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06

 いったいどれほどの間、呆然と立ち尽くしていたのだろう。時がとまったようだ、と思った。鼓動も、呼吸も、瞬きも、ありとあらゆるものがぴたりとその動きを失ってしまったようだ、と。それは数秒だったかもしれないし、或いは数十分だったかもしれない。瞬きほどの短さにも、途方もない長さにも感じられる、そんな沈黙。


 薄汚れた窓硝子から差し込む淡い月明かりがふいに揺らめき、そのおかげで、全てがただの錯覚だったのだと気付かされる。

 けれど、だからといって何が出来るわけでもなかった。相も変わらず、身じろぎひとつままならず、眼前に佇むその存在を、ただただ見つめるばかり。息を吸うことも、瞬きをすること忘れて。まるで空に縫い止められてしまったかのように、目を逸らすことも、指の先を動かすことも、まるで叶わない。“魅入る”とは、まさにこのことをいうのだろう、と思った。私は今――神に、心を奪われている。


「いつまで呆けているつもりだ」


 低く、冷ややかにも思える声が、再び宙を震わせた。どこか呆れを滲ませたその響きに、胸の奥がぐらりと大きく揺さぶられたような気がして、はっと目を瞬かせる。ぱちぱちと、何度も。そうしながら、詰めていた息を吐き出し、埃の混じった夜気を肺いっぱいに吸い込む。その瞬間、身体の中にゆっくりと、意識が漸く戻って来るのを感じた。じわじわと、四肢の先から少しずつ広がるように。驚愕というより、感慨に近い感覚で。


 身体が息を吹き返すと、考えるよりも先に、自然と手足が動いた。骨の髄にまで染み付いたいつもの所作で、そっと床に跪く。顔を俯けると、胸の前で組んだ手が微かに震えているのが見えた。怖いわけでも、悲しいわけでもないのに。


「永劫を統べし者、黎明の明星よ。星の証を掲げし御方に、我が祈りと畏敬を、今ここに」


 それとも、これは歓喜の震えなのだろうか。ぎゅっと両の手に力を込め、今まで幾度となく口にしてきたその挨拶を、いつもより少しだけ丁寧に、敬意をこめて紡ぎながら思う。胸の奥底からとめどなく湧き上がる熱と高鳴りが、今にも皮膚を突き破って外へ溢れ出そうとしているのではないだろうか、と。


 けれど、どれほど身体の中を探ってみても、そんな喜悦は少しも見つからなかった。――いや、見つからなかった、というのは嘘になるだろう。十数年の時を経て再び相まみえることが叶ったことを、嬉しく思っているのは事実だ。なにせその長い年月の間、あの夜の記憶は、私にとって心の拠り所だったのだから。喜びも、感動も、確かに胸の奥にはある。


 それでも、それらの感情をそうと素直に受け止めることが出来ないのも、また事実だった。あやふやな、まるで名前のついていない想いようだ、と思いながら、ゆっくりと瞬く。ふわふわともそわそわとも、或いはずきずきともつかない感触が、胸のそこここに満ちている。これはいったい、何なのだろう。まるで、他の全ての感情を呑み込むかのように、身体をすっぽりと覆い包んでいるこの得体の知れないざらつきは、いったい何なのだろう。


「口上はいらん」


 冷淡な声が静寂を裂き、離れかけていた意識をぐっと引き戻される。私はそっと顔をあげ、その御前を見上げた。雲が去ったのか、身廊に沿って並ぶ窓から差し込む月光が、一際明るさを増す。薄汚れた硝子越しでも分かるほど、清らかで澄んだ青白い光の中にすっと佇む姿は、思わずひれ伏したくなるほど神々しく、恍惚としてしまうほど麗しかった。名工が魂を込めて彫り上げたどの主神像よりも、名だたる画家が描いたどの宗教画よりも。


「何故ここにいる、と俺は訊いているんだが」


 僅かに傾けられた首の動きに合わせ、艷やかな前髪がさらりと揺れる。その何でもない一瞬すらも、まるで一級の芸術品のように見えるのは、彼の纏う崇高で神秘的な空気のせいだろうか。それとも、彼の“存在”そのもののせいだろうか。


 そう考える一方で、なんと答えるべきだろうか、と思案する。真実を語るべきか、それとも、事実を濁して誤魔化すべきか――。けれど、頭を真っ二つにして、それぞれ全然違うことを考えたのは、ほんの数秒たらずのことだった。僅かな迷いの中で、結局私の中にあったのは、ただひとつ。

 たとえ“魔女”の烙印を押された身であろうと、御前で嘘を吐くことなど、私に出来るはずがないのだ。どうしても。


「……“偽物の聖女”と断じられ、王都を追われてしまったのです」


 そう言いながら、私は自嘲ともつかない苦笑をこぼす。嘘を口にすべきではない、全て正直に語るべきだ――そう、頭では分かっている。けれど、だからといって、それをこの方に――世界そのものとも言える主神・ルシエルへ告げることが、果たして本当に正しいのだろうか、と。本当に許されることなのだろうか、と。躊躇いは、やはり拭えなかった。折角その尊い御姿を現し、あまつさえ御声までかけてくださったというのに。私が“魔女”であると知ったなら、この方はどれほど落胆し、どれほど軽蔑されるだろうか――。


「身寄りも、帰る場所もない為、あてのない旅をしていたのですが……その途中で、気が付けばここへ辿り着いていて――」


 言葉に詰まったのは、それ以上語れることが何もなかったからだ。どこへ向かえば良いのかも、いつまで歩き続ければよいのかも分からない、“終わりのない旅”について。そもそもこの彷徨いを、“旅”と呼んでいいのかどうかすら分からない。“逃亡”と呼ぶ方が、きっと真実に近い。もしかすれば、この命が尽きるまで続くのかもしれない、果てのない逃走。


 他に言葉を持たず、おずおずと口を閉ざした私を、ルシエル様はただ静かに見つめていた。やさしさも、穏やかさも感じられない、淡々とした眼差しで。

 まるでアメシストそのもののように澄んだ、深い紫の瞳に見据えられていると、ふいに――ああ、私の命はここで終わるのかもしれない、と思った。それは今この瞬間かもしれないし、或いは、もっとずっと遥か先のいつかかもしれない。けれど不思議なことに、それは自分でも驚いてしまうほど確かな、根拠のない直感だった。


 もしかして神直々に、聖女を騙った悪しき“魔女”である私を、罰しに来たのだろうか。そんな一抹の不安が胸を掠めた、その時。唐突に、ルシエル様が溜息をついた。「馬鹿馬鹿しい」とでも言いたげに、呆れたように僅かに肩を竦めて。


「くだらんことを言うな。“聖女”はお前のはずだ」


 迷いのないきっぱりとした口調でそう言い放つと、ルシエル様はすっと目を細めた。こちらを見つめながらも、まるで私ではない“何か”を透かし見るように。

 彼の言葉は、いっそ清々しいとすら感じられるほど、裏も表もなければ濁りもなかった。そうと分かるからこそ、思わず胸を衝かれ、たじろいでしまう。眩しいほどの潔さ。なんて正直な物言いをするのだろう。“偽物の聖女”として断罪されたのだ、と、告げたばかりなのに。どうして彼は、これほどまでに迷いなく、揺らぎなく、私を“聖女”だと言い切れるのだろう。

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