贈らない言葉
最後に会ったのは半年くらい前、急に電話があった日の夜だった。
「夜ヒマ?ご飯食べに行きたい。」
「いいけど、どこ行く?」
「うーん…任せるよ。おいしければ何でもいい。」
車で迎えに行くから、と俺は待ち合わせの時間と場所を指定して電話を切った。
彼女はいつもそんなふうに、前触れもなく突然現れる。大抵は何か困ってるか悩みがあるとき。電話口で泣かれたり、八つ当たりされるくらいはもう慣れている。
あの時は知り合いが営む近所の洋食屋に行った。奥さんに「彼女ぉ?」なんて冷やかされたが丁重に否定した。俺が飲み物とディナーコースを二人分注文して奥さんが下がると、彼女は小声で店の雰囲気が気に入ったと言っていた。
彼女には別にちゃんと彼氏がいる。だから俺からはメールするなだの電話かけるなだのと言われている。相手はよほど嫉妬深い人らしい。そのわりに彼女からは俺の都合を無視したタイミングで連絡が来る。おそらく彼女の気分次第なんだろう。しかし平日の真夜中2時すぎに電話されたときはさすがに俺も困った。それでも怒れずに、ごめんな、と言って断るだけだったが。
空腹が落ち着くまで食べた頃に、彼女の話に影が差した。ようやく本題を口にしてくれたようだ。悩み事は仕事についてのようだった。人をあからさまに悪く言わないのは彼女の賢いところだと思う。上司や先輩、会社の愚痴を、彼女なりには吐き出すけど他人にはそれと伝わりきらないように少しだけオブラートに包んで話す。俺はだいたいの内容を理解して返答する。彼女がこういうとき求めるのは話を聞いてくる人がいることだと俺は思ってる。それに俺としては、あんまりシリアスな人間に見られたくないから話の内容にも深く触れない。そうやって彼女との関係を築いてきた。
一通り食べて話すと、彼女の表情が多少の明るさを増した気がした。お会計をして店長に挨拶してから店を出る。店長は彼女の存在をどう思ったのだろう。何も聞かれることはなかった。
車の助手席に乗り込むと、
「じゃ、帰りもよろしく~」
と彼女。調子のいい奴だが憎めない。元気が出たのか満腹になったからか、俺達は行きよりよく喋った。元気なときの彼女はよく笑う。運転席からはあまり見えないが、いつもそうやって笑っててくれればいいのにと思う。笑ってればそれだけで可愛いんだから。
待ち合わせした場所に戻って車を停め、助手席を見ると、デザートが欲しいと口を尖らせる彼女。長い付き合いで俺が甘いもの嫌いなことは知っているから、これがフェイクなことくらい分かってる。また今度と言って彼女の頭を撫でると、子供みたいな笑顔が返ってきた。それからドアを開け、颯爽と去っていった。
「美味しかった、ありがとね。」
彼女は振り返らない。次に会う約束もしない。でも後ろ姿を見ながらいつも思う。彼女が笑っていてくれるならこのくらい、いつでも言ってくれればいい。そしてもしこれが俺だけの特権であれば、それ以上のことはない。そんな夢物語も考えるだけなら許されるだろう。
小さくなる後ろ姿が見えなくなる前に、俺はゆっくりとアクセルを踏んだ。