第六章:死者の書
藤崎が逮捕されてから三日後、私は警察署の取調室にいた。
特別に面会を許可された。神宮寺も同席している。
藤崎は、憔悴していた。
だが、その目には、もう狂気の光はなかった。
「黒木さん……神宮寺さん……」
「藤崎さん、お話を聞かせてください」
神宮寺が優しく言った。
「なぜ、あなたは『救済』しようと思ったんですか?」
藤崎は、長い沈黙の後、口を開いた。
「五年前……夫と娘が、交通事故で亡くなりました」
「ええ」
「私は、生きる意味を失いました。毎日、死ぬことばかり考えていました」
藤崎の声が震える。
「でも、死ねなかった。もし私が間違った死に方をしたら、天国で家族に会えないかもしれないと思ったから」
「それで、宗教を研究し始めた」
「はい。世界中の宗教を学びました。どうすれば、正しく死ねるのか。どうすれば、家族と再会できるのか」
藤崎が顔を上げた。
「そして、わかったんです。各宗教には、『正しい死に方』がある。でも、現代人はそれを知らない。だから、みんな間違った場所に行ってしまう」
「だから、あなたは『導こう』とした」
「ええ。最初は、自分だけのつもりでした。でも、サークルのメンバーたちを見ていて……思ったんです」
「何を?」
「この人たちも、間違った死に方をするだろう、と。そして、正しい場所に行けないだろう、と」
藤崎が手を握りしめた。
「だから、私が助けなければ、と」
「でも、それは殺人です」
「わかっています。今は、わかっています」
藤崎の目から、また涙が流れた。
「でも、あのとき……私は本気で信じていたんです。私は、彼らを救っていると」
神宮寺が資料を取り出した。
「藤崎さん、あなたの自宅から見つかった手帳に、『救済の順序』が書かれていました。あの順序は、何を意味しているんですか?」
「順序……」
藤崎が考え込んだ。
「それは……魂の『浄化の段階』です」
「浄化の段階?」
「仏教は、『無常』を教えます。すべては変わり、永遠なものはない。これが第一段階——執着からの解放です」
藤崎が指を折る。
「ユダヤ教は、『唯一神』を教えます。偶像を捨て、真実の神に向かう。これが第二段階——真理の認識です」
「続けてください」
「ヒンドゥー教は、『輪廻』を教えます。死は終わりではなく、新しい始まり。これが第三段階——永遠性の理解です」
藤崎の声が、少し力を取り戻した。
「キリスト教は、『贖罪』を教えます。罪からの解放と、神の恩寵。これが第四段階——罪の浄化です」
「そして、イスラームは?」
「イスラームは、『服従』を教えます。神の意志への完全な服従。これが第五段階——自我の放棄です」
神宮寺が頷いた。
「古代宗教は?」
「古代宗教は……『死者の旅』を教えます。魂が冥界を旅し、最終的に安息の地に到達する。これが最終段階——旅の完成です」
藤崎が私たちを見た。
「わかりますか? これは、魂が完全な救済に到達するまでの、段階的なプロセスなんです」
「でも、それは……」
神宮寺が言いかけて、止まった。
「何だ?」
私が尋ねると、神宮寺は深刻な顔で言った。
「所長、これは……ダンテの『神曲』に似ています」
「神曲?」
「ええ。地獄篇、煉獄篇、天国篇の三部作です。主人公は地獄を旅し、煉獄で罪を浄化され、最終的に天国に到達する」
神宮寺が藤崎を見た。
「藤崎さん、あなたは『神曲』を読みましたか?」
「ええ。何度も」
「そして、それを……実行しようとした」
「はい」
藤崎が静かに言った。
「各宗教の死に方を通じて、魂を段階的に浄化する。そして、最終的に……完全な救済に到達させる」
「完全な救済とは?」
「すべての宗教が目指す、究極の場所です」
藤崎の目が、遠くを見た。
「それは、天国かもしれない。涅槃かもしれない。ブラフマンとの合一かもしれない。でも、どれも同じ場所を指しているんです」
「そんなことは……」
「本当です」
藤崎が強く言った。
「私は、すべての宗教を研究しました。そして、わかったんです。すべての宗教は、同じ真理を、違う言葉で表現しているだけだと」
神宮寺が深く息を吐いた。
「藤崎さん、あなたの理論は……ある意味で、正しいかもしれません」
「神宮寺?」
「いいえ、殺人を正当化するわけじゃありません。でも、『すべての宗教が同じ真理を指している』という考え方自体は、多くの宗教学者が指摘していることです」
神宮寺が資料を開いた。
「ジョゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』。世界中の神話に共通のパターンがあることを示しました。カール・ユングの『集合的無意識』。人類に共通の原型的イメージがあることを示しました」
「つまり?」
「人類は、文化や時代を超えて、同じ根源的な問い——『死とは何か』『死後、どこに行くのか』——に答えようとしてきた。そして、その答えは……本質的には、同じなのかもしれません」
藤崎が微笑んだ。
「わかってくれますか、神宮寺さん」
「ええ。でも……」
神宮寺が真剣な顔で続けた。
「藤崎さん、あなたは一つ、決定的な間違いを犯しました」
「何でしょう?」
「各宗教の『正しい死に方』は、本人が選ぶものです。他人が強要するものじゃない」
藤崎の顔が、曇った。
「でも……彼らは、自分で選べなかったんです。だから、私が……」
「違います」
神宮寺が遮った。
「人間には、『わからないまま死ぬ権利』もあるんです」
「え……?」
「死後の世界が本当にあるのか。魂は不滅なのか。天国は存在するのか。誰も、確実には知らない。そして、それでいいんです」
神宮寺が立ち上がった。
「人間は、『わからないこと』を抱えたまま、生きて、死んでいく。それが、人間の条件です」
藤崎が震えた。
「でも……それでは……家族に会えない……」
「会えるかもしれません。会えないかもしれません。でも、それは……誰にもわからないんです」
神宮寺の声が、優しく響いた。
「藤崎さん。あなたの娘さんは、確実に、あなたの心の中に生きています。それだけは、間違いありません」
藤崎が泣き崩れた。
「娘……娘……会いたい……」
私たちは、静かに取調室を出た。
廊下で、私は神宮寺に尋ねた。
「お前、本当にそう思うか? 死後の世界は、わからないままでいい、と」
神宮寺は、長い間黙っていた。
そして、小さく笑った。
「わかりません。でも……『わからない』ということを受け入れることが、人間の尊厳なのかもしれません」
私たちは警察署を出た。
外は、雨が降り始めていた。
事件は終わった。
藤崎は裁かれるだろう。
だが、彼女が問いかけた問題——
『死とは何か』
『死後、どこに行くのか』
『救済は存在するのか』
それらは、まだ答えのないまま、残されていた。
そして、それは——
永遠に、答えの出ない問いなのかもしれなかった。




