33
「――仕事、ですか」
白磁のカップをそっと持ち上げながら、ロアンさんは眼鏡の奥の大きな目をぱちりと瞬かせた。まるで独り言のように呟かれたその一言に、悪意も何もないことは分かっているのだけれど。それでも、驚きだけが純粋に滲んだ眼差しに見つめられていると、どうしても居た堪れない気がして、私は彼の視線から逃げるように顔を俯けた。手元には、まだ湯気のたつあたたかいお茶の注がれた白いカップが置かれている。その脇には、小皿に盛られた数枚のビスコッティと、私が手土産で持ってきた一口サイズのチェリーパイ。
王都を追われてからノルナ村に辿り着くまでの道中、食べ物を買うことも、宿屋に泊まることも満足に出来ず、お金を使う機会は善くも悪くも殆どなかった。だからこそ、決して多くはない貯金が減ることもなかった。それはある意味で、節約が出来ていたともいえる。少ない貯金を極力減らすことがなかったのは、寧ろ良かったのかもしれない。
しかし、ごく普通に食べ物や日用品を購入出来るようになった今、当たり前だけれど、それだけ出費も生まれるということだ。貯金は少しずつ、でも確実に額を減らしていっている。聖女でなければ聖職者でもない私に、聖神院から給金が支払われることは、もちろんない。財布の中身が底をつくまでには、まだ幾分の余裕はあるけれど。だからといって、いつまでもそれを頼りに出来ないのは明白だった。
「確かに、生きていく上でお金は欠かせませんから、働き口は必要ですね」
ロアンさんはそう言って、小さく息を吐き、カップの薄い縁に口をつけてお茶を一口啜る。それから丁寧にカップをソーサーの上に戻し、彼は深く考え込むように、白い眉間に少しだけ皺を寄せた。どうやら真剣に働き口について思案してくれているようで、真摯なその姿に、突然申し訳無さが込み上げ、私は慌てて顔を左右に振る。あたふたと、意味のない身振り手振りまでつけて。
「あ、あの、ちょっとした相談といいますか、他愛もない話題でしかないといいますか……ただそれだけなので、その……」
王都など、ある程度の規模の街には、職を求める人々の為の支援組織がある。主に、求職者と、働き手を求めるギルドなどとの仲介役を務める組織だ。もう少し小さな町にはそういった組織はないけれど、代わりに、求人情報の張り紙だけが掲示された求人所のようなものがある。けれど、人数の少ない――つまり、求職者も求人も少ない――場所にはそういったものはなく、つまり小規模なノルナ村には、働き場所を探す手立てがないのだった。
このことを誰かに相談しようと決めた時、真っ先に思い浮かんだのは、ヴィオラさんではなくロアンさんだった。もちろん、ヴィオラさんやマルセルさんが頼りにならないというわけではない。寧ろあのふたりほど情に厚く、親身になってくれる人たちは滅多にいないと思う。
けれど――だからこそ、今回は少し違った。お金のこと、今後の生活のこと。そういった現実的な話をするには、感情よりも、まずは落ち着いた視点が必要だと思ったのだ。ロアンさんは、いつだって静かに話を聞いてくれる。感情に引き摺られず、けれど冷たくはなく、物事をきちんと筋道立てて考えてくれるような人だ。私の話を、“ひとりの人間の悩み”として聞いてくれる、そんな安心感があった。
それに、ヴィオラさんやマルセルさんにはどうしても、私に対して“息子の命の恩人”という強い想いがある。それはこれまでの遣り取りの随所で、ひしひしと感じられた。それを、有り難いとか嬉しいとか、思わないわけではないのだけれど。だからこそ、そうした感情に左右されずに、率直に意見をくれる人に、まずは相談したかった。
「この村は小さいですから、商店などは基本的に代々の家族経営が多いですし、働き手に困っているというのも聞きません」
ちらりと視線を上げると、ロアンさんはハンドルに指を絡めたままのカップをゆらゆらと弄んでいた。とても真剣な面持ちで。やわらかな丸い瞳で、赤褐色の水面をじっと見つめながら。
落ち着いた視野を持ち、且つ、物事をきちんと筋道立てて考えてくれる人だからこそ――。私は気不味さを誤魔化すように、意味もなく室内に視線を彷徨わせながら思う。そういう人だからこそ、逆に相談しない方が、もしかしたら良かったのかもしれない、と。申し訳無さがむくむくと膨れ上がってゆくような気がして、私は身を竦める。ヴィオラさんやマルセルさんに相談するべきだっただろうか。それとも、誰にも相談せずに、ひとりでどうにかするべきだっただろうか。
そんなことをつらつらと考えながら、白い壁に沿って並べられた家具や調度品をひとつずつ、見るともなく眺める。新しいものから古いものまで、様々な書物がびっしりと詰め込まれた書棚。飴色の小さなゲリドンと、その上に飾られた青いデルフィニウム。窓に一番近いところには小ぶりなチェストが置かれ、幾つかの小物が置かれている。白いオブジェや、丸型の時計、溶けかけの蝋燭が立てられた燭台――。
それらに混じって並べられた写真立てに、私はぴたりと視線をとめる。正確には、四角く簡素な作りをしたそれに入れられた、一枚の写真に。そこには、あどけない笑みを浮かべた小さな子どもと、彼に寄り添うようにして腰を屈めやさしく微笑む男性が写っていた。
小さな子どもは、目元や全体的な雰囲気から、きっと幼少期のロアンさんだろう。今も昔の面影が、微かに残っている。男性の方は、二十代後半か三十代前半くらいに見えるけれど、ロアンさんとは全く似ていないので、父や兄ではないのかもしれない。背景は建物が並んでいるだけで、どこであるのかは分からないけれど。しかし、“瞬間”を切り取るようにして紙に写す技術はその特殊性から、扱う場所が限定されている。故に、恐らくは王都のどこかで――。
「……リディアさん」
ふいに名を呼ばれ、私は思わずびくりと肩を震わせた。驚きに目を見開いたまま、私は慌ててロアンさんへ視線を戻す。真向かいに腰掛ける彼と、途端に目が合った。真っ直ぐにこちらを見つめている、やわらかくも真剣な、澄んだ青緑色の瞳。
「ここで働くというのは、どうですか」
「……えっ?」
ぽかんと口が開いたまま、間の抜けた声が漏れた。思ってもいなかった提案を、すぐに呑み込むことが出来なくて。やっとその言葉の意味を理解するまでに、どうしても少しだけ時間が要った。
“ここ”というのは、もちろん、今私たちがいるこの診療所のことだろう。ロアンさんの営む診療所。つまり“ここで働く”というのは、ロアンさんの元で助手のような形で働く、ということだ。
けれど、それはあまりにも唐突で、意外すぎるものだった。理解が追いついてもなお、言葉がうまく出てこない。追いつくので精一杯で、思考がそこでとまってしまったかのようだった。
そんな私を、ロアンさんは静かに見つめたまま、少しだけ眉尻を下げて微笑んだ。焦りでも苛立ちでもなく、ただ、相手の戸惑いを受け止めるような、やさしい微笑み。
「もちろん、リディアさんが良ければの話ですけど」
そう言って、にっこりと笑みを深めた彼の声音が、あまりにもあたたかくて。心の奥に染み込んでくる春風のようなそれに、思わず胸がぎゅっと締め付けられた。悲しいからでも苦しいからでもなく、彼のやさしさが、あまりにも嬉しすぎて。




