第四章:過去という名の煉獄
パテル教授は一命を取り留めたが、意識不明の重体だった。
警察は本格的に動き始めた。だが、藤崎の行方は掴めない。
事務所に戻った私たちは、濡れた服を着替えながら、情報を整理していた。
「藤崎晶子。四十二歳。元大学教授。専門は比較宗教学」
神宮寺がノートパソコンの画面を見つめる。
「五年前、夫と娘を事故で亡くしています。それから、『永遠の門』サークルに参加するようになったとか」
「動機は?」
「わかりません。でも、サークルのメンバーによると、藤崎は『死後の世界の存在』を強く信じていたそうです」
私はウイスキーのグラスを傾けた。
「神宮寺、犯人の目的は何だと思う?」
「『救済』です。本人がそう言っていました」
「だが、なぜ殺す必要がある?」
「おそらく、藤崎は本気で『正しい死に方』をさせることで、被害者を『正しい場所』に送れると信じているんです」
神宮寺がソファに座った。
「所長、資料を読みましたか? 人類は有史以来、死を恐れ、同時に死に魅了されてきた。死後の世界を信じ、不老不死を願ってきた」
「で?」
「藤崎は、その『願い』を実現させようとしている。各宗教が説く『正しい死に方』を実践させることで、被害者を『救済』しようとしている」
「狂気だ」
「ええ。でも、論理的な狂気です」
神宮寺が立ち上がった。
「所長、キリスト教の『煉獄』って知ってますか?」
「天国と地獄の間にある、中間地点だろ?」
「正確には、『浄化の場所』です。罪を犯したが地獄に行くほどではない魂が、一時的に留まって浄化される場所」
「何が言いたい?」
「藤崎にとって、この世界は『煉獄』なんです。私たちは皆、正しい場所に行けていない。だから、彼女が『導いてあげる』必要がある」
電話が鳴った。神宮寺が取る。
「はい、黒木調査事務所です。……はい。……わかりました。すぐに伺います」
電話を切って、神宮寺が私を見た。
「佐伯さんからです。サークルの緊急会合を開くそうです。今夜、九時」
「場所は?」
「新宿の貸会議室。メンバー全員が集まるそうです」
私は時計を見た。あと二時間ある。
「神宮寺、藤崎の自宅を調べに行こう」
「警察が入っているはずですが」
「だからこそだ。警察が見落としているものがあるかもしれない」
私たちは藤崎の自宅——世田谷区のマンション——に向かった。
警察の現場検証は終わっていた。管理人に話をつけて、部屋に入る。
ワンルームの部屋は、驚くほど質素だった。
家具は最小限。ベッド、机、本棚。
本棚には、宗教関連の書籍がびっしりと並んでいた。
「『死者の書』『バガヴァッド・ギーター』『コーラン』『聖書』……」
神宮寺が背表紙を読み上げる。
「世界中の宗教書が揃っています」
私は机の上を調べた。ノート、万年筆、そして——
「これは……」
一冊の手帳。
開くと、几帳面な字で、何かが記されていた。
「神宮寺、これを見ろ」
彼女が覗き込む。
手帳には、こう書かれていた。
『救済の順序』
『第一:仏教——山田教授——完了』
『第二:ユダヤ教——レヴィ・ラビ——完了』
『第三:ヒンドゥー教——パテル教授——未完了』
『第四:キリスト教——?』
『第五:イスラーム——?』
『第六:古代宗教——?』
「やはり、順序があった」
神宮寺が呟いた。
「でも、この順序は何を意味しているんだ? 宗教の成立順じゃない」
「わかりません。でも、藤崎には明確な『計画』があります」
私は手帳をめくった。
最後のページに、こう書かれていた。
『すべての魂を、正しい場所へ』
『誤った死は、誤った転生を招く』
『私は導く者』
『私は救う者』
『私は——』
そこで文章が途切れていた。
代わりに、一枚の写真が挟まれていた。
若い女性と、小さな女の子。
おそらく、藤崎の娘だ。
写真の裏には、こう書かれていた。
『彼女たちは、正しい場所にいない』
『だから、私が——』
神宮寺が私の肩を掴んだ。
「所長、これは……」
「わかってる」
藤崎は、家族を失った悲しみから、狂気に走った。
だが、それだけじゃない。
彼女は本気で信じている。
正しい死に方をさせれば、魂が正しい場所に行けると。
そして、いつか——
自分も、家族と再会できると。
「神宮寺」
「はい」
「藤崎を止めなければならない。だが——」
「だが?」
「彼女を救うこともできるか?」
神宮寺は、長い間黙っていた。
そして、静かに言った。
「わかりません。でも、試す価値はあります」
私たちは部屋を出た。
時刻は午後八時半。
サークルの会合まで、あと三十分。
そこで、私たちは——
藤崎の次のターゲットを知ることになる。
そして、それは——
私たちが予想もしなかった人物だった。




