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05

 あまりに突然のことで、何が起きたのか、すぐに理解することは出来なかった。

 目を閉じたまま呆然とし、霞がかかったような感覚の中で、間の抜けた呼吸を繰り返す。疲労で重たく濁った頭では、思考の輪郭さえ掴めない。

 今が夢でないことは分かっていても、それが現実とも思えなくて。曖昧な狭間に取り残され、ただ漂うことしか出来ない自分の存在が、どこか遠く、他人のもののように感じられる。


 それでも頭の奥には、鼓膜に触れた微かな音が、ぼんやりと響き渡っていた。まるで水面に落ちた一滴の雫が、ゆるやかに波紋を広げてゆくように。懐かしい音だ、と思った。何故だか分からないけれど、無意識に。懐古を刺激する音だ、と。


「……おい」


 その時、今度ははっきりと“声”が届いた。生気を帯びながらも、どこか冷淡な響きを纏った、低く落ち着いた声。空気を震わせるような質感を伴って、確かに鼓膜に届いたそれが夢ではなく現実のものだ、と、遅れてやって来たまともな思考が漸く認識した瞬間、身体がびくりと震えた。まるで内側から爆ぜるように。


「――っ!?」


 はっとして飛び起きた勢いのまま、長椅子から転がるように身を起こし、足を縺れさせながら立ち上がる。反射的に動いたせいで視界がぐわりと大きく揺れ、月明かりに照らされた大理石の床と、整然と並ぶ長椅子の列がぼやけて見えた。心臓がどくり、どくりと強く脈打っている。胸を突き破らんばかりの激しさで。だから呼吸もうまく整わなくて、喉が引き攣ってしまう。


 どうして良いのか、分からなかった。どうすれば良いのか、分からなかった。立ち尽くしていれば良いのか、それとも逃げれば良いのか。そもそも、怯えれば良いのか、怒れば良いのかさえも。


 そんな私の眼前には、堂の入口に設けられた薔薇窓から差し込む微かな光を背に、ひとりの男性が立っていた。


 すらりと均整のとれた長躯。白磁のように滑らかな肌。長く濃い睫毛に縁取られた切れ長の目。ゆるく三つ編みにされた、白とも淡いラベンダーグレイともつかない長い髪の毛。こちらを見据える深紫色の瞳は、まるでアメシストのように美しい。もしかしたら、アメシストそのものなのかもしれない、と錯覚してしまうほどに。


 その瞳に見つめられていると、何故か心が震えてしかたなかった。胸の奥が、きゅっと掴まれるような、切なくも懐かしい感覚にとらわれる。身体のそこここが、眼の前に立つ彼のその深い紫色の瞳に、或いは彼そのものに反応していた。何かを訴えるように。


 私はこの人を、知っている――。

 なんとも言い難い不思議な感覚で、ふと、そう思う。けれどそれは、殆ど確信だった。確かな実感として、私はこの人を知っている、と思う。端正なかんばせも、透けるように白い肌も、くっきりとした二重の目も、ゆったりと編まれた長い髪の毛も、そして、宝石のように美しい深い紫色の瞳も。


 ――また会える?


 不意に脳裏で、誰かが囁いた。今にも消え入りそうなほどか細く、微かにざらついた声で。まるで何かに――誰かに縋り付くように。

 その瞬間、頭の奥底から、十数年も昔の、遠く幼い日の記憶がどっと押し寄せてきた。まるで大波のようなそれに、取り付く島もなく呑み込まれる。勢いのまま、どんどんと遠くへ押し流されてゆくけれど、しかし不思議と、恐ろしいとも苦しいとも思わない。それは多分、光だった。真綿に包まれているような、或いは、ふわふわと浮かんでいるような。あたたかく軽やかな、眩い光の中。そこに、彼は立っていた。誰よりも美しく、誰よりも神々しい姿で。薄く細めた切れ長の目で、じっと私を見下ろしながら。


 甘く蕩けるような痺れに全身を包まれながら、ああ――と、私は感嘆混じりに思う。疑いようがない、と。どうして疑うことなど出来ようか、と。

 もう十数年も前のことなのに、一瞬にして昔へ引き戻された感覚だった。頭の中をぱあっと照らされるように、何もかもが一気に蘇ったような。色彩豊かに鮮明なまま、今と過去がぴたりと重なり合う。寸分の狂いもなく、どちらがどちらであるか分からないほど、ぴったりと。


 高熱に魘されていた、あの夜。医者ですら匙を投げ、小さな身体のあちこちを病に蝕まれ、もはや為す術のなかった私を救ってくれた、恩人。あの時の記憶はまるで幻想のように、夢なのか現実なのか判然としないほどとろりと滲んでいる。けれど――あの時私を救ってくれた“その存在”だけは、まるでそれだけがくっきりと縁取られてでもいるみたいに、身体のそこここに色濃く焼き付いている。清らかな瞳は脳裏に、安らかな声は鼓膜に、あたたかな指先は手の甲の皮膚に。今でも当時と変わらぬ響きとぬくもりのまま。

 誰もが諦め、疾うに見放していた命だったのに。そんなちっぽけな命を繋いでくれた尊い存在を、私はあの日から片時も忘れたことなどなかった。


 だから、振り返らなくても分かる。薄闇に沈んだ祭壇を、その上に飾られた大理石の像を仰がなくとも。思い出の中で、心の奥で、生き続けてきた存在を、見間違えるはずがない。


 そもそも、疑うことすら出来るはずがなかった。そこに“在る”というだけで、理屈を飛び越えて、“そうなのだ”と全身に理解させてしまう、抗いようのない力があるせいで。感覚というより、恐らくは魂の奥底で、それを“識ってしまう”のだと思う。この世界の“気配”そのものを。圧倒的な神聖さと、凪いだ水面のような静けさ。その奥に潜む、ただ“在る”というだけで全てを跪かせる威圧感――。


 それでも、どうしても信じきれなかった。彼の存在そのものというよりも、今目の前に佇むこの人が、本当に、あの時の彼と同じなのだろうか、ということが。

 おかしな話かもしれない。彼ほど崇高な存在が、この世にふたりといるはずもないのに。けれど、信じられないのも無理はない、とも思ってしまう。だって彼は――“魔女”として断罪されたあの日、私の前に姿を現してはくれなかったのだから。

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