人類の皆さん。どうぞ、良い絶望を。
人類の皆さん。
どうぞ、良い絶望を。
その声は、驚くほど丁寧だった。
駅構内のアナウンスのように、感情がなく、しかし聞き取りやすい。
私は椅子に座っていた。
周囲には壁も天井もない。ただ、黒い空間がどこまでも広がっている。足元だけが、淡く白く光っていた。
「ここは《ヒート・デス》体験アトラクションです」
声は続ける。
「地球が滅んだ、その瞬間から。
宇宙が最終的な熱的死に至るまでを――
およそ三十分で体験していただきます」
冗談だと思った。
いや、そう思おうとした。
しかし私は思い出す。
確かにさっきまで、博物館のような施設にいた。
未来文明の展示。
宇宙史を体感できる最新型アトラクション。
「退出はできません」
「ですが、体験後は元の時間へ帰還できます」
声は、安心させるようにそう付け加えた。
――なぜ、退出できないことを先に言う?
その疑問を口にする前に、空間が変わった。
光が生まれた。
恒星だ。
いくつもの星が、近くで、遠くで、同時に輝き始める。
私は、星の一生を“真横”から見ている感覚に襲われた。
太陽が膨張し、地球が焼かれ、消える。
それはほんの数秒だった。
私の知っている人類史。
文明。
戦争。
芸術。
愛。
すべてが、映像のノイズのように流れて消えた。
「現在、体験時間の一分が経過しました」
たった一分。
星が死に、銀河が崩れ、夜空は暗くなっていく。
音が消えていく。
遠くの爆発音も、恒星風の唸りも、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「これより、宇宙は仕事を行えなくなります」
声は淡々と告げる。
「温度差が消失します」
「情報を区別するためのエネルギー勾配が失われます」
私は寒さを感じた。
いや、正確には「寒さですらない」。
温度という概念そのものが、意味を失い始めていた。
二十分を過ぎた頃、私は異変に気づいた。
思考が遅い。
考えようとすると、言葉が浮かばない。
名前が思い出せない。
自分が誰だったのか、曖昧になっていく。
「ご安心ください」
声が言う。
「これは演出ではありません」
「宇宙の熱的死とは、
記憶を保持するための差異が失われる状態です」
私は叫ぼうとした。
だが声が出ない。
「情報は、必ず物理に宿ります」
「保持できない情報は、忘却されます」
「忘却は、熱として宇宙に拡散します」
理解してしまった。
このアトラクションは、
ただ見せているだけではない。
体験者自身の記憶を、
少しずつ、少しずつ、
“消去”している。
「安心してください」
「消去量は極めて微小です」
「帰還後の日常生活に支障はありません」
――本当に?
私は自分の名前を思い出そうとした。
だが、出てこない。
「残り三十秒です」
空間は、ほぼ完全な闇になっていた。
星も、光も、時間の感覚もない。
「ここが、宇宙の終端です」
「もう、何も起こりません」
「変化も、選択も、意味もありません」
その瞬間、私は悟った。
これは未来ではない。
結末ですらない。
ただ、
忘れ尽くされた結果だ。
「人類の皆さん」
声は、最初と同じ調子で言った。
「どうぞ、良い絶望を」
目を開けると、私は博物館のロビーに立っていた。
案内板にはこう書かれている。
《体験は正常に終了しました》
時計を見る。
確かに三十分しか経っていない。
帰り道、私は奇妙な違和感を覚えた。
何かを、
とても大切な何かを、
置いてきた気がする。
でも、それが何だったのかは――
もう、思い出せない。
本作は、
YouTube動画
「TIMELAPSE OF THE FUTURE: A Journey to the End of Time」
から着想を得ています。
科学的予測として語られる「宇宙の熱的死」を、
もし人間が“体験”してしまったら、
という発想で構成しました。




