表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/41

08

 何と言われたのか、すぐに理解することが出来なかった。時の狭間にぽつんと取り残されたかのように、全てがすうっと静止する。あんなにも激しく動いていたはずの高鳴りさえも、ぴたりと。やんだ鼓動が冷たく固まり、そこからじわじわと、身体の内側が冷めてゆくのを感じる。どろりとした不快な何かに、或いは、つんとした刺々しいものに、ゆっくりと蝕まれてゆくような。


 そんな感覚に雁字搦めにされ、ただ立ち尽くすことしか出来ない私を、ルシエル様は一瞥すらしなかった。窓の外に向けた無表情な横顔が、彼の無関心をありありと物語っている。その興味のなさげな顔貌にも、私は言葉を思考を、何もかもを奪われた。どうして、と、本当は訊きたいのに。何故そんなことを仰るのですか、と。私が本物の聖女だと、この右手の紋章が本物だと、そう断言してくれたのは、他ならぬ貴方様のはずなのに、とも。


「ここは俺の寝床だ。お前の居場所ではない。王都へ戻るなり、他の地へ行くなり、好きにしろ」


 訊きたいことは、山ほどあるのに――。ぱちり、と無意識に瞬いた瞼が、微かに震えていた。睫毛の先まで、こまかに。それが驚きのせいなのか、泣きたいせいなのか、自分でもよく分からない。更に言えば、おずおずと開いてゆく唇が、どんな言葉を発しようとしているのかさえ、少しも。まるで分離してしまったようだ、と思った。自分が真っ二つに引き裂かれてしまったようだ、と。それくらい、思考と感情とがあまりにも噛み合わなくて。


「……どうして」


 だから、言葉が口を衝いて出た時、私は自分が何をどうしたいのかも分からないままだった。


「どうして、あの時……審判の場に、御姿を現して下さらなかったのですか」


 問いかけた瞬間、すっと流れるように動いた深紫の瞳が、射抜くように私の目をとらえた。どきりとして、ほんの一拍だけ唇が動きを止める。けれど、一度堰を切った思いは、もう私の意思では止められなかった。言葉が、次から次へと勢いよく溢れ出してくる。激しい波のように。


「私が“本物の聖女”だと仰るのなら……どうしてあの時、私の前に現れて下さらなかったのですか。貴方様の御姿を、この目で視ることが出来ていたなら。貴方様の御声を、この耳で聞くことが出来ていたなら。私は……私はっ……!」


 瞼の震えが伝播したのか、ぎゅっと握り締めた両手もまた、小刻みに震えていた。きっと身体中が、そうやって波打ってるのだろうと思う。とめどない感情に、激しく揺さぶられて。言葉の、そのひとつひとつに宿った、どうしようもない思いが、荒れ狂う潮のように心を呑み込んでゆく。


 悔しいというより、ただ、悲しかった。どうしようもないほどに、深く。

 あの時、少しでもルシエル様の姿が視えていれば。ほんの僅かでも、その声が届いていれば。“偽物の聖女”と断じられ、“魔女”の烙印を押されることも、居場所を失い、地位も婚約者も何もかもを奪われ、王都を追われることも、何もかもなかったはずなのに。

 行く先々で向けられる罵声や憎悪も、危険に晒される恐怖も、独りぼっちの孤独や苦しさも。私は、全て耐えてきた。歯を食いしばって。どうにか二本の足で立ち続け、足掻きながらも必死に耐えてきた。それなのに――。


 あの場で、ただ一言だけでも仰って下されば、それで良かった。本物はお前だ、と。いや、言葉などなくても良い。瞬きほどの僅かな時でも、その御姿が現れてくだされば、それだけで、どれほど救われたことか。

 そう思えば思うほど、胸の奥に沈んでいた澱のような想いが、一気に浮かび上がってくる。苦しくて、息が詰まりそうだった。まるで、暗く冷たい底なし沼の中で溺れているみたいに。


「この聖紋は、貴方様が刻んで下さったのでしょう? それなのに……どうして突き放そうとなさるのですか」


 威勢よく飛び出した言葉のくせに、最後の方は縋り付くような声に変わってしまっていた。情けないほどに。けれど実際のところ、私はルシエル様に縋り付きたかったのだと思う。縋り付いて助けを乞いたかったのだ、と。

 けれども、返ってきたのは、慰めでも慈しみでも、ましてや赦しでもなかった。ぴんと張り詰めた沈黙。そのひりつくような冷たさが、肌を刺す。向けられる眼差しも、纏う気配も、何もかもが鋭利な刃物のようで。そのあまりの刺々しさに私が息を呑むのと、容赦のない言葉が鼓膜に打ち付けられたのは、ほぼ同時だった。


「――だから何だ?」


 ひどく冷淡な声が、頭の中に鈍く反響する。刹那、何かがぱちんと音を立てて、胸の奥で弾けたような気がした。


「確かにお前は“本物の聖女”だが、ただそれだけに過ぎん」


 ゆっくりと歩み寄ってくるルシエル様を、私は絶望に沈みながら見つめるしかなかった。ぎゅうぎゅうにきつく締め付けられる心が、今にも張り裂けてしまいそうなほど、痛くてたまらない。足元が崩れ、空を切りながら真っ暗な闇の中に落ちてゆくみたいに、身体のそこここがすうすうする。彼の言葉のせいか、それとも、鋭い棘のような眼差しのせいか。

 今この瞬間、何よりも強く、自分が拒絶されたのだと、ひしひしと痛感する。見当違いな幻想を抱くな、と。お前は所詮その程度の存在だ、と。


 すぐ傍で足を止めたルシエル様を、だから私は見上げることが出来なかった。恐ろしいからでも、悲嘆に打ち拉がれているからでもなく、どうして良いのか分からなくて。

 そんな私の視界に、彼はすっと顔を寄せてきた。鼻先に吐息が触れてしまいそうなほど近くまで。宝石のような深紫の瞳が、すぐ傍にまで迫ってきたせいで、思わず心臓がどくりと飛び跳ねた。胸を突き破って飛び出してきてしまいそうなほど、激しく。

 なんて神々しいのだろう、と、こんな時でもそう思ってしまうのは、十数年も拠り所にしてきたせいだろうか。あの夜の思い出を、何よりも大切に、煌々と輝く尊いものとして、抱き締め続けていたから。


「“本物の聖女”なら、神に無条件で溺愛されるとでも思っていたのか」


 それなら、どうして――。喉元まで込み上げた言葉は、しかし糸がぷつりと切れたように力を失い、腹の底へと転がり落ちてゆく。

 そんな私を鼻先で嗤い、ルシエル様はあっさりと踵を返す。私のことなど、もう忘れてしまったみたいに。最初からここに存在などしていなかったかのように。白い衣の裾がひらりと翻る度、白い耳朶の先で揺れる青いピアスが、無情な光をきらりと放つ。鋭く研ぎ澄まされた切っ先の放つそれによく似た、冷たい輝き。


 静謐な夜の気配に溶けていく背中を、追いかけることも、縋り付くことも叶わず、薄れゆくその後ろ姿を、私は空っぽになった意識で、ただ呆然と見送ることしか出来なかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ