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【短編小説】正しい死の様式の殺人  作者: 霧崎薫


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第一章:最初の依頼人

 十月の雨が、新宿の裏通りを濡らしていた。


 私立探偵事務所「黒木調査事務所」は、雑居ビルの三階にある。エレベーターは壊れたまま半年が経過し、大家は修理する気配を見せない。階段を上がると息が切れる年齢になった。五十四歳。タバコのせいだと秘書は言うが、私は加齢のせいだと思っている。


 ドアを開けると、神宮寺詩織が机に足を乗せて文庫本を読んでいた。


「お帰りなさい、所長。今日の尾行はどうでした? 妻の浮気は立証できました?」


「夫の浮気だ。証拠写真は撮れた」


 私はデジタルカメラを机に置いた。神宮寺は足を下ろして、興味なさそうに画面を確認する。


「ラブホテル街で抱き合う二人。古典的ですね。で、依頼人の奥さんは泣くんでしょう? で、それでも離婚はしないんでしょう? で、所長は『人間なんてそんなもんだ』って顔をするんでしょう?」


「お前、本当に口が悪いな」


「褒め言葉として受け取っておきます」


 神宮寺詩織。三十二歳。東京大学で宗教学の博士号を取得したが、大学に残る気はないと言って、なぜか私の事務所で秘書をしている。美人だが、その口の悪さで男を三日で振る。


「コーヒー、淹れてくれるか」


「自分で淹れてください。私は秘書であって、メイドじゃありません」


「給料払ってるのは俺だぞ」


「安月給で文句言われる筋合いはありません。それに、今日は来客があります」


 神宮寺は壁の時計を指差した。午後三時を回っている。


「予約してた客か?」


「いいえ。飛び込みです。でも、面白そうだから取っておきました」


「面白そう?」


「ええ。『誰かが人を殺そうとしている。でも警察には言えない』って言うんです」


 私はコートを脱いで、ハンガーにかけた。


「警察に言えない理由は?」


「『あなたたちには理解できないから』だそうです」


 神宮寺は楽しそうに笑った。


「で、お前はなんて答えた?」


「『うちの所長は理解力がありませんが、私は理解力があるので大丈夫です』って」


「……俺のこと、バカにしてるだろ」


「事実を述べただけです」


 応接室のドアが開いて、一人の男が顔を出した。四十代後半。痩せた体に高級なスーツ。神経質そうな顔立ち。


「失礼。お話は聞こえていました。黒木さん、でいらっしゃいますか」


「そうだが」


「私は佐伯という者です。どうか、お話を聞いていただけませんか」


 佐伯と名乗った男は、応接室のソファに座った。神宮寺がコーヒーを三つ用意する。自分で淹れろと言ったくせに、来客があると几帳面に準備する女だ。


「それで、誰かが誰かを殺そうとしている、と」


 私は単刀直入に聞いた。佐伯は頷いた。


「私が所属している団体の中で、連続殺人が計画されています」


「団体?」


「『永遠の門』という、宗教研究サークルです」


 神宮寺がコーヒーカップを置く音が、やけに大きく響いた。


「宗教研究サークル?」


「はい。様々な宗教の死生観を研究する、学術的なサークルです。メンバーは二十人ほど。大学教授、宗教学者、僧侶、神父、そして私のような一般人も含まれています」


「で、そのサークルの中で殺人が計画されている、と」


「そうです。すでに……一人、殺されました」


 佐伯の声が震えた。


「警察には届けなかったのか」


「届けました。でも、事故として処理されました」


「事故?」


「ええ。高層ビルから飛び降りたんです。遺書もありました。だから自殺だと」


「でも、あなたは殺人だと思っている」


「確信しています」


 佐伯はスーツの内ポケットから、一枚の写真を取り出した。


「これが、現場に残されていたものです」


 写真を見た瞬間、神宮寺が息を呑んだ。


 それは、複雑な幾何学模様と文字で構成された、奇妙な図形だった。


「これは……」


 神宮寺が呟いた。


「チベット仏教の曼荼羅です。でも、普通の曼荼羅じゃない。これは『バルド・トドル』、チベット死者の書に記された、死後の世界の地図です」


 私は神宮寺を見た。彼女の目が、珍しく真剣だった。


「つまり、犯人は被害者に『死後の世界』を示したかったと?」


「わかりません」


 佐伯は震える手で写真を仕舞った。


「でも、これは始まりに過ぎないんです。犯人は、サークルのメンバー全員に『招待状』を送ってきました」


「招待状?」


「『あなたの魂を正しい場所へ導きます』と書かれた、手紙です」


 神宮寺が立ち上がった。


「その手紙、見せていただけますか?」


「ええ。持ってきました」


 佐伯が封筒を差し出す。神宮寺はそれを開いて、中の便箋を取り出した。


 便箋には、美しい筆致で、こう書かれていた。


『人は誤った死に方をする。誤った場所に行く。私はあなたを救済する』


「所長」


 神宮寺が私を見た。その目には、興奮と恐怖が混ざっていた。


「これ、受けましょう」


「お前が決めるな」


「いいじゃないですか。面白そうでしょう?」


「人が死んでるんだぞ」


「だからこそです」


 神宮寺は便箋を私に渡した。


「犯人は、各宗教の死生観に基づいて、『正しい死に方』をターゲットに強要しようとしている。そうでしょう、佐伯さん?」


「……おそらく」


 佐伯は頷いた。


「最初の犠牲者、山田教授は、チベット仏教の研究者でした。だから、高層ビルから『飛翔』して死んだ。空を飛んで天界に行く、という象徴として」


「次のターゲットは?」


「わかりません。でも、犯人は順番に、サークルのメンバーを『正しい場所』に送ろうとしている」


 私は深く息を吐いた。


「報酬は?」


「百万円。前金で半分、解決したら残り半分」


「受けよう」


 神宮寺がにやりと笑った。


「所長、本当は興味津々なくせに」


「黙れ。仕事は仕事だ」


 佐伯が安堵の表情を浮かべた。


「ありがとうございます。これで、少しは眠れそうです」


「サークルのメンバーリスト、名簿をいただけますか」


 神宮寺が手帳を開いた。


「もちろんです」


 佐伯がバッグから資料を取り出す。


 私は窓の外を見た。雨は、まだ降り続いていた。


 誰かが、宗教的確信に基づいて、人を殺そうとしている。


 それは救済なのか。


 それとも、狂気なのか。


 どちらにしても、私の仕事は、それを止めることだ。


 たとえ、犯人の動機が、人類が何千年も問い続けてきた「死」そのものであったとしても。



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