だけどね」
あたしが減らず口をたたくと、青木さんは「ごめん」と素直に謝った。
「いいよ。あたしも今考えてみるとよこしまな気持ちがあったのかも」
とあたしはしんみりと言った。
「これって人に出会えないまま二十五になっちゃって、経験ばっか増えちゃって、そんな自分が嫌だったの。だから思い出を幾つか売って、少しでも純粋だった頃の自分に戻りたいって願望があったんだと思う。でも気に入らない記憶を売っている内に、どんどん歪みを感じ始めて……。今思えば若返り願望の一つだったのかもね。若返り願望って怖いよね。要は過ごした時間の否定だもんね。今の世の中って、若さを求めなきゃ女じゃないみたいな風潮で、ううん。女だけじゃない。男まで自分の歳を若く言ったりしててどうして若ぶったりするんだろうって思ってたんだけど、何のことはない。あたしもいわゆる加齢恐怖ってやつに囚われてたのよ」
「愛花ちゃんは、純粋だと思うよ」
不意に青木さんが言った。
「君の恋愛の記憶を幾つかもらったから分かるよ。君は純粋だよ。ヤケで男と寝た時もその後めちゃくちゃ後悔してたし。純粋さって経験の有無じゃないよ。経験の無いことがイコール純粋さだとしたらそんなもん価値ねえよ。経験を多少積んだくらいで、崩れちゃう程度のもんてことだろ。純粋さってもっと根本的なことだよ。根っこの部分で君は純粋だよ」
あたしは胸がじんと熱くなった。青木さんにはとんでもない自分ばかり見せていたのに、そんなあたしを、こともあろうに、「純粋だ」などと評してくれるとは思ってもいなかった。否定したいのはやまやまだったけれど、これは青木さんの最後のリップサービスなのだと思い、あたしは「ありがと」と返事をした。
青木さんは落ち葉のじゅうたんに腰を下ろした。そして
「あんなことを持ちかけなければ、オレたちはいい友達になれたのかもな」
とあたしを見上げた。「友達」という言葉にそそられる。記憶の売買なんて無かったことにしてあたしと友達付き合いしてよと要求したくなる。けれど駄目だ。ただの友達で我慢できるはずは無いから。
あたしは
「でもその代わり、使えない教訓も生まれなかった」
と言いながら、青木さんの隣にしゃがみ込んだ。意味の無いセリフだとういうことは分かっていた。何を言っていいか分からなかったのだ。せめて友達になりたいという欲望から目を背けたかった。
すると青木さんは「そうだな」と言ってあたしに両手を伸ばした。大きな両手が、あたしの両頬を包む。唇があたしの唇に触れる。
優しく振舞って見せてずるい男だと思いながら、あたしはまぶたを閉じた。あたしの恋情に応えられないくせに、あたしの恋情を刺激するなんて。
めくるめく接吻の喜びを味わった後あたしは目を開けた。向こう側のモミジの赤が、あたしの瞳を鋭く射抜いた。ふと夢で感じた神の存在を思い出した。もしかしたら自分の記憶の所有者は、自分ではないのかも知れないという気がした。
「ねえ人間なんてちっぽけね。心だけは自由なんて言いながら、心の動きも思い出も意のままにならないのね」
とあたしがつぶやくと青木さんは「そうだな」とだけ答えた。
モミジの木からもイチョウの木からも、木の葉は休むことなく舞い降りていた。あたしたちが今しがた交わした言葉すら、早く思い出にしようと、冬へ向かって駆け足で進んでいた。先ほど交わした唇の感触よりも寝間で感じた熱い息吹よりも、きっとこんな何気ない風景の方が、長く記憶に根付くのだろうという気がした。
冬はもう、すぐそこまで来ている。
小説というものを抽象的に考えていた時期に、思いついたネタです。小説には自身の経験を生かす作業が必要だなあと漠然と考えた時何となく思いつきました。
今はネタ帖とかは整理されているので、こういったことを思いつくことはまず無いんですよね。初期の頃ならではの作品だなあと思います。