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【短編小説】正しい死の様式の殺人  作者: 霧崎薫


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第九章:地獄への降下

 藤崎の裁判は、三ヶ月後に始まった。


 私と神宮寺は、傍聴席にいた。


 検察は、藤崎に死刑を求刑した。


 弁護側は、心神耗弱を主張した。


 だが、藤崎自身は——何も語らなかった。


 ただ、静かに座り、すべてを聞いていた。


 そして、最終弁論の日。


 裁判長が、藤崎に最後の発言を求めた。


 藤崎は立ち上がった。


「裁判長、皆さん。私には、言いたいことがあります」


 法廷が、静まり返った。


「私は、三人を殺しました。それは、事実です」


「でも、私は——彼らを『救済』しようとしたわけではありません」


 傍聴席がざわついた。


「私は、以前の取り調べで嘘をつきました。『実験だった』と」


「でも、本当は……」


 藤崎の声が、震えた。


「本当は、私は——ただ、わからなかったんです」


「何がわからなかったか?」


「死です」


 藤崎が顔を上げた。


「私は、すべての宗教を学びました。でも、死が何なのか、わからなかった」


「天国があるのか。輪廻があるのか。魂は不滅なのか」


「誰も、確実には教えてくれなかった」


「だから……」


 藤崎の目から、涙が流れた。


「だから、私は——確かめたかったんです」


「もし、各宗教が正しいなら、『正しい死に方』をした人は、本当に『正しい場所』に行けるのか」


「それを、確かめたかった」


 法廷が、しん、と静まった。


「でも、わかりました」


 藤崎が微笑んだ。


「死んだ人は、何も教えてくれません。どこに行ったのか、誰にもわからない」


「私は、愚かでした」


「わからないものを、わかろうとした」


「そして、その代償として——三人の命を奪いました」


 藤崎が深く頭を下げた。


「申し訳ありませんでした」


 判決は、二週間後に言い渡された。


 死刑。


 藤崎は、控訴しなかった。


 面会に行った私たちに、彼女は言った。


「黒木さん、神宮寺さん。最後に、一つだけ教えてください」


「何ですか?」


「あなたたちは、死を恐れていますか?」


 私と神宮寺は、顔を見合わせた。


「恐れています」


 私が答えた。


「でも、それでいいと思っています」


「どうして?」


「恐れるから、生きる意味がわかる」


 藤崎が微笑んだ。


「そうですね。私も、そう思えれば……」


 彼女の言葉が、途切れた。


 私たちは、最後の面会を終えた。


 外に出ると、雨が降っていた。


「所長」


「何だ?」


「藤崎は……最後に、人間に戻りましたね」


「ああ」


 私は空を見上げた。


「人間は、弱い。わからないことに耐えられない」


「でも、それが……」


「人間らしさだ」


 神宮寺が頷いた。


 その夜、事務所で、私はウイスキーを飲みながら、考えた。


 人類は、有史以来、死と向き合ってきた。


 死を恐れ、死を理解しようとし、死に意味を与えようとしてきた。


 宗教を作り、哲学を作り、物語を作った。


 でも、結局——


 死は、謎のままだ。


 わからないまま、だ。


 そして、それは——


 もしかしたら、いいことなのかもしれない。


 わからないから、人間は生きる。


 わからないから、人間は愛する。


 わからないから、人間は——人間でいられる。


「所長、寝ないんですか?」


 神宮寺が、まだ事務所にいた。


「お前こそ」


「考えてたんです」


「何を?」


「資料に書いてあった、ヴィクトール・フランクルの言葉です」


 神宮寺がノートを開いた。


「『人生になぜを持つ者は、ほとんどあらゆるどのようにも耐えられる』」


「意味があれば、苦しみに耐えられる、か」


「ええ。でも、私は思うんです。『なぜ』がわからなくても、人間は生きられるんじゃないか、と」


「どういうことだ?」


「わからないまま、生きる。わからないまま、死ぬ。それが、人間の条件だ、と」


 神宮寺が私を見た。


「藤崎は、『わからない』に耐えられなかった。だから、狂気に逃げた」


「でも、私たちは……」


「私たちは、『わからない』を抱えたまま、生きる」


 私は頷いた。


「それが、人間の尊厳だ」


 その時——


 事務所のドアが、開いた。


 一人の男が、立っていた。


「失礼します。黒木探偵事務所ですね?」


「そうだが」


「依頼があって来ました」


 男が封筒を差し出した。


「私の名前は、橘と申します。実は、私の妻が……死の直前に、奇妙なことを言い残したんです」


「奇妙なこと?」


「ええ。『私は、地獄に降る。でも、そこで——誰かを救わなければならない』と」


 私と神宮寺は、顔を見合わせた。


「地獄への降下……」


 神宮寺が呟いた。


「それは、キリスト教の……」


「ええ。知っています」


 橘が頷いた。


「妻はキリスト教徒でした。でも、なぜそんなことを言ったのか、わからないんです」


「それで、調査してほしい、と」


「はい。妻が何を意味していたのか。そして——もし可能なら、妻が救おうとした『誰か』を見つけたいんです」


 私は深く息を吐いた。


 また、死についての依頼か。


 だが——


 それが、私の仕事だ。


「わかりました。引き受けましょう」


 橘が安堵の表情を浮かべた。


「ありがとうございます」


 橘が帰った後、神宮寺が言った。


「所長、『地獄への降下』って知ってますよね?」


「キリストが死後、地獄に降りて、旧約の義人たちを救った、という教義だろ」


「ええ。でも、それだけじゃない」


 神宮寺が資料を開いた。


「『地獄への降下』は、『救済の遡及』の象徴なんです。キリスト以前に生きた人々も、救われる可能性がある、という」


「つまり?」


「時間を超えた、普遍的な救済。それが、『地獄への降下』の意味です」


 私は窓の外を見た。


 雨は、まだ降り続けていた。


「神宮寺」


「はい」


「人間は、救われるのか?」


「わかりません」


 神宮寺が微笑んだ。


「でも、人間は——救おうとする。それは、確かです」


 私は頷いた。


 そして——


 新しい事件が、始まろうとしていた。


 死についての。


 救済についての。


 そして、人間についての——


 永遠に終わらない、物語が。



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