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人類の皆さん。どうぞ、良い絶望を。

作者: 暗渠
掲載日:2026/02/01

 人類の皆さん。

 どうぞ、良い絶望を。


 その声は、驚くほど丁寧だった。

 駅構内のアナウンスのように、感情がなく、しかし聞き取りやすい。


 私は椅子に座っていた。

 周囲には壁も天井もない。ただ、黒い空間がどこまでも広がっている。足元だけが、淡く白く光っていた。


「ここは《ヒート・デス》体験アトラクションです」


 声は続ける。


「地球が滅んだ、その瞬間から。

 宇宙が最終的な熱的死に至るまでを――

 およそ三十分で体験していただきます」


 冗談だと思った。

 いや、そう思おうとした。


 しかし私は思い出す。

 確かにさっきまで、博物館のような施設にいた。

 未来文明の展示。

 宇宙史を体感できる最新型アトラクション。


「退出はできません」

「ですが、体験後は元の時間へ帰還できます」


 声は、安心させるようにそう付け加えた。


 ――なぜ、退出できないことを先に言う?


 その疑問を口にする前に、空間が変わった。


 光が生まれた。


 恒星だ。

 いくつもの星が、近くで、遠くで、同時に輝き始める。

 私は、星の一生を“真横”から見ている感覚に襲われた。


 太陽が膨張し、地球が焼かれ、消える。

 それはほんの数秒だった。


 私の知っている人類史。

 文明。

 戦争。

 芸術。

 愛。


 すべてが、映像のノイズのように流れて消えた。


「現在、体験時間の一分が経過しました」


 たった一分。


 星が死に、銀河が崩れ、夜空は暗くなっていく。


 音が消えていく。

 遠くの爆発音も、恒星風の唸りも、いつの間にか聞こえなくなっていた。


「これより、宇宙は仕事を行えなくなります」


 声は淡々と告げる。


「温度差が消失します」

「情報を区別するためのエネルギー勾配が失われます」


 私は寒さを感じた。

 いや、正確には「寒さですらない」。


 温度という概念そのものが、意味を失い始めていた。


 二十分を過ぎた頃、私は異変に気づいた。


 思考が遅い。


 考えようとすると、言葉が浮かばない。

 名前が思い出せない。

 自分が誰だったのか、曖昧になっていく。


「ご安心ください」


 声が言う。


「これは演出ではありません」


「宇宙の熱的死とは、

 記憶を保持するための差異が失われる状態です」


 私は叫ぼうとした。

 だが声が出ない。


「情報は、必ず物理に宿ります」

「保持できない情報は、忘却されます」

「忘却は、熱として宇宙に拡散します」


 理解してしまった。


 このアトラクションは、

 ただ見せているだけではない。


 体験者自身の記憶を、

 少しずつ、少しずつ、

 “消去”している。


「安心してください」

「消去量は極めて微小です」

「帰還後の日常生活に支障はありません」


 ――本当に?


 私は自分の名前を思い出そうとした。

 だが、出てこない。


「残り三十秒です」


 空間は、ほぼ完全な闇になっていた。

 星も、光も、時間の感覚もない。


「ここが、宇宙の終端です」


「もう、何も起こりません」

「変化も、選択も、意味もありません」


 その瞬間、私は悟った。


 これは未来ではない。

 結末ですらない。


 ただ、

 忘れ尽くされた結果だ。


「人類の皆さん」


 声は、最初と同じ調子で言った。


「どうぞ、良い絶望を」


 目を開けると、私は博物館のロビーに立っていた。


 案内板にはこう書かれている。


《体験は正常に終了しました》


 時計を見る。

 確かに三十分しか経っていない。


 帰り道、私は奇妙な違和感を覚えた。


 何かを、

 とても大切な何かを、

 置いてきた気がする。


 でも、それが何だったのかは――

 もう、思い出せない。

本作は、

YouTube動画

「TIMELAPSE OF THE FUTURE: A Journey to the End of Time」

から着想を得ています。


科学的予測として語られる「宇宙の熱的死」を、

もし人間が“体験”してしまったら、

という発想で構成しました。

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