チホク
「本格的に降ってきたな」
チホクが言った。
けれど奴は一向にその場を動くつもりはないようで。
短い黒髪が額に張り付き、細いあごには雨粒が伝う。
まったく、相も変わらずイイ男だよ。水も滴るなんとやら……って、そのまんまか。
それでそのシケたツラさえしていなければ完璧なんだけどな。
「おい、風邪ひくぜ?」
俺がせっかく心配してやってるのに、チホクは口の端だけでニヒルに笑ったりしやがる。
「もうしばらく、このままでいさせてくれ」
「さいですか」
あーあ、確かに今回のことは堪えたけどさ。
お前がこんなに後ろ向きなヤツだったなんて思いもしなかったよ。
チホクは高校時代からの親友だ。
俺とは正反対の無口でスカした野郎。なのに女子にはやたらとモテて、始めは正直気に食わなかった。
だけどそんな奴と俺の間には、ある因縁があったのであります。
昼休み、購買のパン販売。
その中に、ソースカツと目玉焼きが一緒に挟んであるコッペパンがあった。
一日十個限定の通称『レアパン』。
百二十円という安心価格に対し、そのボリューム感とたっぷり染み込んだ秘伝のソース、滴るカツのジュースはまさに絶品。
それを食す者は一口で虜となり、おかげで売店では毎日熾烈な争奪戦が繰り広げられていたものだ。
そう、俺もあの憎いチホクの奴も、彼女の魅力に取り憑かれた孤高の戦士、レアパンハンターだったのだ!
猛者たちが集うその戦場で、最後の獲物を同時に握った俺と奴。
言葉なんて無かった。
初めてまともに合わせた視線には、火花が散った。
それから、色々だ。
ホントに色々あって。気が付いたら連んでて。
こいつのおかげで大学受かったようなもんだから、俺は得意なボウリングを教えてやったんだ。
コレだけは下手くそだったんだぜ、チホクの野郎。
こうしていつの間にやら、十年来の付き合いになってました、と。
「まだ、信じられない」
おいおい、人がせっかく感動的な思い出に浸ってるのに、こいつはこんな時まで現実派なのか。
「ああ、俺も信じらんねえよ」
信じたくねー、ってのが本音だ。
チホクは不機嫌な俺の様子には目もくれないで、相変わらず途方に暮れきった顔をしたまま。
「俺はこれからどうしたらいい?」
「さぁね。とりあえず、さっさと帰って風呂にでも入れよ。寒いだろ」
本当にひどい雨だ。ますます強くなってくる。ただでさえもう夕方なんだから。
「寒いな。……寒い。お前は平気か?」
ほら見ろ。俺は濡れてないから全然平気だ。
大きく頷くと、チホクは自嘲するように短く息を洩らした。一瞬、顎の辺りが白く曇る。
「そろそろ帰る。また来るからな」
ああもう、いいから早く帰れ。お前のそんなツラ、わざわざ見たくないんだよ。
次に来るなら晴れの日に来い。お前の顔が晴れの日に。
気が付いたら連んでた。
こいつのおかげで大学受かったようなもんだから、俺は得意なボウリングを教えてやったんだ。
夏には海へ行った。仲間も沢山できてバーベキューもした。冬にはクリスマス鍋パーティーだ。
俺が仕事でドジ踏んで凹みまくった時は、一緒に一晩中飲み歩ってくれたよな。
でもお前に二人目の彼女紹介してやったの俺なんだぜ、ちゃんと覚えてるか?
花火もした、ラーメン食べ歩きも、ノートの写し合いも、街のイベント見物も、徹夜で麻雀も、殴り合って本音ぶつけた大喧嘩も。
悪いことばっか見んなよ。
楽しかったこと思い出せよ。
大事なこと忘れんなよ。
「そうだ」
ふと浮かんだささやかな疑問を、歩き出したチホクの背中に尋ねてみた。
「なぁ、あのレアパン、今もまだあんのかな」
もちろんチホクが答えるはずがない。
少し寂しく思いながら、俺は小さく手を振って見送ることにする。
チホクは雨に打たれながら、俺の墓を後にした。




