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04

 鬱蒼とした茂みを抜け、暗く長い夜道をひとり歩きながら、私はもう何度目とも知れない溜息を、ひんやりとした夜気の中へそっと吐き出す。当てずっぽうに進んでいたせいで、どれほど歩いたのかも、今どこにいるのかも、まるで分からない。澄んだ静寂の中に響くのは、木々の葉が擦れる音と、草土を踏みしめる自分の足音だけ。他に物音ひとつなく、人の気配もまるで感じられない。


 そのことに安堵しながらも、胸の奥を掠める寂しさに、私は誰にともなく小さく苦笑を漏らす。静かであることも、ひと気がないことも、ついでに動物の気配すらないことも、寧ろ良いことだ。悪事を働く野盗も、獰猛な野生生物もいないことの証なのだから。更に言えば、罵倒を投げつけてくる“ごく普通の人々”も。人の目さえなければ、世界はこんなにも穏やかで静かなのだ。

 けれど、通りのそこここにこぼれていた、家々のあたたかな灯火が脳裏にちらつく度、胸がきゅっと締め付けられる。今の私にはもう、あの中に溶け込む資格はないのだと、そう思い知らされるせいで。


 いっそのこと、ずっと野山を彷徨っていた方が、気楽で良いのかもしれない。そんなことをぼんやり考えながら、丈の高い野草に縁取られた小道を歩いていると、不意に、木々の合間に影のようなものが見えた気がした。思わず足をとめ、視線の吸い寄せられた先を凝視する。注意深く、じっと。


 やがて雲間から洩れた月の光が、その影の輪郭を淡く縁取ってゆく。青白く照らされたそれは、まるで忘れ去られたように朽ちかけた、小さな石造りの建物だった。小塔を備えたふたつの尖塔と、ずっしりとした造りの半円形のアプス。入口の真上には小ぶりな薔薇窓が設けられ、中央には主神・ルシエルを示す聖印が彫り込まれている。


 すっかり寂れ、廃墟同然と化しているけれど、それはどこからどう見ても礼拝堂だった。手入れをされていないところからするに、恐らく聖職者どころか、祈りを捧げに来る者すら誰もいないのだろう。しかし、いくら廃れているとはいえ、屋根も壁も窓も、そこに嵌め込まれた硝子もしっかりとしていた。壁には蔦が蔓延り、窓は土埃で曇ってはいるけれど。でも、一夜を過ごすには十分過ぎる立派さだ。人が寄り付いていないのも都合が良い。


 今夜の寝床はここにしようと決め、足先の向きを変えて、礼拝堂へと歩み寄る。近づくにつれ、微かに漂ってくる湿った苔の匂いと、土草の青い香り。扉へと続く石造りの階段も、所々に崩れがあったり雑草が根を張っていたりするけれど、それでも足をかけてみると、ぐらつきは殆ど感じられなかった。


 そのままゆっくりと階段を登り、アーチ型をした木製の扉に手をかける。どうやら錠はされていないようで、木が軋む音と、錆びついた金属の微かな音を立てながら、扉は力をかけるままに、何の抵抗もなく開いてくれた。


 そのことにほっと胸を撫で下ろしながら、扉の奥に広がる青白い薄闇へと視線を向ける。真っ直ぐに伸びる身廊、在りし日の姿を留めたまま整然と並ぶ長椅子、精巧な彫り込みのされた付け柱や柱頭、天井から吊り下げられた重厚なシャンデリア。月光の射し込むランセット窓に囲まれたアプスの中央には、朽ちつつもなお荘厳さを湛えた祭壇が据えられ、その上には主神・ルシエルの白い像が静かに佇んでいる。嘗てこの場所が、人々の祈りで満たされていたことを物語るように。


 念の為周囲を見回し、誰もいないことを確認してから、礼拝堂の中へそっと足を踏み入れる。石造りのせいか、肌を撫でる空気は、外よりも随分と冷たい。けれど、何故だか不思議と、誰にも拒まれない場所に漸く辿り着けたような気がした。人々からすっかり忘れ去られ、悲しいほど廃れてしまった場所だというのに。寧ろ、だからなのかもしれない、と思った。土埃で汚れた、大理石の身廊を歩みながら。どこへ行っても憎悪に晒され、蔑まれてばかりいたからこそ、私も全ての人々の中から忘れ去られてしまいたかった。ここと同じように。この世に存在しないも等しい、過去のものへとなりたかった。そんなことは起こり得ないと、分かっていても。


 ひとまず、無断で寝泊まりすることへの詫びを捧げようと、祭壇の前にそっと跪く。骨の髄まで染みついた、慣れきった所作で。胸の前で両手を組み、静かに瞼を閉じて、ゆっくりと頭を垂れる。


 礼拝から遠ざかっていたというのに、祈りの言葉は驚くほど滑らかに、自然と唇からこぼれ落ちた。考えたり、思い浮かべたりするより先に。まるで身体の底から湧き上がるように。その感覚の懐かしさに、思わず胸の奥がつんと痛む。私にとって祈りは、ずっと“拠り所”だった。いつどんな時も。何があっても。けれど、“魔女”の烙印を押された今の私が、尊き神に祈りを捧げるなど、きっと許されることではない。


 そもそも私は、こうして祈りを捧げている神に見放された存在なのだ。そんな人間に、主神・ルシエルも祈られたくはないだろう。

 そう胸の内で苦笑をこぼしながら瞼を上げ、ひと呼吸の間を置いてから、ゆるやかに立ち上がる。今夜の寝床は、祭壇に一番近い、最前列の長椅子に決めた。埃を被ってはいるけれど、目立った傷みはなく、実際に腰を下ろしてみても軋みは感じられない。もちろん、柔らかさなんて少しもないし、枕も毛布もないけれど。野宿が当たり前になった最近では、このずっしりと硬い木製の長椅子でさえ、上等なベッド代わりなのだった。


 革張りの鞄を床に置き、中から取り出したショールを枕代わりにして、長椅子にそっと身を横たえる。見上げた先には、小ぶりなシャンデリアと、繊細な装飾が施された幾本ものリブ。乗合馬車への乗車を拒まれ、一日中歩き続けていたせいか、忽ち泥のような疲労が全身にのしかかってくる。どうせ明日もまた、あてもなく歩き続けなければいけないのだろう。明日はどこへ行こう。どこへ行けば良いのだろう――。


 鉛のように重たい右腕を、それでもゆるゆると持ち上げ、窓から淡く射し込む月明かりに、包帯の巻かれた手の甲を翳す。鋭く尖った八芒星と、優美に開かれた片翼、それらを囲むようにして描かれた繊細な円環。しっとりと照らされた麻布の下には、今もその紋様が、くっきりと刻まれている。――全てを奪われたあの日に見た、アリス嬢の右手に浮かぶそれと全く同じ聖紋が。

 神への祈りと等しく――いや、もっとそれ以上に、この紋様は私にとってかけがえのないものだった。それなのに、まさかそれが、“罪人の証”になってしまうだなんて。


 そっと下ろした右手を額にあて、暗い影の中で、ゆっくりと目を閉じる。静謐な空気に包まれた堂内には、物音ひとつ聞こえない。分厚い壁に阻まれているせいか、夜風の揺らす葉擦れの音すら、少しも。あまりにも静かなので、まるで棺の中にでもいるようだ、と思った。地面深くに埋められた、音もなく冷たい、忘れ去られた空間に。


 だから――完全に油断してしまっていた。気付くことが、出来なかった。いつもはもっと、眠りに落ちる間際まで神経を尖らせているというのに。警戒を解いてはいけないと、身に沁みて分かっていたはずなのに。


「――こんなところで何をしている」

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