第二章:天国への階段
翌朝、私は神宮寺と共に、最初の犠牲者・山田教授が飛び降りた高層ビルの前に立っていた。
「三十二階建て。屋上から飛び降りたそうです」
神宮寺が資料を読み上げる。
「遺書には『俗世を離れ、天界に赴く』と書かれていたとか。いかにも自殺っぽいですね」
「でも、お前は殺人だと思ってるんだろ」
「ええ。だって、チベット仏教の研究者が、チベット仏教的な死に方で死ぬなんて、出来すぎでしょう?」
彼女の言う通りだった。
私たちはビルの管理人に話を聞いた後、屋上に向かった。エレベーターが三十二階に着くまで、妙に長く感じた。
「所長、チベット死者の書って知ってます?」
「名前だけは」
「正式名称は『バルド・トドル』。死後、魂が経験する六つのバルド、つまり中間状態を記述した経典です」
エレベーターのドアが開いた。
「人が死ぬと、魂は肉体を離れて、様々な幻視を経験します。恐ろしい神々、美しい光、暗闇。そのすべてが、実は自分の心が作り出した幻影なんです」
「つまり、死後の世界なんてない、と?」
「いいえ。幻影であると同時に、真実でもある。それが仏教の教えです。『色即是空、空即是色』ってやつですね」
屋上のドアを開けると、冷たい風が吹き付けた。
「で、犯人はなぜ山田教授を、この方法で殺したんだ?」
「おそらく、『正しい死に方』を教えようとしたんです」
神宮寺が屋上の縁に近づいた。
「チベット仏教では、死に方が次の転生を決定します。高所から飛び降りることで、魂が天界に『飛翔』する。犯人は、山田教授に『正しい転生』を与えようとした」
「狂ってるな」
「ええ、完全に」
神宮寺は笑った。
「でも、論理的ではあります。各宗教には『正しい死に方』があるんです。キリスト教なら、最後の告解。イスラームなら、メッカの方角を向いて死ぬこと。ヒンドゥー教なら、ガンジス川のほとりで」
「犯人は、被害者に『正しい死』を強要している」
「そういうことです」
私は屋上を見回した。監視カメラはない。目撃者もいない。
「管理人の話では、山田教授は単独で屋上に来たそうだ。防犯カメラにも、一人で映っている」
「でも、遺体の状況は?」
「特に争った形跡はない。血中アルコール濃度も正常。薬物反応もなし」
「完璧すぎる自殺、ってわけですね」
神宮寺が屋上の縁に座った。
「でも、一つだけ不自然な点がある」
「何だ?」
「山田教授は、高所恐怖症だったそうです」
私は彼女を見た。
「どこで知った?」
「大学の同僚に電話で聞きました。所長が管理人と話している間に」
「……仕事が早いな」
「褒めても給料上げませんよ」
神宮寺が立ち上がった。
「高所恐怖症の人間が、自ら屋上の縁から飛び降りる。おかしいと思いませんか?」
「催眠術か?」
「それとも、何らかの心理操作。犯人は、被害者に『自ら死を選ばせる』方法を知っている」
私たちは屋上を後にした。エレベーターで下りながら、神宮寺が呟いた。
「所長、『死ぬ瞬間』って本、知ってます?」
「知らない」
「エリザベス・キューブラー=ロスの古典的名著です。死にゆく人々が経験する五つの段階——否認、怒り、取引、抑鬱、受容——を記述しています」
「で?」
「犯人は、この『受容』の段階を、人為的に作り出している可能性があります。被害者に『死を受け入れさせる』ことで、自発的に死なせる」
「どうやって?」
「わかりません。でも、犯人は心理学と宗教学の両方に精通している」
一階に着いた。外に出ると、雨は止んでいた。
「次の被害者を予測できるか?」
「サークルのメンバーリストを見ましたが、全員が何らかの宗教の専門家です。神父、僧侶、イスラーム学者、ヒンドゥー教研究者……」
「つまり、誰が次に狙われてもおかしくない」
「ええ。でも、一つだけヒントがあります」
神宮寺が資料を開いた。
「犯人は、おそらく『時系列』に沿って殺している」
「時系列?」
「宗教の成立順です。最初の犠牲者は仏教研究者でした。仏教の成立は紀元前五世紀。次は、それより古い宗教の研究者が狙われる可能性が高い」
「それより古い宗教……」
「ヒンドゥー教。ゾロアスター教。そして——」
神宮寺が私を見た。
「ユダヤ教です」
私たちは急いで事務所に戻り、サークルのメンバーリストを確認した。
ユダヤ教の研究者——一人だけいた。
ラビ・ヤコブ・レヴィ。五十八歳。東京のユダヤ教会のラビ(指導者)で、比較宗教学の権威。
「今すぐ連絡を取ろう」
神宮寺が電話をかけたが、繋がらなかった。
「留守電です」
「住所は?」
「世田谷区。自宅兼シナゴーグだそうです」
私たちはタクシーを拾って、レヴィ・ラビの自宅に向かった。
着いたのは、静かな住宅街の一角にある、瀟洒な一軒家だった。
門は開いていた。
玄関のドアも、開いていた。
「嫌な予感がします」
神宮寺が呟いた。
私たちは中に入った。
応接室で、ラビ・ヤコブ・レヴィは、椅子に座ったまま、死んでいた。
首には、銀色の紐が巻かれていていた。
そして、床には——
「これは……」
神宮寺が膝をついた。
床に、チョークで描かれた図形。
六芒星。ダビデの星。
そしてその周囲に、ヘブライ文字で何かが書かれていた。
「『シェマー・イスラエル』……」
神宮寺が震える声で読み上げた。
「『聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である』」
「ユダヤ教の信仰告白だ」
「ええ。そして、これは『死に際に唱えるべき言葉』です」
私は警察に電話をかけた。
だが、犯人は——すでに次のターゲットに向かっているかもしれない。
「神宮寺」
「はい」
「次は誰だ」
彼女は資料を睨んだ。
「ヒンドゥー教……研究者は二人います。でも、どちらが狙われるか……」
「両方、保護しよう」
私たちは再び、走り出した。
しかし、私たちが気づいていなかったことが一つあった。
犯人は、時系列に沿って殺しているのではない。
犯人は、『救済の順序』に沿って、殺していたのだ。
そして、その順序は——
私たちが想像する以上に、複雑だった。




