第三章:輪廻の輪
警察が到着する前に、私たちは現場を離れた。合法的とは言えないが、時間がない。
「所長、落ち着いてください。深呼吸です」
「落ち着いてる」
「顔が真っ青ですよ」
神宮寺が私の腕を掴んだ。
「二人目が死んだ。私たちが間に合わなかったせいだ」
「違います。犯人が、私たちより速かっただけです」
タクシーの中で、神宮寺は携帯電話で次のターゲット候補に連絡を取ろうとしていた。
「ヒンドゥー教研究者の一人、ラージ・パテル教授。電話に出ません」
「もう一人は?」
「橋本真理。日本人で、インドで十年修行した経験があるそうです。こちらは……出ました! もしもし、橋本さんですか?」
神宮寺が素早く状況を説明する。私は運転手に、橋本の住所——目黒区——を告げた。
「わかりました。外出せず、ドアに鍵をかけて待っていてください。三十分以内に着きます」
電話を切って、神宮寺が言った。
「橋本さんは無事です。でも、パテル教授と連絡が取れない」
「パテル教授の方が危ない」
「同感です。でも、住所がわかりません。大学の研究室は今日は休講日で……」
神宮寺が資料を検索している間、私は考えた。
「神宮寺、ヒンドゥー教の『正しい死に方』って何だ?」
「いくつかあります。でも、最も重要なのは『ガンジス川のほとりで死ぬこと』です」
「東京にガンジス川はない」
「ええ。だから、犯人は象徴的な場所を選ぶはずです。川のほとり、水辺……」
神宮寺が顔を上げた。
「隅田川」
「パテル教授の研究室は?」
「墨田区! 隅田川の近くです!」
私は運転手に行き先を変更させた。
タクシーは首都高を飛ばした。
「所長、ヒンドゥー教について説明します」
「話せ」
「ヒンドゥー教では、魂は不滅です。肉体が死んでも、魂は別の肉体に転生する。これが『輪廻転生』、サンサーラです」
「その輪廻から解放されるのが、悟りか」
「正確には『モークシャ』、解脱です。輪廻から解放され、ブラフマン——宇宙の根源——と一体化する」
タクシーが墨田区に入った。
「ヒンドゥー教には四つの道があります。バクティ・ヨーガ、献身の道。ジュニャーナ・ヨーガ、知識の道。カルマ・ヨーガ、行為の道。そして、ラージャ・ヨーガ、瞑想の道」
「犯人は、パテル教授にどの道を『歩ませる』つもりだ?」
「わかりません。でも、ヒンドゥー教では、死の瞬間が重要です。最後に何を考えたかが、次の転生を決定する」
隅田川が見えてきた。
「だから、聖なる場所で、聖なる思いを抱いて死ななければならない」
タクシーが止まった。川沿いの公園だ。
「探せ」
私たちは公園を走った。夕暮れが近づいている。
そして——見つけた。
川岸に、一人の男が座っていた。インド系の顔立ち。五十代。瞑想の姿勢で、動かない。
「パテル教授!」
神宮寺が叫んだ。
私たちが駆け寄ったとき、男はゆっくりと目を開けた。
「あなたたちは……?」
「探偵です。あなたの命が狙われています」
パテル教授は、穏やかに笑った。
「わかっています。でも、私は逃げません」
「何を言ってるんですか!」
「死は、恐れるべきものではありません。魂は不滅です。この肉体が滅びても、私は別の形で生まれ変わる」
私は周囲を見回した。犯人はどこだ。
「パテル教授、犯人と接触しましたか?」
「……ええ。今朝、一通の手紙を受け取りました」
教授は懐から封筒を取り出した。
「『あなたは正しい死に方を知っている。川のほとりで、ブラフマンを想い、肉体を手放しなさい』と」
「それは、あなたを殺そうとしているんです!」
神宮寺が叫んだ。
「いいえ。それは、私を『解放』しようとしている」
教授の目が、遠くを見ていた。
「私は生涯、輪廻からの解脱を研究してきました。でも、私自身は解脱できていない。犯人は、私にその機会を与えようとしているんです」
「狂ってます!」
「狂気と悟りは、紙一重です」
その時——
背後から、声がした。
「その通りです、教授」
私たちが振り返ると、一人の女性が立っていた。
三十代。黒いコートに身を包み、手には小さな瓶を持っている。
「あなたは……」
パテル教授が目を見開いた。
「サークルのメンバー、藤崎さん……」
「こんばんは、教授。そして、探偵さんたち」
女性——藤崎——は微笑んだ。
「ようやくお会いできましたね。黒木涼さん。そして、神宮寺詩織さん」
「あなたが犯人か」
「犯人? 違います。私は『救済者』です」
藤崎が瓶を掲げた。
「これは、ガンジス川の聖水です。パテル教授、これを飲んで、川に入りなさい。そうすれば、あなたは解脱できる」
「待て!」
私が叫んだが、パテル教授は立ち上がった。
「ありがとう、藤崎さん。あなたは、私の願いを理解してくれた」
「待ってください、教授!」
神宮寺が腕を掴んだが、教授は優しく手を振りほどいた。
「神宮寺さん。あなたは宗教学者なら、わかるはずです。死は終わりではない。始まりなのです」
教授は藤崎から瓶を受け取り、一口飲んだ。
そして——川に向かって歩き出した。
「止めろ!」
私が走り出したが、藤崎が立ち塞がった。
「邪魔しないでください。これは、彼の選択です」
「選択じゃない! お前が誘導したんだ!」
「誘導? 違います。私はただ、道を示しただけです」
パテル教授が、川に入った。
膝まで。腰まで。肩まで。
「教授!」
神宮寺が叫んだ。
そして、教授の姿が——水の中に消えた。
私は川に飛び込んだ。冷たい水が体を包む。
暗い水の中、教授の腕を掴んだ。
引き上げようとする。
だが——
教授は抵抗しなかった。
目を閉じて、穏やかな表情で、水に身を任せていた。
まるで、本当に——
解脱を願っているかのように。
私は必死で教授を岸に引きずり上げた。神宮寺が人工呼吸を施す。
「救急車! 誰か!」
周囲の人々が駆け寄ってきた。
そして、藤崎の姿は——
もう、そこにはなかった。
救急車が到着したとき、パテル教授はかろうじて息を吹き返した。
「教授、しっかりしてください!」
神宮寺が叫ぶ。
教授の唇が、わずかに動いた。
「ありがとう……でも、私は……もう少しで……」
「何を言ってるんですか!」
「もう少しで……解脱できたのに……」
教授の目から、涙が流れた。
それは、安堵の涙なのか。
それとも、悔恨の涙なのか。
私にはわからなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
犯人——藤崎——は、被害者を『説得』する能力を持っている。
それは、単なる心理操作ではない。
もっと深い、もっと根源的な——
人間の『死への憧れ』に訴えかける、何かだ。
そして、それは——
私たちが思っている以上に、危険だった。




