第十章:夜明け
橘の依頼を受けてから、一週間が経った。
私たちは、橘の妻・由美子の足跡を追っていた。
由美子は五十歳で、末期癌で亡くなった。敬虔なカトリック信徒で、生前は慈善活動に熱心だった。
「所長、これを見てください」
神宮寺が、由美子の日記を見せた。
最後のページに、こう書かれていた。
『私はもうすぐ死ぬ』
『でも、恐れてはいない』
『なぜなら、私には使命があるから』
『地獄に降り、一人の魂を救い出さなければならない』
『それが、私に与えられた最後の仕事』
「一人の魂……誰のことだ?」
「わかりません。でも、ヒントがあります」
神宮寺が日記をめくった。
数ページ前に、こう書かれていた。
『今日、古い友人から手紙を受け取った』
『彼女は、私に許しを求めている』
『でも、私が許すべきは、彼女ではない』
『彼女が許すべきは——自分自身だ』
「古い友人……」
「調べました」
神宮寺が資料を開いた。
「由美子の高校時代の同級生に、一人だけ——藤崎晶子がいました」
私は息を呑んだ。
「藤崎……」
「ええ。由美子と藤崎は、高校時代、親友だったそうです」
「なぜ、そんな重要なことを今まで……」
「橘さんも知らなかったんです。由美子は、藤崎のことを誰にも話していなかった」
私は立ち上がった。
「藤崎に会おう」
拘置所で、私たちは藤崎と面会した。
彼女は、由美子の名前を聞いて、顔色を変えた。
「由美子……」
「知っていますね」
「ええ。私の……唯一の友人でした」
藤崎が遠くを見た。
「高校時代、私は孤独でした。でも、由美子だけは——私を理解してくれた」
「何があったんですか?」
「私が……宗教に興味を持ち始めたとき、由美子は反対しました」
藤崎が目を閉じた。
「『宗教は、人を救うためにある。人を試すためにあるんじゃない』と」
「でも、あなたは……」
「私は、聞きませんでした。そして——私たちは、疎遠になりました」
藤崎の目から、涙が流れた。
「でも、今年の春、由美子から手紙が来ました」
「何と書いてあったんですか?」
「『私はもうすぐ死ぬ。でも、その前に、あなたに伝えたいことがある』と」
「それで?」
「私は……会いませんでした。会えませんでした」
藤崎が震えた。
「由美子に会えば、私は——自分の間違いを認めなければならない。それが、怖かったんです」
「藤崎さん……」
神宮寺が優しく言った。
「由美子さんは、最後に『地獄に降りて、一人の魂を救わなければならない』と言いました」
「え……?」
「その魂とは——あなたのことだと思います」
藤崎が目を見開いた。
「私を……?」
「ええ。由美子さんは、あなたを救おうとしていた」
藤崎が泣き崩れた。
「由美子……由美子……」
私たちは、静かに待った。
しばらくして、藤崎が顔を上げた。
「黒木さん、神宮寺さん。お願いがあります」
「何ですか?」
「由美子の墓に、花を供えてください」
「あなたが行けばいいでしょう」
「私は……死刑囚です。もう、外に出ることはできません」
藤崎が微笑んだ。
「でも、せめて——由美子に、伝えてください」
「何を?」
「『ありがとう』と」
私たちは、由美子の墓に花を供えた。
静かな墓地。
墓石には、こう刻まれていた。
『愛と信仰に生きた女性』
『神宮寺さん』
「はい」
「由美子は、本当に『地獄に降った』のか?」
神宮寺が考え込んだ。
「わかりません。でも……」
「でも?」
「由美子さんは、死の直前まで、藤崎さんのことを想っていた。それは、確かです」
神宮寺が墓石に触れた。
「キリスト教の『地獄への降下』は、時間を超えた救済の物語です。キリストは、自分が生まれる前に死んだ人々さえも、救おうとした」
「つまり?」
「愛は、時間を超える。死さえも超える。それが、『地獄への降下』の本当の意味です」
私は頷いた。
「由美子は、死後の世界で藤崎を救おうとしたわけじゃない」
「ええ。由美子さんは、生きている間に——藤崎さんの心の中に、『救済』の種を植えたんです」
風が吹いて、花びらが舞った。
「所長」
「何だ?」
「私たちの仕事は、終わりましたね」
「ああ」
私たちは墓地を後にした。
事務所に戻ると、橘が待っていた。
「どうでしたか?」
「由美子さんの『使命』は、果たされました」
私が答えると、橘が安堵の表情を浮かべた。
「そうですか……ありがとうございます」
橘が帰った後、神宮寺が言った。
「所長、この事件を通じて、何か学びましたか?」
「学び?」
「ええ。死について、救済について、人間について」
私はウイスキーを飲んだ。
「わからないことだらけだ」
「それでいいんです」
神宮寺が笑った。
「人間は、わからないまま生きて、わからないまま死ぬ。でも、それでも——人を愛し、人を救おうとする」
「それが、人間の尊厳か」
「そうです」
神宮寺が窓の外を見た。
東の空が、少しずつ明るくなっていた。
「所長、夜明けです」
「ああ」
「新しい一日が始まります」
私は立ち上がった。
「神宮寺、コーヒーを淹れてくれ」
「自分で淹れてください」
「給料払ってるのは俺だぞ」
「安月給で働いてるのは私です」
いつもの掛け合い。
いつもの朝。
事件は終わった。
だが、人生は続く。
死についての問いを抱えたまま。
救済についての疑問を抱えたまま。
でも、それでいい。
わからないまま、生きる。
それが、人間だ。
窓の外で、太陽が昇り始めた。
新しい一日。
新しい事件。
そして——
新しい、人間の物語。
私は、コーヒーを飲んだ。
苦くて、温かくて、生きている味がした。
「所長、次の依頼が入りました」
「どんな?」
「不倫調査です。ありふれたやつです」
「それでいい」
私は笑った。
「たまには、死なない事件がいい」
「同感です」
神宮寺も笑った。
私たちは、仕事を始めた。
死についての壮大な問いは、ひとまず棚上げして。
日常の、小さな謎を解くために。
でも、心のどこかで——
私たちは知っていた。
いつか、また。
死と、向き合う日が来ることを。
そして、そのとき——
私たちは、また同じ問いを抱くだろう。
『死とは何か』
『人間は、なぜ生きるのか』
『救済は、存在するのか』
答えは、わからない。
でも——
問い続けることが、人間を人間にする。
そう信じて、私たちは生きていく。
この、不確かで、美しい世界で。
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藤崎晶子は、三年後に刑が執行された。
最後の言葉は、記録されていない。
ただ、立ち会った司祭によれば、彼女は穏やかな表情だったという。
そして、最後に——
小さく、微笑んだという。
まるで、何かを理解したかのように。
それが、何だったのか。
誰にも、わからない。
わからないまま、彼女は——
この世界から、去って行った。
どこに行ったのか。
天国か。地獄か。涅槃か。それとも、無か。
答えは——
永遠に、謎のままだ。
そして、それでいい。
わからないことを、わからないままにする。
それが、人間の——
最後の尊厳なのだから。
(了)




