第七章:冥界の地図
藤崎の逮捕から一週間が経った。
事務所は、いつもの平和を取り戻していた。
神宮寺は机に座って、例によって文庫本を読んでいる。
「何読んでるんだ?」
「カミュの『異邦人』です」
「また、死についての本か」
「ええ。この事件以来、考えさせられるんです」
神宮寺が本を閉じた。
「所長、人間はなぜ死を恐れるんでしょうね?」
「そんなこと、俺に聞くな」
「いいじゃないですか。所長も、もう五十代なんだから、死について考える年齢でしょう?」
「お前、本当に失礼だな」
神宮寺が笑った。
「でも、本当に不思議なんです。動物は死を恐れない。でも、人間は恐れる。なぜでしょう?」
「わかるからだろ。自分が死ぬって」
「そうです。『死の認識』こそが、人間を人間にしている」
神宮寺が立ち上がって、窓の外を見た。
「アーネスト・ベッカーの『死の拒絶』によれば、死の不安こそが人間の主要な動機です。文化、宗教、芸術——すべては、死の恐怖を管理するために生まれた」
「テロ管理理論、とか言ってたな」
「よく覚えていましたね。三十年以上の研究で、死の顕現性——つまり、死を意識させること——が、人々の行動を変えることが実証されています」
神宮寺が私を見た。
「藤崎も、そうだったんです。家族の死によって、自分の死を強烈に意識させられた。そして、その恐怖を管理するために、『救済』という幻想を作り上げた」
「幻想か」
「ええ。でも、すべての宗教も、ある意味で『幻想』です。人間が、死の恐怖に耐えるために作り上げた、意味のシステムです」
「お前、それを信じてるのか?」
神宮寺が肩をすくめた。
「わかりません。でも、幻想であることと、意味があることは、矛盾しません」
電話が鳴った。
神宮寺が取った。
「はい、黒木調査事務所です。……はい。……え? 本当ですか?」
彼女の顔が、緊張した。
「わかりました。すぐに伺います」
電話を切って、神宮寺が私を見た。
「所長、大変です」
「何があった?」
「佐伯さんが……自殺しました」
私は立ち上がった。
「自殺? どこで?」
「自宅です。遺書があったそうです」
私たちは急いで佐伯の自宅に向かった。
すでに警察が到着していた。
刑事——私の知り合いの吉田——が私たちを見て、呆れた顔をした。
「黒木か。また現場に来たのか」
「佐伯は依頼人だった。遺書を見せてくれ」
「規則違反だぞ」
「頼む」
吉田は渋々、遺書のコピーを渡した。
遺書には、こう書かれていた。
『私は、藤崎さんの言っていたことが正しいと気づきました』
『私たちは皆、誤った生き方をしています』
『だから、誤った死に方をします』
『藤崎さんは、私たちを救おうとしていました』
『でも、私たちはそれを拒否しました』
『だから、私は自分で——正しい死に方を選びます』
「所長……」
神宮寺が震える声で言った。
「これは……」
「わかってる」
私は遺書を返した。
「藤崎の影響だ」
「でも、藤崎は逮捕されています。どうして……」
「藤崎の『思想』が、まだ生きているんだ」
私は吉田に尋ねた。
「死因は?」
「首吊り。時刻は昨夜の十時頃と推定される」
「現場の状況は?」
「特に不審な点はない。自室で、一人で死んでいた」
私たちは自室に入った。
そこで——見たものに、私たちは凍りついた。
壁一面に、地図が描かれていた。
それは、様々な宗教の死後の世界を統合した、複雑な『冥界の地図』だった。
上部には、キリスト教の天国、仏教の涅槃、イスラームの楽園。
中央には、煉獄、バルド、チンヴァト橋。
下部には、地獄、ナラカ、黄泉。
そして、それらすべてを繋ぐ、複雑な経路。
「これは……」
神宮寺が呟いた。
「佐伯さんは、藤崎の理論を……完成させようとしていたんです」
「完成?」
「ええ。藤崎は、各宗教の死に方を段階的に実践させることで、魂を浄化しようとしていました。でも、佐伯さんは……一歩進んだんです」
神宮寺が地図を指差した。
「この地図は、すべての宗教の死後の世界が、実は一つの世界の異なる部分だと示しています」
「つまり?」
「天国も、涅槃も、楽園も——すべて同じ場所。ただ、到達する経路が違うだけ」
私は地図を見つめた。
確かに、すべての『天界』が、地図の頂点で一つに収束している。
そして、すべての『地獄』が、地図の底で一つに収束している。
「佐伯は、これを証明しようとしたのか?」
「おそらく。自分の死を通じて」
神宮寺が震えた。
「所長、これは危険です」
「何が?」
「藤崎の思想は、まだ広がっているんです。『永遠の門』のメンバーの中に」
私は吉田に向き直った。
「他のメンバーは? 大丈夫か?」
「今、全員に連絡を取っている。だが……」
吉田の電話が鳴った。
彼が話を聞いて、顔色を変えた。
「わかった。すぐに向かう」
電話を切って、吉田が私たちを見た。
「もう一人、死んだ」
「誰だ?」
「橋本真理。ヒンドゥー教の研究者だ」
私たちは橋本の自宅に駆けつけた。
彼女は、ガンジス川の写真の前で、瞑想の姿勢で座ったまま、死んでいた。
そして、床には——
マンダラが描かれていた。
それは、チベット死者の書のマンダラと、ヒンドゥー教のヤントラを組み合わせたような、複雑な図形だった。
「神宮寺」
「はい」
「これは、連鎖する」
私は確信した。
「藤崎の思想に感化されたメンバーたちが、次々と『正しい死に方』を実践しようとしている」
「止めなければなりません」
「どうやって?」
「わかりません。でも……」
神宮寺が私を見た。
「藤崎に会いましょう。彼女に、止めてもらうんです」
私たちは再び、警察署に向かった。
藤崎と面会する。
彼女は、報告を聞いて、顔を覆った。
「そんな……私のせいで……」
「藤崎さん、お願いします」
神宮寺が懇願した。
「メンバーたちに、メッセージを送ってください。『私が間違っていた』と」
「でも……」
「お願いします。これ以上、犠牲者を出さないために」
藤崎は、長い沈黙の後、頷いた。
「わかりました。私が……手紙を書きます」
藤崎が書いた手紙は、すべてのメンバーに送られた。
そこには、こう書かれていた。
『私は間違っていました』
『正しい死に方など、ありません』
『各宗教が教える死生観は、すべて人間が作った物語です』
『確実なことは、誰にもわかりません』
『だから、どうか——生きてください』
『わからないまま、生きてください』
『それが、人間の尊厳です』
この手紙の後、連鎖は止まった。
だが、二人の命は——
もう、戻らなかった。
事務所に戻った私は、ウイスキーを飲みながら、考えた。
人間は、死を恐れる。
だから、宗教を作る。
物語を作る。
意味を作る。
でも、それは——
本当に必要なことなのか。
それとも、『わからない』を受け入れることの方が、勇気なのか。
答えは、わからなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
私は、まだ生きている。
そして、生きている限り——
この問いと、向き合い続けなければならない。




