07
「私は、“聖女”ではありません。……あの日、聖堂に現れた貴方様を視たのは、アリス嬢なのですから」
努めて冷静に、平静を装いながらそう告げると、ルシエル様の柳眉がぴくりと跳ねた。やがてゆっくりと、白い眉間に皺が刻まれていく。不快そうに、少しずつ。その様は怒っているというより、どちらかといえば、不可解なものを前に訝しんでいるようだった。まるで“理解出来ない”と、そう言っているかのように。深い紫色の瞳には、だから困惑とも苛立ちともつかない微かな揺らぎが見て取れた。ほんの一瞬ではあったけれど、確かに。
その瞬きほどの僅かな揺らぎが胸に引っ掛かり、私は思わず目を凝らす。いったい今のは、何だったのだろう――そう疑問が浮かぶよりも早く、青白い月明かりの中に、静かな声が落ちた。堂内に満ちる、ひんやりとした夜の空気によく似た、冷たい声。
「あそこに戻った憶えなどないが?」
そう言って、気怠げに首を傾げたルシエル様に、私はただ愕然とする。すぐには何も言葉が出なかった。言うどころか、思考すらうまく回らなかった。
あの日、大聖堂で起こった出来事は、今も鮮明に憶えている。窓から差し込む陽光の眩さや、それに照らされて輝く聖紋や、恍惚としたアリス嬢の横顔や、憤怒の滲んだ殿下の声や――あの場にあった全てが、細部に至るまで、まるで呪いのように残っている。脳裏に、眼に、今もくっきりと。
そうだというのに――。驚きのせいで間抜けに開いた唇の間から、か細い吐息だけがこぼれ落ちる。あそこに戻った憶えはない、と、ルシエル様は確かにそう言った。けれど、その言葉を真実と受け入れるよりも、偽りだと思う方が、はるかに現実味があった。
神の姿を視ることが出来るのも、声を聞くことが出来るのも、“本物の聖女”だけだ。あの審判の場でそれを成したのはアリス嬢であり、故に私には、あそこにルシエル様が本当にいたのかどうかすら分からない。崇高なる主神が、まさか嘘を吐くなどとは考えられないけれど。しかし、本当のことなど確かめる術のない私には、どうしても、疑うことの方がまだ納得出来るのだ。嘘だ、と、そう思うことの方が、よほどしっくりする。
あの場で、あの瞬間に、己が目の当たりにしたものを信じるべきか。それとも、命を救われて以来絶えず祈りを捧げ、常に心の拠り所であった存在を信じるべきか。
頭の中は、すっかり混乱していた。訳が分からなくて。ぐちゃぐちゃになった思考の荒波に呑まれ、ただぼうっと立ち尽くしていることしか出来ない。そんな私をよそに、ルシエル様はそっと逸らした視線を、祭壇の上に佇む主神像へと向けた。まるで自嘲するように、唇の片端を、ほんの僅かに持ち上げながら。
「お前がそれを信じるか否かは、どうでもいい」
すぐに戻された深紫色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。所詮、私のようなちっぽけな人間の考えていることなど、神の前では丸裸も同然なのだろう。全てお見通しなのだ。心の奥底まで、何ひとつ隠すことなど出来ない。
それを否応なく突きつけられているような気がして、スカートの端をぎゅっと握り締める。居心地が悪い、と思った。何もかも見透かされるというのは、ひどく気まずくて、どうしようもなく心をざわつかせる、と。
そんなふうに考えていることすら、ルシエル様にはきっと手に取るように分かってしまうのだろう。けれども彼は、私の心情になど微塵の関心すら抱いていないようだった。私を見つめる眼差しは、相も変わらず淡白なままだったから。
「……だが、これだけは言っておく」
それなのに――
「“本物の聖女”はお前だ。己でつけた“聖紋”が分からなくなるほど、俺は落ちぶれていない」
冷たく突き放すような、素っ気のない声音だというのに、その言葉に宿るあまりにも揺るぎない確信に、私は思わず息を呑む。心が、大きく、激しく揺れていた。戸惑いと、驚きと、それから、胸の奥をじんと震わせるような、あたたかな何かと。
ゆっくりと目を見開かせれば見開かすほど、それらの波は堰を切ったように胸の内へと押し寄せ、やがて全身をひたひたと満たしてゆく。思考は輪郭を失い、溶けるように遠のいてゆくのを感じながら、私はただ静かにルシエル様を真っ直ぐに見つめる。緩く編まれた長い髪の毛を、透けるように白い滑らかな肌を、長く濃い睫毛に囲われた深紫の美しい瞳を。きっと今の私は、ひどく間抜けな顔をしているに違いない。目を大きく瞠り、唇を薄く開いたまま固まった、なんとも呆けた酷い顔を。
やがて、波が引くように感情のうねりが収まり、後に残ったのは、えも言われぬ喜びだった。身体の端々からすうっと力が抜け、ふわりと軽くなるような心地よさ。静寂の中、踊るようにどくどくと弾む鼓動だけが、やけに鮮やかに、身体中に響き渡っている。“胸がすく”というのは、きっとこういう感覚のことを言うのかもしれない、と思った。晴れ間が差して初めて、自分の内側のあちこちがひどく濁り、曇っていたことに気付く。それを拭い去ってくれたのは、紛れもなくルシエル様の言葉だった。“本物の聖女”はお前だ、と、そう断じる言葉ではなく――。
ああ、と、胸の奥で小さく息を吐くように感嘆しながら、私はそっと微笑む。聖女はお前だ、と言われた時は、ただただ戸惑うばかりで、素直に受け取ることが出来なかったはずなのに。どうして今はこんなにも晴れやかな気持ちでいられるのだろうか、と不思議に思ったのだけれど。ゆっくりと瞬き、視界の中に映り込む気高い姿を見つめながら思う。私が胸を打たれたのは、“本物の聖女”だと断じる言葉ではなく、手の甲に刻まれた紋章が、あの夜確かに彼が残してくれたものだと認めるその一言だったのだ、と。そして何よりも、それを彼が今も忘れずにいてくれたという、その事実だったのだ、と。
ずっと胸の奥に重く沈んでいたのは、もしかすると“偽物の聖女”と裁かれたことではなく、この紋章を“偽物”だと断じられたことだったのかもしれない。私にとってこの“印”は、何よりも大切な、かけがえのないものだったから。
それを、紛うことなきものとして認めてもらえたことが、あまりにも嬉しく、幸せで。胸の中がやさしいぬくもりでいっぱいに満たされ、気づけば口元が、ふわりと綻んでしまっていた。
そんな私を見て、ルシエル様は訝しそうに、僅かに眉を顰める。まるで不可解なものでも見るように。
「何故笑っている」
「……いえ」
けれど、彼が私の機微に反応を示したのは、その一瞬だけだった。淡くこぼれた笑みを見ても、ルシエル様の表情は少しも揺らがない。やはり、ちっぽけな人間の感情など、彼にとっては取るに足らぬものなのだろう。
それを、残念だとか、悲しいだとか、寂しいだとか思うのは、きっと間違っている。それでも――あの夜、私を救ってくれた存在と、目の前に佇む彼の姿が漸くぴたりと重なった今、どうしても胸をひんやりしたものが掠めてしまう。夜風に揺らめく木の葉の、ざわざわとした音のようなものが。
だからかもしれない。暫しの間、静かに据えられていた深紫の瞳がふいに逸れ、次の瞬間、冷ややかな声が鼓膜に深く突き刺さったように感じたのは。それを、痛い、苦しい、と思ってしまったのは。
「分かったなら、さっさとここから出ていけ」