ゲイからの依頼
2003年にカドカワエンタテイメントNext章でCプラス判定だったものを加筆訂正しました。
「オレは、実はゲイなんだ」
と青木さんが漏らした言葉は、別にあたしを白けさせなかった。なぜだろうとあたしは不思議に思った。あたしが勤める店、このスナックと呼ぶには少々規模が大きすぎ、キャバクラと呼ぶには少しばかり品がよく、かといってミニクラブより低級なこの飲み屋には、青木さんが先ほど発したような言葉を口にする男が、うんざりするほどやってくることを、店に勤めて半年が経つあたしは充分承知していた。
「オレって、ゲイなんだよ」
「オレ実は、童貞なんだよ」
なぜ男たちがそういった発言をするのか、あたしにはよく分からない。もちろん冗談だということは承知しているけれど、冗談というのは、聞いた人間が笑えるものじゃないのかとあたしは思う。おかしなタイミングでゲイだの童貞だのと口にする彼らを見ると、あたしはいつも苦々しい気持ちになった。
あたしが笑ったり、「えー、嘘―?」とか言うのを、期待しているんだろうなあと思うと、面倒臭くてたまらない。下手な冗談なら言わない方がいいのにとやりきれなさが募るが、プロである以上客の気持ちを害する訳にもいかない。だからあたしはいつも男たちに変化球を投げた。
「ゲイだったら、どうしてこんな店に来るの?」
あたしがしがらみから逃れられるなら、このセリフは、冷ややかな表情で吐き出されただろう。しかしあたしはいたずらっぽい笑顔で、茶目っ気たっぷりにこのセリフを舌に乗せるから、男たちは機嫌よく馬鹿馬鹿しい話を続けるのだ。
あたしは水商売の女には珍しく嘘が嫌いだ。嘘をつくのは上手だけれど、なるべくなら嘘をつきたくない。だからあたしは、率直な思いを口にする代わりに表情と声色を本心とは裏腹にする。愛想笑いは悪いことじゃない。営業スマイルは仕事をする上で当たり前、と自分に言い聞かせながら。
けれど今目の前にいる青木さんに対しては、あたしはいつもの、決まりきった返答をしなかった。「そうなの?」とだけ答えて青木さんの反応を伺い見た。
そもそも青木さんは、今日初めて来店した客だった。友人の披露宴の三次会だということで、七人組の男たちが連れ立ってやって来たのは一時間半前のことだ。まだ夜九時を過ぎたばかりで店内は空いていたが、土曜日ということもあり女の子は大勢出勤していた。
だからリーズナブルな料金を誇るこの店としては待遇よく、テーブルにはあたしを含め、七人の女の子がつけられた。たまたま青木さんの隣に座ったあたしは、水割りを作りつつ一時間ほど、青木さんや青木さんの近くに座っていた男たちと談笑した。
「同級生の、結婚式だったんだよ」
「じゃあ皆、同級生?」
「そうだよ」
「いくつ?」
「二十七」
「じゃあ、あたしの二こ上だ」
「え、じゃあ二十五? もっと下かと思ったよ」
その内店内が混み始め、テーブルから女の子が一人連れ出された。あたしにも別のテーブルへ行くようボーイが告げに来た。「指名なの?」と、青木さんは少し残念そうな顔をした。「混んできたからだよ」とあたしは笑ってライターをポーチにしまった。指名かどうかは、伝えられたテーブルの客の顔を見れば分かるが、あたしはいつも見ずにそう答える。「指名が入ったから」と答えるのはどんな客に対しても妙な恥ずかしさがあった。
二十五にもなった女を指名する奴がいるのかよと、客が心の中で、あざ笑っている気がする。青木さんとはこの一時間、割合楽しく会話をしたが、表面上の楽しい会話などというものに何の意味があるだろうと思う。
「ご馳走様でした」と、青木さんを含むテーブルの男たちとグラスを合わせると、青木さんが「名前は?」とあたしに尋ねた。「愛花」と答えると青木さんの正面の太った男が
「それって、めちゃくちゃ源氏名じゃん!」
と大声を出した。
「本名だよ」とだけ答えて、あたしは男から顔を背けるようにして立ち上がった。テーブル移動の指示は出ているし、何より不毛な会話が発展するのを阻止したかった。
この店では、約七割の女の子が本名を使っている。あたしも源氏名などというものを考えるのが面倒臭く、本名をそのまま使っているのだが、たまに客にしつこく「本名を教えろ」と迫られて閉口していた。
確かにあたしの名前ってお水っぽいけど、それ以前に客が、水商売の女は嘘をつくって思い込んでいる節があるんだよなと思う。いや確かにそういう子は多い。カレシいるのにいないって言ったり、誕生日を幾つも作ってプレゼントをもらったり。そんな子たちのせいで、あたしみたいに嘘が嫌いな女まで疑われるのかと思うと腹が立つ。そんなに疑わしいと思うなら、こんな店に来なきゃいいのにと腹が立つ。
そしてあたしは反省する。こんな気分で次のテーブルに着いてはいけないと。切り替えなければと。
けれど次の客に着いて十分もしない内に、あたしはまた、青木さんのテーブルに戻された。「指名だよ」と店長が早口で告げる。ふうん。あの人指名しようとして名前聞いたのかと思いつつ、あたしは青木さんのテーブルに戻った。
この店では、自分から客に名前を名乗る女の子は少なく、客に渡すための名刺すら用意されていない。田舎独特の商売の下手さだとは思う。でもOL生活の長かったあたしは、指名を取るための営業努力というものに対する嫌悪感に、抗えない。
「戻って来ちゃった」と言いながら、あたしは再び青木さんの隣に座った。本当なら「指名ありがとう」とでも言うべきなんだろうなあと思いつつ。
「うん。呼んだからね。それより水割りでいいの? 欲しい物あったら頼めば?」
青木さんは品薄なメニューを手にした。低料金なこの店で、自分の入れたボトル以外の飲み物を女に取らせるような客は少数派だったから、あたしはメニューを覗き込みつつも、青木さんの様子を盗み見た。
けれどすぐに、たかが一杯のカクテルを女に取らせる行為など、考え込むには当たらないと思い直し、あたしはマルガリータをボーイに注文した。
程なくして運ばれて来た桃色の液体を、あたしが口に含んだ時、青木さんは冒頭のセリフを口にした。「ゲイなんだ」と。
「急にこんなこと言われてもびっくりするよね。でも本当なんだ。いやでも実際には男と付き合ったことはなくて、女の子としか付き合ったことがなくて、今もカノジョはいるんだけど、好きになったことがあるのは男だけなんだ」
幾分顔を歪めて語りだした青木さんを眺めてあたしは、これはもしかして、本物かも知れないと思った。ゲイだと聞いて青木さんの顔を眺めると、その顔は随分好ましいものに思えた。
さっぱりした顔立ちだから元々好みのルックスだけど、ゲイだと聞かされると、ますますかっこよく見えてしまうから不思議だった。りりしい眉。鋭い目つき。尖ったあご。全て好ましいものに思える。指名はしてくれたけど、迫ってはこない相手だからそう見えるのかも知れない。そういう相手ならあしらいに苦労することないだろうと嬉しくなる。それにあたしはゲイの人とちゃんと話をするのが初めてだった。興味がそそられた。
何やら苦しげな青木さんとは対照的に、あたしは高揚し始めた。
「じゃあ、バイセクシャルってこと?」
心を弾ませてあたしは尋ねた。
「どうなんだろう? オレはバイは男も女も好きになれる人って解釈してるけど、オレは男を好きなのに、女と付き合ってるって状態なんだよね」
あたしは辺りを見回した。青木さんの友人たちはカラオケで盛り上がっている。あたしたちの会話を気に留めている人は、いないようだった。
「それ、ここにいる友達は知ってるの?」
あたしが声をひそめると、青木さんは
「いやこいつらは知らない。知ってるのはカノジョだけ」
と答えた。
「カノジョ、知ってるの?」
あたしが驚くと青木さんは
「カノジョはレズなんだ。お互い周りに対するカモフラージュっていうか……。いやカノジョのことは好きだよ。似た者同士だから楽だし。でも恋愛感情じゃない。恋愛感情は男にしか持てないんだ」
と悲しげに語った。
好みの容姿をした男が辛そうにものを言う姿は、あたしの心の中を甘く切なくした。割とモテそうなのにこの人苦労しているんだ。もったいない。
「今、恋愛感情持ってる人いるの?」
あたしは青木さんの、親身な女友達になった気分で質問した。青木さんの悩みを吐き出させ、払った指名料分くらいはすっきりとした気分にさせてあげたいと思った。
「今はいないよ。前に好きだった人が一年前に海外に行っちゃって、ずっと忘れられなかったけど最近やっと薄らいできて……」
と青木さんは答えた。物憂い表情がやけに似合う男だった。こんな表情が似合う青木さんをあたしは悲しいと思った。
「その人は、青木さんの気持ち知ってたの?」
優しい声であたしは尋ねた。あたしがこんなにも慈愛に満ちた声で客に話しかけるのは、もしかしたら初めてだったかも知れない。
「知らないと思うよ。今まで誰を好きになっても相手に言ったことは無いよ。拒絶されるのは嫌だし、もう一つはオレ自身、男と付き合って本当にゲイになっちゃうのが怖いっていうのがあって……。好きになるのは男だけだしこれからもきっとそうなのに、男と付き合うことに抵抗があって、だから女と付き合って、オレは普通なんだって自分に言い聞かせたりもしたんだけど、どうしても女に恋愛感情が持てないんだよね」
「そうなんだ……」
あたしは青木さんの中途半端さに親しみを持ち、親しみゆえに、青木さんの悲しみにちくんと胸が痛んだ。
男が好きなのに女と付き合う青木さん。口で本心を語って顔で嘘をつくあたし。半端な年齢で水商売を始めたあたし。始めたもののなかなか馴染まずに、客にメールアドレスすら教えないあたし。でもこの仕事を辞めないあたし。そして半端加減で苦しんであたしたちって似ている。
でもあたしはこの人に、何て言ってあげればいいんだろうと思った。思い切って男と付き合ってみろって? 新宿二丁目かタイにでも行ってみろって? それができたらこの人悩まないよ。じゃあ女を好きになれって? それができたらこの人悩まないじゃん。
あたしが考えあぐねていると、青木さんは水割りを一口飲んでこう言った。
「でも男と付き合わなくても、何とかなる方法が見つかってね」
「どんな?」
青木さんはもう一口水割りを飲むと、言い辛そうに
「信じてもらえないかも知れないけど、できれば信じてもらいたいんだよね。そのためにオレ愛花ちゃんに頼みたいことがあって指名したんだよね。実は」
と言った。そういえばゲイの青木さんが、どうして指名料を払ってまであたしをテーブルに呼んだのか、全く考えていなかったことに思い当たった。あたしは「何?」と恐る恐る尋ねた。
「前のカノジョと付き合ってた時、その子はレズとかじゃなくて普通の子で、オレも自分の嗜好は隠してたんだけど、ある時その子とエッチしてたら、その子酔っ払ってたせいか昔の男のことを話し始めたんだよね。『あなたはあの人と似てる。わたしを本気で好きじゃないところも同じ』とか言って。こっちも負い目があるから、カノジョが話すままに思い出を語らせながら行為は続けてて……。
そしたらカノジョの昔のオトコの顔とか声とかが、すげえリアルに、オレの頭ん中に入ってくるの。そいつの髪の感触とか、そいつの名前や電話番号までオレの頭ん中に入ってくるの。カノジョはそんなことまでは言ってないし何なんだ? って感じで。
で終わった後カノジョが、『わたしさっき誰かの話してたよねえ?』って言うの。『誰か男の人のこと話したよねえ?』って。それでオレが、そいつの名前とさっき聞いた話を言うと、『それって友達のお兄ちゃんの名前だけど、わたしその人と付き合ってたなんて言ったの? つーかわたしさっきその人のことしゃべってたってこと? えー全然思い出せない。やばっ。酔ってるから?』とか言って布団被って寝ちゃってね。
オレはオレで、カノジョの昔のオトコが、オレの中ですげえリアルな存在になっちゃって、まるでそのオトコと付き合ってたのはカノジョじゃなくて、オレの方だったような気がしてきて、何かすげえ新鮮で幸福で懐かしくってほろ苦い気分なの。カノジョがそいつのこと話してたのは二十分くらいだったのに、オレの中には、カノジョがそいつと付き合ってた九ヶ月っていう期間が刻み込まれちゃったの。分かる? こんな感覚」
突然質問されてあたしはうろたえた。そんな話は聞いたこともない。とりあえず
「カノジョの話に、すごーく感情移入したってことではないんだよね?」
と聞いてみたが、青木さんは首を振ってこう言った。
「カノジョの思い出がカノジョから抜け出して、オレにすっぽり入ってきたんだよ。オレ自身何だか信じられなくて、眠れなくて、頭に浮かんだケイタイの番号が振り切っても振り切っても消えなくて、かけてみたら……」
「その人が出たの?」
あたしは思わずかぶりつくような声をあげた。
「うん。名前を確認したら『そうです』って……」
あたしは生唾をごくんと飲んだ。そんなことってあるんだろうか。
「オレびっくりして電話切って、でも確かにその声はイメージ通りっていうか、むしろ久しぶりに聞いた気がして……」
あたしは頭が混乱してきた。今聞かされているのは本当の話なんだろうかと疑った。こんな嘘をついても何のメリットも無いと思う。けれどメリットも無い嘘をつくのが、店に来る男たちの常だ。しかしそんな人には見えなかった。メリットも無いような嘘をつく人には見えなかった。
「オレ変な気分になって、次にカノジョとエッチした時に聞いたの。『他にはどんなオトコと付き合ったの?』って。そしたら別のオトコの話をしてくれたんだけど、やっぱりそのオトコの情報がリアルにオレの中に入ってくるの。でエッチが終わると、カノジョはそのオトコのことを忘れてるの」
気が付くと青木さんのグラスは、水割りが三分の一ほどになっていた。青木さんの話に気を取られていたあたしは慌ててグラスに手を伸ばし、水滴をおしぼりで拭った。青木さんにどう返事をしたものか分からず、グラスに氷を入れウイスキーを注ぎ、作業に没頭することで自分を落ち着けようとした。
「カノジョにはその後、二人の思い出をもらって別れたんだけど。『別れたい』って言ったのはカノジョだけどね。でオレはよく分からん体験だけど、恋愛の思い出ができたってことで何だか救われたんだよね。男と付き合うのは抵抗あるけど、道を踏み外さずに思い出が作れたことに、ホッとしたっていうか……」
「ゲイだけど、女の子と付き合うだけじゃなくてエッチもできるの?」
ちょっと話の主旨とずれているなあと思いつつ、あたしは質問した。無言で青木さんの話を聞き続けている気まずさがあり、かといって青木さんの話を否定も肯定もできず、苦心して発した質問だった。
「うん。正直特にヤりたいとも思わないしストライクゾーンはかなり狭いけど、できる相手もいるよ」
「どういう子となら、できるの?」
話題が少し変わったことにホッとしつつ尋ねると
「愛花ちゃんとなら、できるよ」
と意外な答えが返ってきた。
思わぬ返答に
「え、何で?」
と驚くと、青木さんは
「オレ中性的な感じの子じゃないと駄目なんだよね。少年体型で顔立ちが素っ気無くて、オンナオンナしてない子がいいんだよね」
と笑って答えた。これはあたしがよく評される言葉なので妙に納得した。
「たまに、『胸ない子が好み』って言う人がいるから、これはこれで需要があるんだなあとは思ってたけど、ゲイにも需要があるなんて思わなかったよ」
とあたしが笑うと、青木さんは微笑んだままこう言った。
「供給してくんない?」
「え?」
驚いてあたしが聞き返すと、青木さんはもう一度こう言った。
「供給してよ。需要があるんだから。それが資本主義のバランスでしょ」
あたしは少し気分を害した。何よ。散々訳の分からない話しといて。要はあたしと寝たいってこと? 何なの、この口説き方。大体たかが一回指名しただけであんまりにもずうずうしくない? こう思いながら。
「だって女としたくないんでしょ。無理すればヤれるってだけなんでしょ」
怒りを声に出すまいとしながら尋ねると、青木さんは
「うん。だから……、ヤるのは目的じゃないよ。要は愛花ちゃんの思い出を分けて欲しいんだ」
と言いにくそうに答えた。
「ヤらないで思い出だけもらえたら、それが一番いいんだけど、それ以外の方法オレには無いし。嫌な男の思い出って無い? 忘れたい男の思い出とか」
あたしは一人の男、江藤克己を思い起こした。嘘ばかりついていた克己。くだらない奴なのに忘れられない男の一人を。
「そりゃあ、いるよ」
あたしは吐き捨てるように言った。「忘れたくない?」と青木さんが畳み掛けてくる。
「忘れられるもんならね」
「じゃあその思い出、オレに押し付けてよ」
青木さんはいとも簡単に言い放った。まるで「引越しの手伝いならオレに任せてよ」と安請け合いする男友達のように。
「そんな、嫌な男の思い出でいいの?」
いぶかしむあたしに青木さんは
「いい男の思い出ももらえるもんなもらいたいけど、嫌な男でもいいよ。一度は好きになったんなら。オレせめて思い出でいいから欲しいの。どっちつかずでいじいじしてる半端なオレには、それしか方法無いの。もちろんお礼はするよ。一人につき三万払う。どう?」
とあたしを凍りつかせる提案をしてきた。
「援助交際」「売春」という言葉があたしの脳裏に浮かんだ。この男は、そういうことを自分に要求しているのか。
「カネで体、売れって言うの」
あたしが思わず顔を強張らせると、青木さんは言い聞かせるかのように
「いやオレは、愛花ちゃんの体にカネを出すんじゃない。愛花ちゃんのいらない思い出にカネを払うの。廃品回収みたいなもんだよ。いらなくなった思い出ありませんか? 一つ三万円でお買取りしますよってこと。もし現金に抵抗があるんなら、三万円分この店通って愛花ちゃん指名しようか」
と言った。
あたしは
「え、やだ。それって寝て客取ってるのと同じじゃん」
と直ちに拒否した。年齢の高いあたしは指名の数は決して多くないけれど、そんなことまでして客を取る気はさらさら無かった。
すると青木さんは
「じゃあ何か買ってあげる。そういう経験ならあるでしょ」
と更に提案を重ねた。
「無いよ」
あたしはムッとして答えた。この男は水商売の女を軽く見すぎているに違いないと考え、少なからず腹を立てた。
「本当に無い? 愛花ちゃんは美人だから男に結構カネ使わせてきたクチじゃない?」
青木さんがからかうような口調で言ったので、あたしは
「何よ。人のこと『素っ気無い顔立ち』とか言っといて」
とむくれた。
すると青木さんは
「さっぱりした美人だって、言ったんだよ」
と微笑んでから
「今、カレシいる?」
と尋ねた。「いない」とあたしは正直に答えた。
「今までのカレシは愛花ちゃんにカネ使わなかった? メシはおごってもらっただろうし、クリスマスにはプレゼントだってくれたでしょ。それは何で? エッチをしてたからじゃない。君がカノジョだったからだ。君のことを好きだったからだ。
でももし愛花ちゃんがカレシに体を許さなかったら、カレシはカネを使って、愛花ちゃんと付き合い続けたか? 普通なら有り得ないね。君が肉体関係を拒むのはオレのことを本気じゃないからだっ、て離れていっただろうね」
あたしは黙り込んだ。それはそうかも知れないと思ったからだ。口を閉ざしたあたしを見て青木さんは更に勢いづいた。
「今のオレの提案も同じことだよ。君が思い出をくれるなら、オレは欲しい物を買ってあげる。目的はエッチじゃない。でもエッチをしないならカネは使わない。愛花ちゃんが今までやってきたことだよ。付き合うか付き合わないかの違いだけ。それとも付き合ってない男とヤッた経験は無い?」
「……あるけど……」
「そん時メシくらい、一緒に食ったでしょ」
「うん」
「おごってもらわなかった?」
「……おごってもらった……」
「同じじゃん」
と青木さんは締めくくった。同じなんだろうかとあたしは考えあぐねた。この人があたしに持ちかけている話は、何らやましい所の無い平凡なものなんだろうか。
その時ボーイが、テーブル移動の指示を出してきた。あたしがホッとして立ち上がろうとすると青木さんは
「とりあえず、連絡して」
とあたしに小さく折り畳んだメモを渡した。
あたしはそれを、ハンカチやシガレットケースの入ったポーチにねじ込んだが、ポーチには昨夜、他の客から渡されたメモが数枚入っていることを思い出し、今もらったメモだけをシガレットケースに入れ直した。青木さんのメモを、名前も忘れたような客から受け取ったメモと混ぜてしまうことを、なぜかためらう気持ちが起こっていた。
午前四時十五分。コンビニの弁当類の種類は少ないがその中から選ぶ他は無い。一人暮らしをしているあたしには、家に帰っても温かい食事は用意されていない。そうかといってこんな夜中とも早朝ともつかぬ時間に、労働で疲れた体で台所に立つなど、考えられもしないことだ。中華丼を手に取りカゴに入れようとすると不意にポンと肩をたたかれた。振り向くと何と五時間ほど前に店を出たはずの青木さんが、ニヤッと笑って立っていた。
「今、帰り?」
青木さんは先ほどまでのフォーマルな装いを改め、長袖のTシャツにジャージといった軽装になっていた。髪もワックスを洗い落としたらしく、いかにもサラサラと柔らかそうに揺れている。
「何で、いるの?」
あたしが目を大きく見開くと、青木さんは
「オレんち近所なの。早々目覚めちゃってちょっとこの辺走ってたら、愛花ちゃんがこの店入るの見えたからさ。何これからメシ?」
とカゴの中を覗き込んだ。
「うん」とあたしは小さく答えた。コンビニ弁当などを買っている姿を見られるのは、気恥ずかしく思われ軽く目を伏せた時、青木さんは
「こんなの買わないでさ、ラーメンでも食おうぜ」
と快活な声を出した。
「え……」
「どうせいつもコンビニなんだろ。弁当ばっかじゃ飽きるだろ。行こうぜ」
青木さんはあたしの手からカゴを取り上げると、軽くあたしの背を押した。先ほど感じた気恥ずかしさも手伝って、あたしは何となく逆らえず、そのまま青木さんの後ろについて店を出た。
「これ愛花ちゃんの車? キー貸して。オレ運転するから」
あたしからキーを受け取り、青木さんはエンジンをかけた。
「客とアフターとか、行かないの?」
車をロックしながら青木さんは尋ねた。会ったばかりの男と、車内で二人きりになった居心地の悪さを振り払うため、あたしはひとまず、青木さんとの会話に専念することにした。
「うちの店、そんなことする子いないよ」
あたしが薄く笑うと青木さんは
「ふうん。店からは『行け』って言われないの?」
と車を出しながら尋ねた。
「言われないよ。『指名取れ』とも言われない。そうじゃなかったら勤めてらんない」
「指名取るの、大変?」
「そもそも、どうすれば指名取れるのかよく分かんない」
とあたしは、日頃から思っていたことを口にした。あたしは店に来る客の心理というものをまるで分かっていなかった。カネを使って知らない女と飲んで、何が楽しいんだろうと考えていた。
「客と外で会って、思わせぶりなこと言えばいいんじゃないの」
青木さんの一般的なアドバイスに対し、あたしは
「そんなことしたら、店じゃなくて外でばっかり会いたがるんじゃないの」
と反論した。そんなことをされたら本末転倒だ。何のために時間を割いたのか分からなくなってしまう。
「中にはそういう客もいるだろうけど、そんな奴ばっかじゃないんじゃん?」
「でもお客さんと外で会うなんて、面倒臭い」
「オレと今、会ってるじゃん」
青木さんはまた、ニヤッとした。
「何よ、強引に連れ出しといて……、え? 何でここに入るの?」
気が付くと車は、どこかのアパートの駐車場に入ろうとしていた。
「オレの部屋二階なんだ。今からラーメン作ってやるよ」
さも当たり前のように言う青木さんに、あたしは慌てて
「え、ちょっと困る。そんな部屋になんて行けない」
と拒否したのだけど、青木さんは平然と
「別に今日ヤるつもり無いし降りなよ。この近所、今時分開いてるラーメン屋無いし」
と言ってさっさと車のドアを閉めた。
青木さんは、車のキーを持ったまま歩いて行ってしまったので、あたしも急いで車を降りたのだけど、青木さんはもうアパートの外階段を上っていた。焦って後を追うと青木さんはすでに部屋のドアを開けており、ニッコリと笑ってあたしを招き入れた。その邪気の無い笑顔につられ、あたしは思わずドアの向こうに足を踏み入れた。
ラーメンには、チャーシューと卵と海苔とキャベツと長ネギが乗せられていた。丼にはレンゲが添えられ、隣には焼きギョーザの乗った皿が置かれ、付け合せにはザーサイが出された。冷蔵庫からはよく冷えたビールが登場し泡を立ててグラスに注がれた。
「ごはん、よく作るの?」
乾杯の後あたしが尋ねると、青木さんはビールを一口飲んで
「毎日じゃないけどね」
と答えた。強引に部屋に連れ込まれたことに腹を立てていたあたしだったが、目の前で湯気を立てているラーメンを見た途端、自分がとても空腹だったことを思い出した。
「さっきはラーメン屋じゃないの? って思ったけど何か久しぶり。おうちで作ったごはんなんて」
「たかが、インスタントラーメンだけどな」
「ギョーザも? 冷凍食品?」
「それは、昨日作った」
「すごーい。買ったやつみたいに形が綺麗」
「まあ褒めるのは、食ってからにしてくれ」
照れたように言う青木さんを見て、料理の苦手なあたしは、青木さんを少しだけ尊敬した。あたしにとっては、インスタントラーメンはともかくギョーザを手作りしようとする人間というのは尊敬に値した。
しょうゆと酢とラー油を溶いてギョーザに付け、一口食べてみる。口の中に肉と野菜の旨味がジュワッと広がった。あたしは
「あー、美味しくてホッとする」
とご機嫌な声を出した。
すると青木さんは
「じゃあプレゼントに、料理もつけるよ」
と言い出した。
「え?」
「思い出、頂戴」
またもやニヤッと笑った青木さんを、あたしは黙って見詰めた。青木さんの涼やかな顔立ちの向こう側に、小さな本棚があるのが目に入った。本棚にはあたしが高校生の頃使っていたのと同じメーカーの辞書が、ケースも無くむき出しのまま、少しよれっとしながら体を支えていた。
おそらく青木さんは今でもあの辞書を愛用しているんだろうなと思った。思った途端、あたしは「いいよ」と答えていた。
「マジ?」
「うん」
うなずきながらあたしは、ラーメンのスープをレンゲにすくってごくんと飲んだ。化学調味料がたっぷり入っているんだろうなあと思いつつ、でも旨い、旨いよなあと思った。無心に飲み食いするあたしに対し、青木さんは
「変な女だよなあ」
と苦笑した。
「え?」
あたしが丼から顔を上げると、青木さんは
「カネ払います。指名します。プレゼントしますって言っても全然OKしなかったのに、何でメシ作ってやるって言ったらOKな訳?」
と不思議そうに尋ねた。
「うーん。何だろうねえ。ラーメンもおいしかったけど、その他色々……、あたしが今までの人にお金出させてたこととか、そういうのと変わんないのかなあって思ったりとか……」
そこであたしは大きな欠伸をした。食べ終わってみると、労働の疲れか今飲んだビールの酔いかひどく眠気を感じた。
「眠い?」
「んー、そういえば結構眠いかも……。酔ったかも……」
「後になってから、『さっきOKしたのは酔ってたせい』とか言うなよ」
「言わないー」
あたしはテーブルに、こてっと頭を乗せた。
「そんなに眠いなら、一緒に寝る?」
「今日はしないって言ってたから、寝ないー」
あたしはソファーにうずくまると、酔いながらも冷静に、頭がくらくらするなあと考えていた。しばらく休んで酔いを醒ましたら起きて帰んなきゃ。ああでもあたし車だったっけ。車通勤だから店でもお酒は飲んでないのにうっかりしちゃったなあ。
そう思いながらぼんやりしていると、不意に江藤克己のことが頭をよぎった。嘘ばかりついていた克己。あたしと付き合うにあたって他の女は全部切ると言っていたのに、切れていなかった克己のことが。何て忌々しいんだろうと思う。でもこんな煩わしい思い出を引き取ってくれる人が現れたんだと気付く。感謝しなくちゃ。そう思いながらあたしはいつの間にかまどろみの中にいた。
夢の中であたしは不思議な場所に来ていた。辺りは暗いのだが、遠くに光が見えるようだった。何となく自分がもう死んでしまったような気がした。光が射す方へ向かっていいのだろうか。迷いつつあたしが光の方向へ足を向けるとどこからか声が聞こえてきた。
「わたしは、お前と江藤克己のことを知っている」
びくんとしてあたしは、声の聞こえた方角を確認しようとしたのだけれど、どこから聞こえてきたのか分からなかった。分からないままにその声は
「お前たちの出会いから別れ、交わした言葉の一つ一つをわたしは覚えている」
と続けた。それを聞いてあたしは泣きながら神に呼ばわった日のことを思い出した。
「神様、いるのかいないのか分からない神様、もし存在するのなら聞いて下さい。あたしと克己との思い出を、どうかあなただけでも覚えていて。あんなに好きになって今でもこんなに好きで、それでも一つ一つの記憶が消えていくんです。あたしと克己は別れてしまったからもう増えていく思い出は無い。消えていく一方です。
あんな人のことなんて忘れちゃいたいし、忘れるべきなのは分かっているけどでも、いつかあたしたちの関わりを覚えている人が、一人もいなくなってしまうなんて、耐えられません。百年後二百年後には無かったことになってしまうのは嫌。こんなにあの人を想うあたしすらあの人のことを忘れてしまう。嫌です。嫌。
あたしもう電話に出ませんから、あんな身勝手で尊大な男とはきっぱり切れますから、神様あなたは覚えていて。あの人がどんなに優しかったか、あの人の顔も声も髪の毛の一本一本まで、どうか……」
そう叫んだ日のことを思い出した。ではこの声の主は神なんだろうか。
「けれどお前はその思い出を別の人間に売り払った挙句、自分の体をも売った。お前はここに来てはいけない。お前が行くべき場所はあそこだ」
振り向くと遥か彼方に燃え盛る炎が見えた。あたしは恐怖に全身を貫かれ頭を抱えたが、頭のどこかで冷静に、悪夢を見ているのだという判断があった。
赤い炎が近づいてくる。いやあたしが炎に吸い寄せられているのかも知れない。怖い。これは夢だ。うっすらとしたそんな判断は悪夢の中にあってはあまり意味をなさない。嫌だ。目覚めたい。炎が近づいてくる。赤い。何てきつい赤なんだろう。まぶたを閉じても炎の赤みが瞳の中に飛び込んでくる。炎の中でもがく人間たちの姿まで。助けて。助けて。
目が覚めた。やっと悪夢から逃れられたことを知りあたしは溜め息を吐いた。
しかし再びまぶたを閉じると、まぶたの裏に、夢の残像の赤い炎と人間たちの苦悶の表情が浮かび上がりあたしはぎょっとして目を見開いた。そしてその瞬間、先ほどの人間たちの中に、克己の姿を見たような気がした。
あたしの財布からカネを抜いていた克己。怪しんだあたしが追及しても、決して認めなかった克己。克己は地獄に堕ちるのかな……。そう思いついてあたしはハッとする。何て馬鹿馬鹿しい。強く首を振ってみる。この思いつきを頭から振り払えるように。
気が付くと部屋の中は、昼間の明るい陽光に満たされていた。DVDデッキの液晶に示された時刻は十一時四十分だった。
あちゃー結局泊まっちゃったよ。何やってんだろと思いつつあたしは体を起こした。明け方うずくまったソファーは、ソファーベッドだったらしく、知らない間に背もたれと肘掛が倒され、いつの間にか布団が二枚かけられている。
青木さんて気が利くんだな。あたしは感心すると、布団にファンデーションを付けてしまっていないかチェックした。大丈夫だったようなので、次にコンパクトを取り出して顔を点検した。化粧ははがれかけていたがそう酷い顔ではない。コンパクトをしまうと、先ほどからキッチンでごそごそしていた青木さんが顔を出した。
「あ、起きたの? コーヒーでも飲む? インスタントだけど」
「ありがと」
青木さんは手際よくコーヒーを入れ、ミルクと砂糖の有無を尋ねると
「シャワー浴びたければ、使っていいよ」
と浴室を指した。
「いいよ。顔洗うにもクレンジングも無いし」
あたしが断ると、青木さんは
「じゃあ朝飯、つーか昼飯か? もうちょいでできるから待ってて」
と言ってキッチンに消えた。あたしは熱いコーヒーをゆっくりとすすりながら、先ほどの悪夢によって滅入る心と戦い始めた。
気にすることは無い。ただの夢だ。人はその日一番印象に残ったことをディフォルメしたものを夢で見るものだもの。昨日は青木さんにあんないかれた話を聞かされて、あろうことか思い出を売る約束までしてしまって、そんな珍しいことが起こったんだから、それに関わる夢を見たって当然。神が出てきてあたしを罰したのだって、あたしの罪悪感のせい。
そこまで思って、あたしはハッとした。自分が罪悪感を持っているという事実に気付いたからだ。
眠る前は、納得したような気分になったけれど、本当は納得していないのかも知れないと思った。やっぱりいけないことなのかも知れないという気がした。でもどうして、いけないと思ってしまうのか分からなかった。思い出を売ると、誰に迷惑がかかるのか分からなかった。
青木さんのカノジョはレズで、青木さんとはカモフラージュで付き合っているんだから、あたしと青木さんが寝たって、どうってことは無いだろう。だからカノジョに対する後ろめたさではない。そして青木さんは思い出を欲している。あたしは克己の思い出を無くしたい。欲を言えばあたしは忘れたいけど誰かに覚えていて欲しい。だからあたしたちの利害は一致している。
今回あたしの欲張りな願いがかなうことになった。その上プレゼントももらえて、ごはんも作ってもらえる。そしてあたしには今カレシがいない。誰も傷つかない。それなのにどうして、いけないことだと思ってしまうのか分からなかった。
「いずれ愛花ちゃんを本気で好きになる人が現れた時、その人が悲しむよ」
ふとOL時代のあまり仲のよくなかった同僚の言葉を思い出した。二十歳の頃、地元のナンパスポットに女友達と連れ立って出没していた頃、それを耳にした同僚から、さも親切そうに言われたそのセリフはあたしの耳に逆らった。
何言ってんの? この人。あたし確かに男によく声をかけられるような所に出入りはするけど、一人じゃ絶対ついてったりしないのに。友達と一緒の時だって滅多についてったりしないのに。
けれど「ナンパしてきた男を数えて楽しんでるだけ」とも言えず、あたしはそのうっとうしい同僚に対して「そうかな」とだけ答えた。
そうかな。そうなのかな。何だかんだ言って結局援交みたいなことをしたら未来の恋人に対して悪いっていうそういう罪悪感なのかなと思う。でも……。
でもその未来の恋人は今あたしの側にいない。克己の記憶に、がんじ絡めになっているあたしを今すぐ助けてはくれない。あたしは今辛いのだ。いやずっと辛かったのだ。女にだらしないくせに、あたしには品行方正さを求めるあの人と完全に決別するために、あたしはOLを辞めて水商売まで始めた。それなのにあたしの心は、克己に蝕まれたままなのだ。
その時青木さんが「お待たせ」と食事を運んで来た。あたしは気を取り直して盆の上を眺めた。ほかほかと湯気の立った玄米粥に、梅干とキャベツの浅漬け、豆腐とワカメの味噌汁に、ほうれん草のおひたし、それとカットした林檎が運ばれて来た。
「朝方ラーメン食ったし、軽くしといたけど」
と言って青木さんは、ポットから急須に湯を注いだ。
「いつもこんな、ちゃんとした朝ごはん食べてるの?」
あたしが尋ねると、青木さんは
「休みの日だけな。普段はシリアルに牛乳ですます」
と答えながら緑茶を注いだ。
この人の料理って主婦っぽいなと思った。普通は男の人って、材料費かけて豪華な料理作ったり、思いっきり趣味に走って全然実用的じゃなかったり、一品でーんと作るだけだったりするのに、この人はあんまり時間と手をかけずに、その時に応じたごはんを作るんだなと思った。
あたしが箸を手に取ると、青木さんが粥をすくいながら
「愛花ちゃん、今日仕事何時から?」
と尋ねた。
「あたし、日月休みなの」
梅干をつまみながらあたしが答えると、青木さんは
「じゃあ今日明日休みなんだ? だったらこれから買い物行こうよ」
と言った。
「え?」
「ほら愛花ちゃんにあげるプレゼント。そうだなあ。十五万くらいでとりあえず五人分思い出譲ってよ」
ああそうかとあたしは思った。朝方酔っ払って交わした約束が、急に現実味を帯びて迫ってきた。
「ああ……。でもうち帰ってお風呂入りたいし……」
「じゃあ風呂入って着替えてまた来てよ。何時頃来れる?」
DVDデッキの液晶は、ちょうど十二時を示していた。
「三時は、過ぎちゃうかな」
「じゃあその間、夕飯の下ごしらえしとくよ」
あたしは嬉しさと戸惑いを覚えた。最早約束は違えられないものとして、あたしたちの間で会話が成立していたからだ。
青木さんのアパートを出てあたしは軽く溜め息を吐いた。悪夢の余韻は残っているが、朝方交わしたばかりの約束を、違えることもためらわれ、あたしは駐車場の小石を蹴飛ばした。大体「嫌な夢を見たからあの話は無かったことに」などと言えるはずが無い。
「でもあの夢、神からの警告かも知れないし……」
独り言をつぶやき、あたしは車に乗り込んでエンジンをかけた。「今日は用がある」と言えばよかったような気がした。でも先延ばしにしても仕方が無い気もした。
車を暖気しながらあたしは、とりとめの無い考えに入った。
神ってやっぱりいるんだろうかと思う。結局罪悪感を持ってしまうのは、神がいるかも知れなくて、その神が「駄目だ」と言うかも知れないからかも知れないと思う。でも神がどういう存在で、どういう倫理観を持っているのか、あたしには分からない。分からないのに漠然とした不安で一度した約束を破ったら、やっぱり罪悪感が芽生えてしまう。それに青木さんには一宿二飯の恩がある。
あたしは朝方のラーメンと、先ほどの粥と味噌汁を思い出した。あったかくて美味しかったよなあと思う。怖い思いをさせられた神より、美味しい思いをさせてくれた青木さんの要望を聞き入れたいというのが、人情ではないかと思った。大体どうしていけないのか説明もせず地獄のイメージで人を脅すなんて、褒められたやり方じゃないという気がした。
あの夢がただの夢か神からの警告かは分からないけれど、警告だったとしたら、やり方が気に入らない。
車は暖まったようだ。心を決めたあたしは迷わずシフトレバーをドライブに入れると、速やかにアクセルを踏んだ。前方注意を怠ったことには気付く由も無かった。
バッグを一つ選ぶと三万円の余りが出た。隣の売り場に目をやると、今の季節にふさわしく秋冬小物が幾つも陳列されていた。黒いストールを手に取ると、二万八千円のタグが付いている。それを青木さんに渡し買い物は終了した。あたしの手持ちのバッグの最高額は六万円にも満たないから、今日はその倍以上の金額のバッグを入手したことになる。しかしあたしの心はあまり浮き立たなかった。
「前払いでもらっちゃって、よかったのかな」
帽子を深く被り直しながらあたしは言った。水商売をやって学んだことは、男と外出する際は注意が必要だということだ。どこで客に見られているか分からない。うっかり目撃されて、カレシではないかと勘繰られたり、「オレとも店の外で会ってよ」としつこくされるのは避けたい事態だ。
芸能人でもないのに人目を忍ばねばならない水商売という仕事は、本当に奇妙で、厄介だと思う。早く青木さんのアパートに戻って落ち着きたいが、それは青木さんの寝室へ急ぐことを意味する。しかしその結果が、高いカネを使わせた青木さんを本当に満足させられるのかとあたしは少々憂鬱だった。
「でも先にヤッちゃったら、今度はこっちが、先にもらっちゃってよかったのかなと思うよ」
デパートの紙袋を肩に掛け直しながら、青木さんは答えた。
「けどあたしの恋愛経験って、青木さんの好みじゃないかもよ」
「恋愛なんて始めてみなきゃ、自分好みの展開になるかなんて分かんないじゃん。好ましくなきゃ別れるだろうし、好ましくても振られることもあるだろうし、好ましくないのにやめられない場合もあるし」
「まあねえ」
相槌を打ちながら、ああそうかと思った。青木さんだって自分の恋愛スタイルは好ましくないのだ。そしてあたしも克己のことでうだうだしているのは全く好ましくない。
そこまで考えてあたしはふと、もし青木さんを好きになっちゃったら、それって正に好ましくないなあと思った。そしてどうしてそんなことを思いついたんだろうと、自分をいぶかしんだ。そんなの今更思いつくまでもないことなのに、と。
夕食の出来栄えにもあたしは及第点をつけた。豚のスペアリブと、ほうれん草のソテーに人参のグラッセ。インスタントではないコーンスープと、ライ麦のパンにシーザーサラダ。そして赤ワインの苦手なあたしのためにロゼのワインと、刻んだキウイの入ったヨーグルト。
それほど手がかかっていないことは、料理嫌いのあたしにも分かった。かといって手抜きでもなく、豪華すぎず貧乏臭くなく、今朝食べたほうれん草の残りが使われている無駄の無さがあたしの気に入った。
「青木さんは、女になりたいの?」
食事が終盤に差し掛かった頃、ふと思いついてあたしは尋ねた。
「料理も好きみたいだし、本当は女に生まれたかった?」
あたしが何気なく口にした質問は、青木さんを饒舌にさせた。青木さんはグラスをコトンと置くと
「女だったら何の問題も生じなかったかもなとは思うけど、正直、女になりたいっていう願望は無いな。オレが持っているのは男を求める気持ちだけだから、自分自身に女を求めることも無いね。そもそもオレはノン気の奴が自分と反する性を求めることが、理解できないんだよね。愛花ちゃんも男が好きでしょ? でも自分は女であってそれは肯定しつつ逆の性を求めるのはどうして? 矛盾しないの?」
と真剣な眼差しであたしを見詰めた。
「あたしは厳密に言えば、女より男が好きって訳じゃないよ」
とあたしは答えた。
「基本的には女の方が好きだし。それに嫌いな男と嫌いな女だったら男の方がより嫌い。でも一番好きな人は大概男なの。だから男と恋愛するの。それに女を恋愛対象として見たこと無いし」
「それもまた、複雑だなあ」
と青木さんは考え込むように言った。
「ゲイにも色々あるようにノーマルにも色々あるんだよ。きっと」
と言いながらあたしは、自分がこういう考え方だからこそ、こんな嗜好を持った青木さんを受け入れることができたんだろうかと考えた。
「そうかもな」
「それにしても女を全然求めてない人が、よく女とエッチできるね」
「ヤッてる時ってオレって男だなあって思うから、男を実感できるから、ヤレるんだろうな」
「ふうん。まあ分からなくもないけど」
とあたしは答えた。あたしも男に抱かれる度に、最も自分の女という性を自覚できるように思っていた。
「でもピンと来ないだろ? ゲイが女とするファックなんて」
「そりゃあね。未知の世界だし」
「そう変わんないさ。昔の男の告白がついてくるだけだ」
そう言って青木さんはあたしの唇に軽く自分の唇を合わせた。へえキスするんだと、あたしは少し意外だった。必要無いし、しないかと思っていたけど。
すぐ側のベッドに移動し、灯を落とすと、青木さんはあたしのシャツのボタンに手をかけながら
「どんな男と、付き合ってた?」
と低い声で尋ねた。
あたしは少し考えて初めて付き合った男の話を始めた。まだ青木さんの話を、完全には信じきれていなかったので、克己の話をするのはためらわれた。もし事が済んでも記憶が消えていなかったら、酷くショックを受けるように思われた。
そこで、忘れたいと思い詰めるには記憶が薄れ過ぎており、とっておきたいと願うには幼稚過ぎる初めての男を語ることにした。女にとって初めての男とは、得てしてそんな相手が多いものだから。余程その時から自身が成長していない場合を除いては。
青木さんが入れた熱いココアを喉に流し込みながら、あたしは落ち着かない思いだった。青木さんとのセックスが、奇異なものだったからではない。ありふれて幾分シンプルなそれは、妙な表現だがとても丁度いいものに思われた。だが情事の最中に語った男のことが思い出せない。誰のことを語ったのか思い出せない。
「あたしさっき、誰の話してた?」
「初めての男の話だよ」
マルボロの箱を手繰り寄せながら青木さんは答えた。あたしは過去に思いを馳せた。記憶の中で最初に登場してくる男は、大学一年の頃サークルで出会った男だった。初めてが大学に入ってからとは少し遅過ぎると思いながら、あたしが
「それって、同じサークルの?」
と尋ねると、青木さんは
「違うよ。バイト先で知り合ったんだよ」
ときっぱりと言い切った。
「バイト先? あたしバイト先でカレ見つけたことなんか……」
あたしは酷く動揺しつつ、けれど確かに自分の初体験が十八歳ではおかしいと思った。十八の頃に、処女ではないことをなじられた記憶があったからだ。
「だからオレに、思い出が移ってきたんだよ」
あたしは妙な気分だった。記憶の売買はどうやら本当に可能だったということになるが、さっきまでは、おそらく記憶していただろう事柄がすっぽり抜けてしまい、目の前の男がそれを知っているというのは、どうにも変な気分だった。
青木さんは泊まっていくよう勧めてくれたけれど、あたしはそれを断り、飛ぶように自分のアパートへ帰った。アパートへ着くなりクローゼットからアルバムを引っ張り出す。付き合った男たちの写真は、他の写真とは別に保管してあったから、目当てのアルバムを引っ張り出せば、初めての男は一ページ目に写真が貼ってあるはずだった。
扉を開き飛び込んできた男の顔に、あたしは見覚えがあった。確かにファミレスでバイトをした時に知り合った男だ。けれどプライベートで関わった記憶は全く無いのに、この写真の数はどうだろう。遊園地、見覚えの無いアパートの室内、スキー場……。男の隣で幸福そうに微笑む自分自身すら、知らない女のように思える。
思い出が消えるって、結構喪失感があるものだなと思った。こんな昔の思い出であたふたするんならもうこれっきりしにとかないとやばいかも、と考えつつあたしは、昼間青木さんに買い与えられた、バッグとストールの包みに目をやった。
そういえば前払いで五人分もらっちゃったんだと気付く。今更、契約破棄なんてできない。どうして一人分だけ、三万円分だけのプレゼントをもらわなかったんだろうと後悔する。でも一人分にしてその都度物を買わせるのが嫌だったのだ。毎回買ってもらっては何だか売春臭いので、カネのあれこれはまとめた方がいいような気がしたのだ。
どうしたものかと思いつつあたしはアルバムを繰り続けた。ページが進む内に、五人分の記憶を売ったとしても、過去の男はまだ何人か残ることに気付いた。だったら五人分売って終わりにすればいい気がした。嫌な思い出ワースト5を売って、過去を整理すればいい気がした。これも断舎離だ。
本当にいいのか? とのもう一つの声に背を向けて、あたしは立ち上がり、アルバムをクローゼットにしまい込んだ。もう取りやめられないのなら、今更自分の決断を否定なんかできやしない、とあたしは強引に自分に言い聞かせた。
ところが翌週の月曜日に克己の記憶を売ってしまうと、先週とは打って変わって、あたしの心は晴れやかになった。
「何だかとっても、気分が軽くなっちゃった」
ベッドの上で、タオルケットを体に巻きつけたままあたしが言うと、青木さんはジンジャーティーを注ぎながら
「そりゃあ今日の思い出は、ちょっとヘビーだったからな」
と答えた。
「そう?」
「うん。でもあれだな。愛花ちゃんは面食いだな。やっぱりいい女には色男がつくんだな」
「何言ってんの」
青木さんのおべんちゃらを受け流しながらあたしは、「面食い」と言うくらいだから、今まで売った男たちは、気に入ったんだろうかと考えた。青木さんはお茶の入ったカップをあたしの側に置きながら
「とりあえず五人分前払いしたけどさ、まだまだ昔の男はいそうだよね」
と誘い水をかけてきた。
「いるには、いるけど……」
あたしが答えると、青木さんは
「あと何人いる? できればもっと欲しいなあ」
と無邪気な口調でねだった。
「そんなに何人も、必要なの?」
あたしが驚くと、青木さんは
「思い出ある程度作ったら、けじめつけるつもりだからさ」
と淡々とした口調で答えた。
「けじめ?」
「カノジョと、カモフラージュ結婚する」
「へえ」
あたしは少し困惑した。どっちつかずの、宙ぶらりんな生き方をしていると思っていた青木さんが、そんなに結婚を急ごうとは思ってもいなかった。
「年が明けたら、向こうの親ん所に挨拶に行こうと思って。まあまだ焦る年齢でもないんだけどオレの母親が体弱くってさ。早く安心させてやりたいって感じかな」
遠い目をした青木さんを何となく哀れに思ったあたしは、つい
「ふうん。じゃあ婚約祝いにあと何人か見繕いましょう」
と答えていた。
「頼むよ。じゃあまた欲しい物考えといて」
「はいよ」
答えながらあたしは、あーあ安請け合いしちゃってと思ったけれど、今のすっきりした気分と、母を思う青木さんの気持ちを考えると、かえってよい約束をしたような気分になっていた。
考えてみれば、大多数は嫌な相手だから別れたのだし、残しておきたい男の記憶なんて一人二人だけだ。そういう不要な思い出を処分して、青木さんと青木さんの母親が喜ぶのなら、あたしももっと精神的にすっきりするのなら構わないんじゃないだろうか。そう思いながら、青木さんの入れたジンジャーティーを飲み干し、カップをキッチンへ運ぼうと立ち上がった時に、誤ってカップを床に落とした。
パリンと音を立ててカップが砕けた時、しょうがの香りが強く立ち上った。カップに中身が満たされていた時よりも、空になったカップが砕けた今の方が、強くしょうがが香ったことをあたしは不思議に思いつつ、そっと破片に手を伸ばした。
翌週の日曜日、あたしは学生時代の友人の北沢歌子に誘われて健康ランドに来ていた。土日休みの会社勤めをしている歌子とは、あたしが水商売を始めてからは、日曜日に行き会うことが多くなっていた。
「愛花は平日の昼間に来れるからいいよね。やっぱ空いてるでしょ」
「でも昼間は大概寝てるから、なかなか来てらんないよ」
二人でとりとめのない会話をしながら浴場に向かうと、入口近くに、エステやマッサージの予約専用の受付があるのが目に入った。歌子が
「結構、種類あるじゃん」
と感心したように眺める横で、あたしは垢すりエステに目を留めた。今宵は歌子と別れた後青木さんのアパートへ行く予定だった。
「あたし、申し込もうかな」
あたしがつぶやくと、歌子もそれに賛同した。結局二人で垢すりを予約してから脱衣場に入ると歌子がロッカーの鍵を開けながら
「美顔も色々、種類あったよね」
と目を輝かせた。歌子は顔は可愛いのだけど、ニキビ肌というのか顔にぽつぽつしたものができ易い。美顔の種類の多さに食指が動いたようだ。
「うん。次は美顔もいいかもね」
「エステって専門の所行ってもいいんだけどさ、高いんじゃないかとか、化粧品とか買わされるんじゃないかとか思うと、つい躊躇しちゃうんだよね」
「結局ちゃんとしたとこに通うのは、ブライダルエステが最初になりそうだよね。結婚すればの話だけど」
女同士の他愛無い会話をしながら、あたしはふと、青木さんのカノジョもブライダルエステを受けるんだろうかと考えた。レズであるカノジョが、ブライダルエステに通うなんて想像し辛い気もしたが、やはり女である以上、ウェディングドレスを身にまとう時はより美しくありたいと願うのではないだろうか。そう思った時、あたしはまだ見ぬ青木さんのカノジョに嫉妬した。唐突に訪れたその感情はあたしを酷く面食らわせた。
やだ、どうしてとあたしは戸惑った。世の中にはブライダルエステを受けて花嫁衣裳を身に着ける女など溢れているというのに、なぜ青木さんのカノジョに対して、こんな不快な気持ちになったのか。心臓がドキドキと波打ち始めた。いけない。この疑問を追及しては。
あたしは自分を戒めたが、答えはあまりにも簡単だったから、あたしはすぐに気付いてしまった。自分は青木さんのために体を磨き晴れの衣装に袖を通す女に、嫉妬しているのだと。
「ねえ掛け湯とシャワーがあるよ。へえ掛け湯は高温と低温があるんだ。どれ使う?」
あたしは関係無いことを歌子に話しかけ、そうすることにより、今気付いた事実を頭から追い払おうとした。けれど歌子に何を話しかけても、歌子がどんな返事をしようとも無駄だった。あたしの胸の中には哀しいまでの甘やかさが苦みと共に広がり、それは言葉になってあたしの内で何度もこだました。
あたし、青木さんを好きになったかも知れない。
苦手な高温サウナから飛び出すと、あたしは水風呂に身を沈めた。五分が経ち十分が経った。もしかしてサウナに入っていた時間より長い時間が経過したかも知れない。けれどあたしは水風呂から上がろうとしなかった。冷水で頭まで冷やせるんなら、とあたしは思った。いつまでだって入っていてやるのに。
不意にぐらりと目が回り辺りの風景が回転し始めた。ベージュのタイルが回っている。隣の緑色の薬湯が下へ下へと落ちていく。ああ気持ちいい。あたしは酒に酔ったような気分で揺らめく情景を楽しんだ。何もかもがどうでもいい気分だった。ゲイに恋をしてしまったことも。このまま会い続けていればきっともっと恋心が募ってしまうだろうことも。
「ねえ、そろそろ予約の時間だよ。つーか風邪ひかない?」
歌子に促されあたしはやっと水風呂から這い上がった。体はすっかり冷え切っている。けれど胸の内には、じんわりと熱いものが残っていることを、あたしはぼんやりと実感していた。
青木さんが玄関のドアを開けた。いつも通りの笑顔を向けてくれる。さっぱりとした顔に浮かぶつかみどころの無い笑顔。その顔を見てまずいなと思う。顔を見るだけでこんなに嬉しいなんて。
日中ふと気付いた青木さんへの想いは、もしかしたら、思い過ごしかも知れないという期待は今脆くも崩れ去った。考えてみればそもそも青木さんと寝てもいいと思ったのは、青木さんのことを憎からず感じていたからだ。悪くないと思っていた相手と、二度もベッドに行き、更にもっと体を重ねる約束をしたのだから、その相手に対する好意がふくらんでいくのは自然なことだったのだと、あたしは今更のようにうろたえた。
けれど仕方の無いことだと、あたしは自分を戒めた。好きになる訳にはいかない相手だということは初めから分かっていたことだ。あと三人分思い出を売るまで、自分の気持ちを何とかなだめるしかない。
「なあ、欲しい物考えた?」
青木さんが、麻婆豆腐を器に盛り付けながら口を開いた。
「え?」
聞き返しながらあたしは、思い出の追加を頼まれていたことを思い出しハッとした。焦ったあたしの喉元から、先ほど浮かんだ「三人」という単語がつるりと飛び出した。
「三人。ええっと、あと……プラス三人分で」
「分かった。次の日曜は? 昼間空いてる?」
「……うん」
「じゃあそん時買い物行くか。駅周辺でいいんだろ」
「……うん」
本当はプレゼントなんかいらないんだとあたしは思った。青木さんの言う通り、今までの男の人たちには、デート費用の大半は出してもらっていたし、クリスマスにはプレゼントをもらった。食費を削ってプレゼント代を捻出してくれた人もいた。でも物々交換なんて思ったことは無かった。
ああ当たり前だとあたしはようやくシンプルな事実に気付いた。今までの人たちは、愛情や好意を示す手段としてあたしにお金を出してくれていた。そりゃあ中には、いい加減な気持ちのくせに、本気の振りをしていた人もいたけど、基本的には愛情表現の一つとして身銭を切ってくれていた。
それに前何かで読んだことがある。男は女の歓心を買うためにお金を使って、女は男のために鏡に向かうんだって。それが一般的な役割分担だって。それなのにあたしは、今までの男の人たちとの関係も、援交まがいのものだったなんて思い込んで、青木さんとまさしく援交まがいの関係を築き上げて、そしてあろうことか、青木さんに対して、恋情を抱き始めてしまったなんて……。
青木さんは何気ない様子でチャーハンをテーブルに運んでいる。その何気ない動作が、あたしの瞳にはやけに愛しく映る。こんなのっぴきならない状況に、自分を追いやった張本人を少しも憎むことができない事実に、あたしは愕然とした。
それが恋というものだとあたしは経験から思った。けれどその経験も、その内青木さんに買われてしまうのだろう。あたしは思い出を奪われそれに伴う知恵と知識を奪われ、無知で愚かな二十五歳の女はぽんと放り出されてしまうのだ。どうしたらいいだろう。あたしは唇を噛み締めた。
あたしの苦悩も知らず青木さんは
「じゃあ、食べようか」
と青島ビールの栓を抜いた。テーブルには麻婆豆腐とチャーハンの他に、卵とワカメのスープと中華風サラダが並んでいる。
「杏仁豆腐、食後に出すから」
と言いながら、青木さんはあたしのグラスに青島ビールを注いだ。あたしは返杯しながら
「毎回こんな風に料理用意するの、大変じゃない?」
と尋ねた。
青木さんの料理は毎度のことながら、そう手の込んだ物は出てこない。今宵の麻婆豆腐にしても、青木さんが自分でラー油等の調味料を配合したのではなく、市販の麻婆豆腐の素を使ったのだということは、足元のゴミ箱を見れば分かることだ。とはいえこれだけの品数を用意するのは、買い物から始まってそれなりの手間を要する。あたしはそこに青木さんの自分への好意を嗅ぎ取りたいと願い、そしてそんな自分を愚かしいと感じた。
あたしのそんな思いには、気付きもしない青木さんは、単に労いの言葉をかけられたのだと思ったらしく
「んー、でも愛花ちゃんもそうだと思うけど、一人暮らししてると食事って手抜きになるじゃん? 一人だとメシ炊くのも億劫になったりしてさ。一緒に食べる相手がいると作る気になるからありがたいよ」
と答えた。
「カノジョにも、よく作ってあげるの?」
何気ない風を装って、あたしはカノジョのことを尋ねた。
「作ることもあるけど。オレらってたまにしか会わないんだよね」
「どうして」
聞けば聞くほど嫉妬心は募るのだから、聞かない方がいいと知りつつ、あたしは質問を重ねた。
「お互い恋愛感情無いし、それにカノジョ、サービス業で休みが不規則なんだよね。まあ愛花ちゃんもサービス業だけど、休みは決まってるからこうして会い易いよな」
恋愛感情が無い人とどうして結婚するのという言葉を、あたしは飲み込んだ。答えは知っている。カモフラージュのため。母親を安心させるため。でもどうしてとあたしは思う。だったらどうしてあたしじゃ駄目なのと思う。どうして相手も、同性愛者じゃなきゃ駄目なのと。
「カノジョと結婚するのは、カノジョがレズビアンだから?」
ビールを一口飲んであたしは尋ねた。青島ビール。嫌いじゃないけれどつかみどころの無い味。まるで誰かさんのように。
「そうだな。お互い分かり合えるし」
「でも前は、普通の子と付き合ってたんでしょ」
一縷の望みをかけてあたしは尋ねた。だったら普通の性癖のあたしとも、付き合うことを少しは考えてくれないものだろうか。けれど青木さんはきっぱりと
「うん。後悔したよ」
と言い切った。
「最初は普通の女の子と付き合うことで、普通の男になろうとしたけど、結局なれなくてその子を随分傷つけちゃったからね」
とらえどころの無い顔に雨雲が広がる。青木さんは決して、あたしの前で泣いたりしないと分かっているけれど、その雨雲は今にも雨を降らせそうだ。青木さんの顔に雨を降らせそうだ。
あたしは諦めようと思った。前のカノジョがどれだけ傷ついたか、分かるような気がした。だからこそカノジョは自分から別れを切り出したのだろう。傷ついても構わないなどと思えるほど、あたしは向こう見ずではなかった。
自宅へ帰り着くと、あたしはバッグを床に放り出した。青木さんに買ってもらった値の張るバッグ。それが高価だということに今あたしは意味を感じられない。化粧も落とさずにベッドに寝転がる。物憂い。何もする気にならない。体の内側から熱がこみ上げているような気がする。
水風呂に長く浸かったせいで、風邪をひきかけているのかも知れないと思った。顔は熱く火照っているのに寒気を感じる。ほんの一時間前に、寝所で触れた青木さんの体温を思い出し、今ここで寄り添って暖めてくれる体温が欲しいと思った。本当に寒さを感じた時、人は人肌を恋うるものなのだと思う。男の体温は女より高いから、男の体温が欲しいと思う。青木さんの体温が欲しいと思う。
「この風邪は、悪性だわ」
とあたしはつぶやいた。長引かせずに治さなくてはならない。たかが風邪と侮ってはならない。こじらせて肺炎を起こし命を落とす人もいるのだから。風邪はいつも心の隙間を突いてやって来る。まさかこんなことで風邪をひくとは思いもしない時に、ウイルスはすっと入り込む。自分では無理をしたつもりはなくても無茶の証が風邪となって表れる。
確かにやっぱりあたしは無茶をした。けれど一体どうやって治したらいいんだろうと、あたしは頭を抱えた。風邪には特効薬が無いのだ。差し当たって打つ手は考えられなかった。お医者様でも草津の湯でもこの病は治らないと言われているように。
あたしは起き上がって薬箱を探ると、無駄と知りつつ風邪薬を取り出した。それを飲み下しながらあたしは、こんなことをしてもちっとも自分をだませやしないことを、薄ぼんやりと考えていた。
風邪薬が効いた訳ではないだろうが、結局、体温計で認められるような高熱も出なかったあたしは、内なる熱に心を突かれ、青木さんとの約束の日を指折り数えて待ち望んでいた。店に出勤するための服をクローゼットから選び出す時も、どんなに顔映りのいい服を選んだところで、青木さんに見てもらえる訳ではないのだとふと失望した。そして薄暗い店の中で青木さんと似た背格好の客を目にする度、ハッと胸を突かれたりしていた。
そんな自分の心に恐れを感じた。だからこそ心は、青木さんとの逢瀬に向かってまっすぐに飛んでいた。青木さんの不在ゆえにこれほどまでに満たされない心は、待ち焦がれた分さぞや喜びに包まれるだろうと思われた。
しかし日曜日の夕食後、青木さんとの情事が終わっても、あたしは満たされない自分を感じた。端的にいえばセックスが物足りなかった。最初の夜にシンプルでちょうどいいと思われたその行為は、今のあたしには満足に遠いものとして感じられた。
当然か、とあたしは思った。情事の最中に昔の男の思い出を語っていては、とても行為に集中できない。もっともあたしの語りはどうしても途切れ途切れになってしまい、行為の最後まで続くということはなかったし、青木さんも無理に語らせようとはしなかった。でもあたしは、自分の中に芽生えた青木さんに対する恋心らしきものは、もしかしたら単なる性欲を、誤解していただけなのかも知れないと考えた。
その考えにあたしは少し抵抗を覚えた。だってまるで自分を、性欲旺盛な女だと自認するみたいだから。でも自分の満たされない心の原因は、ありきたりな情欲によるものと考えた方が気が楽だった。かなわぬ恋のせいだと思うより気が楽だった。前者なら手立てはいくらでもあるのだ。かといって自分に劣情を抱かない青木さんに対して、今一度しなだれかかるような真似はできない。
あたしはしぶしぶと身支度を始めた。無理して女と寝るような男が、一晩に二度もできるとは思えなかったから。
コンパクトを眺めると、眉間にシワが寄っているのが見て取れた。さっきまでベッドの上で顔をしかめていたせいだろう。
あたしに発情しない男に発情して、しかも満たされないで終わるなんて。あたしは鏡の中の自分を醜いと思い、パチンと音を立ててコンパクトを閉じた。
青木さんはあたしに背を向けて、キッチンでジンジャーティーを入れている。浮き出た肩甲骨が影を作って、青木さんの裸の背中をやけに立体的に見せる。その背中を見ていたら、この人は何に対してエレクトしたんだろうと虚しい気持ちになった。あたしの過去に? それとも好みの男でも思い浮かべて? もしくは単なる皮膚と粘膜の感触で?
ぐわん、と悲しみがあたしを襲った。あたしに欲情する男と寝なくっちゃ嘘だわと思った。
翌日、買い置きの飲み物や食料を入れた袋を持って、スーパーを出ようとしていたあたしは、出口付近のタバコの自動販売機の前で立ち止まった。財布から小銭を取り出して投入しボタンを押す。ゴトンという音と共にマイルドセブンの箱が転がり落ちた。
青木さんにとってのあたしは、この自販機のようなものなのだと考えた。カネを出してあたしを抱けば思い出が出てくる。それを取り上げて青木さんは行ってしまう。自販機が買い手に想いを寄せるなんて何て馬鹿らしいんだろう。そんなことを考えながら、かがんでタバコを拾い上げる。
過去の記憶では、恋に落ちた初めの頃はいつもうきうきした気持ちでいたものなのに、今回は気持ちが沈んでばかり。それとも失くした思い出の中には、恋愛初期にも関わらず暗い気分になっていたものもあったんだろうか。そんな過去の記憶があれば、きっと今のあたしに対し、何らかの指南を与えてくれただろうに。
いや、この感情は恋ではなくやっぱり単なる肉欲じゃないだろうか。あたしは今、欲求不満でイライラしているだけなんじゃないだろうか。
「おっ、池上?」
不意に声をかけられ顔を上げると、そこには、あたしが二十歳の頃から二年勤めた会社の先輩社員が立っていた。
「あ、小島さん」
こんな所で小島さんに会うとは意外だった。この店は、会社からも小島さんの自宅からも離れている。ましてや小島さんが会社から帰宅するには逆方向のはずだった。平日の夜に、こんな場所で小島さんは何をしていたんだろうか、とあたしは懐かしさよりも不思議さを感じた。
「友達が中央病院に入院してさ、今見舞いに行った帰りなんだよ」
小島さんは病院の方角を指しながら快活に説明した。なるほどと思いながらあたしは、あらーという顔をした。「入院」などと聞かされると反応に困ってしまう。
「で、ちょっと腹減ったから夕飯前だしパンでも買うかと思ったんだけど、やー偶然じゃん。池上に会うなんて」
嬉しそうにしているということは、友達の入院はたいしたことはないらしい。あたしは三年ぶりの再会になる小島さんを見詰めた。目にかかりそうなほど長い前髪。笑うと子供のようにあどけない顔。たくましい体つき。以前とほとんど変わっていないように思える。
「あたしんち、近所だから」
答えながらあたしも、久し振りに会った昔の会社の男に懐かしさを覚えた。この小島さんに淡い憧れを抱いていた時期もあった。会社の給湯室で戯れにキスをしたこともある。
「ああ、まだこの辺に住んでるんだ」
小池さんはあたしの荷物に目を落とすと
「池上、今日暇なの?」
と尋ねてきた。
「何で?」
「暇ならメシ食おうぜ。オレ腹減っちゃってさ」
それもいいかなと思った。この滅入った気分のまま一人アパートで夜を過ごすよりは、昔の知り合いと食事でもした方が気が紛れるというものだろう。勤めていた頃は結局、会社の外で会うこともなかった小島さんと出かけるのは、新鮮な気分でもあった。
「いいよ。じゃあ一旦戻って荷物置いて来る。ついでに車も置いて来るから」
その時あたしは、一度キスまでした小島さんに対する憧れが、消えてしまった理由を思い出した。ある日、勤務後に何人かで雑談をしていた時、小島さんは
「オレ女と出かけたら、絶対ホテルに誘う」
と言ったのだ。それだけではない。
「そんで断るような女とは二度と会わない。でも一度ヤッた女とも、オレは二度と会わない。例外なのは今のカノジョだけだね」
と悪びれもせずに言い放ったのだ。
じゃあ今宵あたしも誘われるのかと、駐車場に向かいながらあたしは考えた。それで寝ようが寝まいが小島さんは二度とあたしと会わないのか。あたしは車のキーを開け、荷物を乗せた。けれどそんなことは別段構うことではなかった。昔ちょっと気になっていただけの人だ。現にこの三年間思い出しもしなかった。それに誘われて断るのは商売柄慣れている。
淡々とした気持ちであたしはエンジンをかけた。青木さんに対する想いも、こんな風に冷静なものにできたらどんなにいいだろうとの思いが、ふと脳裏をかすめた。
レストランで食事をした後、小島さんに
「この後、どうする?」
と聞かれた。あたしは
「カラオケ行きたい」
と即答した。
勤め先でもよく歌っているのだが、あたしはカラオケが好きだ。くだらない会話を飽きもせず繰り返す客と接するストレスも、マイクを握れば、ある程度は吹き飛んでいくような気がする。今宵も青木さんとのことでくさくさした気持ちを、多少であれ歌声と共に発散させるつもりだった。
しかし
「じゃあ、オレのお勧めのカラオケ屋に行こう」
とハンドルを握る小島さんが選んだ場所は、あろうことか郊外のラブホテルだった。目の前になまめかしいネオンの光が広がった時、あたしはぎょっとし腹を立てた。誘われるかも知れないとは思っていたが、だましてホテルに連れ込むのはあんまりではないか。
「ここって、ラブホじゃん」
あたしが不機嫌な声を出すと、小島さんは
「中に、カラオケあるよ」
と平然とした顔で言った。
「あたしが行きたいのは、カラオケボックスなの」
あたしが声に怒りをにじませると、小島さんは
「オレ、ボックスに二人で入るのって嫌いなんだよね。何か虚しいっつーか。ここは元々リゾートホテルとして作った所だから、中、綺麗だぜ」
と得意げに言い放った。
あたしはその鼻っ柱をへし折ってやろうと思い
「知ってるよ。来たことあるもん」
とわざわざ小島さんをがっかりさせるようなことを言ったのだけど、小島さんは
「へえ、やっぱここって評判いいんだ」
と嬉しそうな声を出した。あたしはすっかり呆れ果てた。何でもいい方へ解釈する人っているもんだわと、あたしは変に感心してしまった。
そういえば以前男にベッドに誘われた時に、「今日は、時間が無いから」と断ったら、「大丈夫。オレ早いから」と胸をたたかれたことがある。その時はつい脱力してしまい、ベッドへ行ったところ、本当にカップラーメンも作れないほどの早業で、おかげで約束の時刻に間に合った。つくづく馬鹿で前向きな男というのはこちらの気力を奪うものだ。
あたしは少し面倒臭くなってきたが、小島さんの方は元気いっぱいに
「カラオケに来たんだからさ、変なことしないって」
と誘いをかける男の常套句を口にした。よく言うわよ。いざとなったら「これは別に変なことじゃない」とか言って、しようとするくせに。
その時あたしは思い出した。青木さんにもラーメン屋に行くと誤解させられて、アパートへ連れ込まれたことを。そしてそれをきっかけにしてあたしの心は変化を始めたのだ。
だとしたら、とあたしは思った。だとしたら、またその男の強引な手に乗ったら?
おそらくまた更なる変化が生まれ、このにっちもさっちもいかない状況は、少しは動き出すかも知れない。一度寝た女とはもう会わないと言う小島さんのことだから、これから小島さんと関わりが生まれたりはしないだろうけど、あたしの心境は、変化を起こすかも知れない。自分に発情する男と寝て満たされれば、青木さんへの想いが単なる性欲だったとはっきりして、青木さんへの執着から解放されるかも知れない。
仮にそうならなくても、これで青木さんに売れる思い出が一つ増える。今日できたばかりの、憧れがすっかり冷めた男との思い出なんか、失ったところで痛くも痒くもない。第一こんなところでぐずぐずしていて、誰かに目撃されたら不本意だ。カレシでもない男とラブホの駐車場で問答しているところを、目撃されたら不本意だ。
あたしは半ばやけっぱちになった。それでも一応
「本当に、変なことしない?」
と確認した。
「しない、しない」
と小島さんは力説した。表情は真剣なのに瞳がおどけている。怪しいとは思ったけれど「しない」と言うのなら信じてみるのもいい気がした。草食系男子というのか、ホテルに来て何もしなかった男の話を歌子から聞かされたことがある。何もなければ、それはそれで気楽だ。
部屋に入るなりあたしは選曲を始めた。ホテルに入ることを決めた第一の理由は、カラオケなのだから当然だ。音楽が流れ始めあたしはマイクを片手に歌った。けれどエコーのかかりが悪く、歌う度に気分が萎えていった。考えてみればホテルはカラオケボックスほどの防音設備を備えていないのだから、音量やエコーが甘いのは当然だ。
すっかりやる気の無くなったあたしは、マイクを放り出してソファーに寝そべった。すると小島さんが、待っていましたとばかりにあたしにかがみ込んで唇を合わせた。やっぱりこうなるのかと思いつつ、でも前にキスした時はもっとときめいたはずだったけど、とあたしが記憶を手繰っていると、小島さんは唇をゆっくりと、あたしの耳朶や首筋に移動し始めた。
「待って。シャワー浴びたい」
とあたしは遮った。駐車場では怒鳴り出さんばかりの勢いだったあたしの変貌振りに、小島さんは顔をほころばせながら、いそいそとバスタブに湯を溜め始めた。
こういったことをしても、女に使われているという悲壮感が漂わず、ただひたすら明るいところが小島さんの美点だ。あたしは小島さんが湯を溜めたバスタブに身を横たえた。
ジャグジーの水流に打たれながら、あたしは必死に、昔小島さんに抱いていた僅かな憧れを思い出そうと努力した。これまで寝たいと感じない男と寝たことは一度も無かった。相手によって好意の大小はあったものの、その時点で少なからず、情欲を抱いた男とあたしはベッドを共にしてきた。けれど今は昔の僅かばかりの想いに頼らなければ、あたしはさっき脱いだ衣服を、また身に着けてしまいそうだった。
あたしは思い出を恋い慕った。青木さんへの想いがこんなに育ってしまったのは、彼が寝る度にあたしの記憶を奪い取るからなのだ。風邪はひく度に免疫ができるというのに、青木さんは今までの男たちと全く型違いで、免疫外であるだけでなく、あたしの今までの免疫をも次々に奪い取ろうとしているのだ。
この現状を打破するには、新たなウイルスを取り入れるしかないとあたしは思った。それ以外の方法は思いつかなかった。能天気なウイルスが、青木型ウイルスを破壊してくれるかも知れない。たとえそれが荒療治と呼ばれるものだったとしても。
けれどそんなあたしの努力も、小島さんの
「オレさあ、ずっと池上のこと好きだったんだよ」
とのささやきで、脆くも崩れ去った。好きでもないのに女に「好きだ」などと言い出す男を、あたしは嫌いだった。遊びなら「遊びだ」とはっきり言えばいいと思う。
小島さんはさっきレストランで、「カノジョとの仲は、安泰だ」と話していたはずだ。後を引かない浮気をするだけならまだしも、浮気相手に、言ってはならないことを口にする男など最低だと思う。
こんなことを言われて寝てしまったら、あたしはその言葉を信じて、小島さんに身を任せたことになってしまう。そんな馬鹿な女を演じるのは真っ平だった。それにも関わらず小島さんがこんな陳腐な言葉を舌に乗せるのは、あたしがその言葉を求めていると、誤解しているからだろう。この人あたしのことおちょくってんのかしらと思った。
そこであたしが
「あのさあ別にそんなこと言わなくていいよ。単にあたしとしたいだけでしょ」
と白けきった様子で言うと、小島さんは
「お前って、淡白な女だな」
と言いながらあたしの上にのしかかってきた。
そんな発言くらいで、あたしを淡白だと表するだけあって、小島さんは随分と激しいセックスを仕掛けてきた。大きな波の合間合間にあたしを支えたものは、自分に劣情を抱く男と寝たいという思いと、青木さんに売る思い出を仕入れようという算段と、僅かな好奇心だけだった。
昔ちょっと気になっただけの男と寝たら、あたしの心は、どういった感慨を持つんだろう。その感慨は青木さんに傾きつつあるあたしの心に、何らかの働きかけをしてくれるんだろうか。
小島さんの体は熱く、あたしの体を時間をかけて攻めてきた。けれどそれはあたしにとっては単なる物理的な触れ合いだった。ジェットコースターのようなうねりが、絶え間なくあたしを襲うから、あたしは何度も声をあげ体をよじったけれど、あたしの頭の芯は驚くほど醒めていた。
もしあたしが、小島さんを好きだったら、セックスによってだまされたのかも知れないと思った。こんな風にあたしの体を激しく求める男は、あたしの中身をも激しく求めてくれるはずだと錯覚してしまったかも知れない。あたしを好きだから、あたしの皮膚と粘膜をこんなに心地よくしてくれるのだと、この人のあたしへの思いは、こんな風に心地よいものなんだと、陶酔の中で誤解してしまったかも知れない。
けれど冷静に快楽を享受すれば、そんなものはまるで関係が無いのだということが、分かってしまう。
「可愛い声だなあ。その声聞いてるだけでイッちゃいそうになるよ」
を連発する小島さんは、いつまで経ってもイキやしない。結局声だけじゃイキやしない。ここには嘘が溢れている。意識的に作り出された嘘と、無意識に生まれた嘘がせめぎ合ってあたしたちをだまそうとしている。
こういったことが分かっただけでも、あたしは小島さんと寝てよかったんだろうか。でもそんなこと知らずにいれば、あたしはもう少し純粋で幸福な女でいられたのに。だって今あたし過去の男たちを疑い始めている。愛を注いでくれていたと信じていた何人かも、実はセックスという付加価値で、あたしが過剰評価していただけだったんじゃないかと、思い始めている。
今、小島さんの腕の中で気付いたこと。それは普通に好きな男とだけ寝ていたら、おそらく気付かなかったことだ。
知識を得たといえば得たし、何かを手に入れるためには、何かを手放さなければならないというけれど、純粋性を放棄し、過去の愛すべき思い出にケチつけてまで手に入れるほどのことかしら。
その時あたしはふと以前、歌子がぼそっと漏らした言葉を思い出した。
「よく『減るもんじゃない』とかいうけど嘘だよ。むやみにエッチすると減るよ。自分の中の綺麗な部分が減ってく」
それを聞いた時あたしは何となく理解しただけだったのだけど、今この瞬間に、はっきりと理解した。思い出を増やすことにより減っていくものもあるのだということを。
翌日は最悪の目覚めだった。覚醒と共に自分への嫌悪感に襲われるのは、あたしにとって初めての経験だった。ふさいだ気分を何とかしたいとは思うものの、好きでもない男とホテルに行くような無節操で汚れきった自分は、とことん落ち込み、自分を呪わなければならないと考えあたしは罰を欲した。誰かあたしを罰して欲しい。自分ではどうやったって自分を罰せないもの。
あたしは試みに自分を打ちたたいてみた。パチンと情けない音が部屋に響く。そのあまりの痛みの小ささにあたしは狼狽した。こんなに自分を責めて自分に手を上げてみても、こんな程度の力しか出ないもの? これじゃいくら何でも弱過ぎる。もっと強く殴らなきゃ。もっと強く。もっと強く。
何度か自分を打ちたたいたが、顔には痣一つできるでもない。やっぱり他者から罰せられなきゃ駄目なんだ。今のあたしを罰してくれるのは……。あたしは惑いつつ青木さんの顔を思い浮かべた。爽やかでつかみどころの無い顔を思い浮かべた。
そうだ。青木さんにとことん溺れようとあたしは思った。この想いが肉欲だろうと恋情だろうと構わない。とことん青木さんに夢中になってそして永遠の決別を迎える。あたしはきっと引き裂かれた心を抱えて泣き叫ぶだろう。彼に溺れ彼に泣いて、その痛みをもってあたしは自分への罰とするんだ。
じんじんと熱を帯びた頬に手を宛がいつつ、あたしはドレッサーを見据え、思い切り憎悪を込めて鏡の中の自分をにらみつけた。男によって受ける罰など、所詮甘美なものだということに気付かない振りをして、あたしは心を込めて自分自身を憎もうとした。
シャワーを浴びたあたしは、裸にバスタオルを巻きつけたまま、洗面所の鏡に向かっていた。これからベッドインするのだし殊更に化粧を直すつもりは無い。ただ湯気で化粧が緩んだのではないかと気になったのだ。
アパートを出る前に施した化粧は、湿気にも負けず顔に張り付いていた。あたしは満足して鏡に向かって笑いかけた。鏡がきらっと反射して応える。何やら鏡に併設された棚からも応えがあったようだ。そちらに目をやるともう一つの鏡がひそんでいた。取り出しカチッと音を立てて開けてみる。コンパクトだ。
青木さんのカノジョの忘れ物だということは、すぐ察しがついた。コンパクトを忘れるなんてうっかりした女だと思う。マスカラやグロス等だったら、普通は幾つも所持しているものだから、カレシの家に忘れても問題無いかも知れないが、コンパクトという物は普通は一つしか所持しないので問題だ。
あたしはしげしげとコンパクトを観察した。使いかけのファンデーションが入っている。オークル10だ。色の白い女なのだな。そう思った時胸が苦しくなった。
きっと青木さんのカノジョは、真珠色の肌で全身を覆われている。それなのに青木さんはその事実を知らないのだ。青木さんはカノジョを抱いたことが無いから。
落ち着かない気分であたしはコンパクトを戻すと、青木さんの待つ寝室に向かった。ベッドに横たわっていた青木さんは、あたしの姿を認めると、起き上がってあたしの体からバスタオルを剥がした。
羞恥があたしを襲った。カノジョでさえまだ肌をさらしていないのに、あたしはこの人に全てをさらけ出しているのだと思う。男の思い出までさらけ出しているのだと思う。
いいえ。あたしは思った。いいえ。いいえ。全てをさらしたりなんかしない。あたしにだって恥を覚える心がある。小島さんのことをあたしは打ち明けたりしないわ。
元々は、青木さんに売る思い出を増やそうと、小島さんと渋々ベッドインしたというのに、あたしは結局別の男の思い出を語った。だって小島さんのことを売ったら自転車操業みたいだからだ。それでも忌まわしい小島さんの記憶を手放したら、楽にはなるだろうと思った。でもそれでは罰を望む気持ちと矛盾する。
けれど寝たくもない男と寝た事実を青木さんに話すことを、あたしは恐れていた。青木さんに軽蔑されることを恐れていた。それこそ矛盾だというのに。
青木さんと出会ってからの男の話をすることに、抵抗を覚えた。そんなことをしてしまったら好きだと言えなくなる気がしたから。そしてその思いにあたしはハッとする。あたしは青木さんに想いを打ち明けるつもりなんだろうかと自問する。何てとんでもないことを思いついたんだろう。自販機が客に心を打ち明けるなんて。あたしは立場をわきまえなくちゃいけない。
でも心を持った自販機はどうすればいいんだろう。満たされない心を、どうすればいいんだろう。
あたしは、つい先ほど事を終え横たわっている青木さんににじり寄り、腕を絡ませつつささやいた。
「ねえ、もう一回できる?」
「え?」
「あたし生理前ってすごくしたくなっちゃうの。駄目? もう一人思い出話すけど」
その時あたしはふとある会話を思い出した。男友達と交わした会話を思い出した。
「女って生理前になると、やっぱヤりたくなるもん?」
昔のカレシの友人である五十嵐くんとは、カレシと破局した後も、友人関係が続いていてたまに飲みに行く仲だ。その飲み屋で、ビール一杯で舌が滑らかになったらしい五十嵐くんがセクハラ質問をしてきたのだ。
あたしは余程下品でなければ、下ネタは嫌いじゃない。だから
「それってさあ常々、自然の摂理に反するなあって思ってたんだよね。だって生理前って妊娠しにくいんだよ。そんな時にヤりたくなったら性欲の無駄遣いじゃん?」
と応じた。
「そうだよな。種の保存に反するよな」
「でしょ。それでこの前カレにそう言ったらさ、カレが『それは神様が月に一度男にご褒美を与えてくれてるんだ』って。何か納得じゃない?」
「成る程なあ。洒落たこと言うよなあ」
そのカレが一体誰だったのか、あたしには分からなかった。おそらく青木さんに売ってしまった男なのだと思う。どうして売ってしまったりしたんだろう。そんな味なセリフを残した男の記憶を、あたしはどうして売ってしまったんだろう。
その時青木さんが、「いいよ」と言いながらあたしを抱きすくめた。あたしはこれでいいんだと思った。これでいい。セックスにとことん夢中になればいい。情欲で心をごまかせばいい。そしてその代償として青木さんはあたしを淫乱な女だと思えばいい。惚れているなどと悟られるくらいなら、淫乱だと思われた方がマシだ。
けれど再び青木さんが果てても、あたしの心は満たされなかった。もっとずっと抱いてて欲しいと思った。もっと話がしたい。あたしのことを知って欲しい。決して言えない想いがあるからこそそれ以外を全部さらしたい。
あたしはもう一度青木さんに体を委ねた。そして意を決して小島さんの話を始めた。軽蔑されたっていいと思った。青木さんに売るべき思い出は先週もらったプレゼントを合わせて買掛けが八人分。今小島さんの思い出を売れば七人分売ったことになる。そうすればあと一回会えばさよならだ。
そう、あと一回でさよなら。この男のくせにいやに片付いた部屋とも温かい料理とも、青木さんの悲しそうな顔とも優しい笑顔とも、全てとさよならなんだ。
だから一晩に三回も女を抱くなんて、不本意かも知れないけど許してね。こんなことは最初で最後なんだから。どうせ叶わない思いなら、せめて今一瞬だけでも満たされた想いをあたしに頂戴。あたしはまぶたを固く閉じてみだらな行為に全てを忘れようとした。
童話以外では、私の唯一のファンタジーです。
初期の頃は、こういったものを書いていたんだなあとしみじみしました。それ以降はリアリティーを追及したものを書いているので、今となっては貴重ですね。
読み返してみると、幼稚だし拙い点が目について……。何とか直しましたけど、原型が幼稚だと直すにも限度がありますね。でも勢いがあって嫌いではないです。この感じ。