36
「――戦争?」
擦り傷用の軟膏を買いに来た女性の一言を、ロアンさんが驚きを滲ませた声で繰り返す。私は来客用のティーカップに澄んだ赤褐色のお茶を注ぎながら、ふたりの会話に耳を傾ける。戦、隣国、兵士、難民――。耳に飛び込んでくる単語のひとつひとつが、じわじわと背筋に重みを加えていく。気づけば、顔がこわばっていた。意識の半分は手元のポットに置いたままでも、それらの単語の連なりがひどく深刻なものであるのは容易に感じ取れるせいで。
戦の火種自体は、ずっと前から燻っていた。アストレア王国の近隣に位置する国々の間に。もう十数年も――国によっては数十年も――昔から。特に、南に隣接するヴェルディア王国の国王が病に臥せ、王弟が実権を握るようになってからというもの、ひりついた緊張感は一気に高まったように思う。いつ火蓋が切って落とされてもおかしくはない――そんな空気が、宮廷にも王都にも漂っていた。この半年ほどは、顕著に。
しかし、それがよりによって今だなんて――。ティーカップをのせたトレイをそっと持ち上げ、私は踵を返して、ふたりのいる待合室兼客間に足を踏み入れる。戦争自体に、アストレア王国は直接関わってはいないけれど。だからといって、いつまでも安全だとは限らない。戦況次第では、いつ巻き込まれるか分かったものではないのだから。女性の話によれば、国境付近には既に大量の難民が押し寄せ始めているという。
けれども、今のアストレア王国に、彼らを受け入れるだけの余裕があるとは思えなかった。
王都では今、ルクス熱以外にも、質の悪い伝染病が流行っている。しかもその波は、王都だけに留まらず、近郊の町や村にまで、じわじわと魔の手を伸ばしはじめているという。厄介なのは、これといった特効薬が存在せず、治療といえばせいぜい、苦しみを和らげる対処療法しかないことだ。感染拡大を防ごうと、どの町村も食い止めに必死になっているそうだけれど、未だうまくいったところはないようで、病は静かに、でも確実に、王国全土を侵食しつつある。ノルナ村は王都から遠く離れた辺境にあるとはいえ、ここまで及ぶのも、もはや時間の問題だろう――そんな話を、つい昨日、ロアンさんと交わしたばかりだった。
「悪いことほど、どうしてこうも立て続けに起きるんでしょうね……」
ロアンさんの憂いを帯びた呟きを耳にしながら、ティーカップをひとつ、ソファに腰掛けた女性の前へそっと差し出す。そうしながら、私の脳裏を過ったのは、戦場と化した隣国の様子でも、難民が押し寄せているという国境付近の様子でも、或いは、新たな伝染病に苦しめられている王都の様子でもなく、ルシエル様の青白い横顔だった。いつにも増して血色のない肌、ぼうっとした眼差し、常に気怠げな佇まい、今にも消えてしまいそうな儚く危うげな気配――。ほんの一瞬だったけれど、その僅かな間でも頭に濃く焼き付くほどに、それは強烈な鮮明さで私を襲った。漠然とした不安と共に。貫かれた心臓がどくりと跳ね、まるでそれが伝播したみたいに、トレイを握る手が微かに震える。
悪いことほど、どうしてこうも立て続けに起こるのだろう。戦も、伝染病も、何も関係がなければ良いのだけれど。ルシエル様の異変とは、何も。それらは全く繋がりのない、ただ偶然連鎖しただけの、別々の“悪いこと”であってほしい。どうか何も、何も――。
***
「――このままならば、殺すしかないだろう」
傍らから降ってきた声に、随分きっぱりと言い切るものだな、と、ベルは半ば呆れ、半ば感心する。彼女のそれは、あまりにも迷いのない発言だった。普通は躊躇するだろうに。意識がないとはいえ、それでもルシエルの前では、なおのこと。
思えば、あの時も――。いつにも増して色の白いかんばせを見つめながら、ベルは胸の内で苦笑する。思えばあの時も、彼女は――アスだけは、一度たりとも迷いを見せなかった。いっそ冷酷なまでの冷静さで。本来はとても慈悲深い、誰よりも愛に満ちた女神であるはずなのに。それでも、あの時も彼女は、最初から一貫していた。――ルシエルの為なら、“あの子”を殺しても構わない、と。さっきと同じように、彼女はきっぱりと言い切ったものだ。
「“聖女”とは、元来そういうもののはずだ」
隣に佇む彼女を、ベルはちらと横目で一瞥し、そっと瞼を伏せる。やわらかい小さな手、背中を必死によじ登る姿、明るく無邪気な笑顔、耳に心地よく響いたやさしい声――。今も身体のそこここに、それらは色濃く残っている。まるで昨日見たもの、聞いたもののような、生々しいほどの鮮やかさで。ルシエル様、と呼びかける、その声に滲んだ深い愛情までも、何もかも。
“聖女”がどういう存在であるのかなんて、そんなことは言われなくても分かっている。分かっているからこそ、躊躇うのだ。あの時も――そして今も。
「……馬鹿だよなあ」
ぽつりとそう漏らしながら、ベルはゆっくりと瞼を持ち上げる。アスのように、少しの迷いなく割り切ることが出来たなら、どんなに良いだろう。どんなに楽だろう。血色のない、明らかに異変を来した友の顔をじっと見つめながら、馬鹿だよなあ、とベルはもう一度、囁くように呟く。脳裏で、“あの子”が笑っている。楽しそうに、嬉しそうに、幸せそうに――。
「分かっていながら……何で自分から印を与えちゃうかなあ、お前は」




