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09

 朝日が昇ってからまずしたのは、ぐっと両手を天に突き上げた伸びと、それからたっぷりの深呼吸だった。


 埃やカビの臭いのする堂内を一歩出ると、忽ち清潔な空気に身体中を包まれた。雲ひとつない青空に、燦燦とした日差し。枝葉がさらさらと音を立てながら風に揺れ、草花はまどろむように陽を浴びている。


 探索を兼ねて裏手に回ると、所々に苔の生えた古い井戸があり、石を積み立てて造られた枠を囲むように、瑞々しい緑色をした雑草が生えていた。上部に取り付けられた滑車はひどく錆びついていたけれど、縄も釣瓶もしっかりしているようだったので、取り敢えず水が枯れていないかを確かめる為に、からからと滑車を回して木桶を井戸の底へ落としてみる。すぐに綱を握る手に重たい感触がぴんと届き、その瞬間、私は思わず顔を綻ばせながら飛び跳ねた。水というのは、生きる上でとても重要なものだ。それが手に入るのなら、ここでの生活はどうにかなりそうだと思う。


 汲み上げた水は、長年使われていなかったとは思えないほど澄んでいて、水面には朝陽の粒がきらきらと踊っていた。取り敢えず先に手を洗い、それからばしゃばしゃと洗顔を済ませる。地下に蓄えられていた水は、小川に流れるそれよりも冷たく感じられるのはどうしてだろう。


 夜が明け、辺りが鮮やかな色彩に包まれて初めて、ここが豊かな自然に抱かれている場所だと気が付いた。昨夜の闇の中では、ただ不気味に見えた茂みも、よくよく見るとそれは小ぶりな花をつけた灌木で、その上には、小粒の赤い果実をたわわに実らせた木々がびっしりと並んでいる。葉の先が尖った木、つるりと滑らかで細い幹をした木、空を覆い尽くさんばかりにたっぷりと葉を茂らせた大きな木。礼拝堂へと続く一本道の両脇には艷やかな芝生が一面に広がり、白や薄紫やピンクの愛らしい花々が緩やかにそよいでいる。


 夜ここへ来た時は気付かなかったけれど――。桶いっぱいに新しい水を汲み上げ、ずっしりと重たくなったそれを礼拝堂の入口へと運びながら思う。花も木もたくさんあり、色彩がとても豊かなここは、なんて美しい場所なのだろう、と。町中の喧騒とは程遠い、やさしくあたたかな静けさが、うっとりするほど心地よい。


 堂の入口に桶を置き、ゆっくりと扉を押し開いて、一応中をそっと覗いてみる。朝目覚めた時、ルシエル様の姿はどこにもなかったのだけれど。それでも、ここを寝床にしていると仰っていたので、もしかしたら礼拝堂のどこかにいるのかもしれない、と思って。

 けれどどこを見回してみても、ルシエル様の横顔も後ろ姿も、どこにも見当たらなかった。堂内は早朝と変わらぬ静謐さに満ち、窓から差し込む眩い陽光が、宙に浮くこまかな埃をちらちらと照らしている。入口から真っ直ぐに伸びる身廊、整然と並べられた無数の長椅子、薄汚れていながらそれでも美しく輝くステンドグラス。


 等間隔に並ぶ太くずっしりとした柱に区切られた側廊を進むと、その先には小さな木戸があり、少し錆びついた錬鉄製のノブを握って扉を開けば、その先には小ぢんまりとした部屋が広がっていた。ベイウィンドウの下部に設えられたソファ兼ベッド、薄く誇りを被った書き物机、中身が空っぽの本棚、それから小さな丸いテーブル。更に左側の壁には扉がひとつ切られており、その先にはシンプルだけれども必要最低限のものが揃った簡素なキッチンも備えられている。見る人によれば殺風景とも思えるかもしれないけれど、しかし人がひとりで暮らすには、何もかも十分すぎるものだった。


 もしかしたら昔は、誰かがここに住んでいたのかもしれない。聖職者か、或いは建物の管理維持をする敬虔な信徒が。

 そんなことを考えながら、ベッドと枕、乱雑に置かれた幾つかのクッションから外したカヴァーを、大桶に移し替えた新鮮な水の中でざぶざぶと洗う。物を干すような場所はなかったので、倉庫と思しき部屋から見つけてきたロープを、比較的日当たりの良い所に生えた木々に括り付け、一枚ずつ丁寧に干していく。ついでに、着替え用のスカートやシャツも。


 これが終わったら、次は堂内の掃除をしよう。あちこちに埃が積もったり、土や泥で汚れていたりするから。先ずは箒で掃き回って、その後に水拭きを――。

 そこまで考え、私はくすくすと笑みをこぼす。驚くほど頭も身体も軽くて、胸の奥にふわりと陽が差したような、穏やかな気持ちが広がっている。清々しい、というのだろうか。屋根のある場所でゆっくりと眠れたおかげかもしれないし、昨日の出来事がきかっけで憑き物でも落ちたおかげかもしれない。或いは、今朝はしっかりと朝食を摂れたことも、要因の一つだろう。朝は裏庭に成っていたチェリーとアプリコットを食べた。パンやスープはないけれど、野宿に慣れきった身体に、それはとても新鮮なご馳走だった。


 幸いなことに、礼拝堂の周りには果実を実らせる樹木が多く生息しており、更には丈高い草々を分け入った先には小川が流れている。山が近い為か、玲瓏のようなせせらぎを奏でる水はとても清らかに澄んでいて、綺麗な水辺がよくそうであるように、そこにももちろん水鳥や魚が生息していた。罠を仕掛けてきたので、運が良ければ晩食は焼き魚にありつけるかもしれない。食べられる野草が群生しているのも見つけたので、それを幾つか採ってスープにするのも良いだろう。


 まさかこんな形で、孤児院時代に培った知恵が役に立つとは――。あの劣悪だった環境を、そこで過ごした酷悪な日々を思い出すことは、もう殆どなくなっていたのだけれど。それでも、身に沁みた“癖”や“技”は、記憶を押し殺した後もしっかりと身体に残っているらしい。たとえそうという自覚がなくとも。


 洗濯物を終え、その足で倉庫へ向かい、古びて所々穂の抜けた箒を手に取って、先ずはもっとも重要な祭壇の階段へと足をかける。薄闇の中ではそこまで酷いとは思わなかったのだけれど、大理石で作られた階段も身廊も、まるで色褪せたかのように、土埃でひどく汚れていた。これではルシエル様も、気持ちよく眠ることは出来なかったのではないだろうか。本当は、隅々まで磨き上げられ、王国一どころか大陸一と持て囃される絢爛な大聖堂に棲まうようなお方なのだから。

 

 けれど、何故彼は、大聖堂ではなくこんな辺鄙なところにある礼拝堂にいるのだろう――。疑問に思いながら、慣れた手つきでさっさと土埃を掃いてゆく。側廊の壁にも、アプスの壁にも、大小様々な窓がたくさん設けられているというのに、そのどれひとつとして開けることが出来ないというのは、なんと不便なことだろう。掃いた土埃は宙にふわふわと舞い上がり、これでは開け放した出入り口の扉はまるで意味がない。


 くしゅん、と小さなくしゃみが弾け、私は慌てて口元を拭った。鼻の奥がむずむずして、つい鼻も啜る。どうやら布巾でもあてておかないと、堂内を掃き終えるまでに身体が限界を迎えそうだ、と思った。特に、鼻と喉と目が。

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