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私を裁いたその口で、今さら赦しを乞うのですか?  作者: 榛乃


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 ――じゃあ、ルシエル様は、ずっと知らぬまま生きてこられたのですね。


 そう言って、彼女は切なげに目を伏せた。純白の花をたわわに咲かせた、クチナシの木の傍で。今にも泣き出してしまいそうに表情を歪めながら。何故彼女がそんな顔をするのか、ルシエルにはまるで理解出来なかった。知らぬまま生きてきたのは、彼女ではないというのに。


 ――だから私が初めて貴方様に触れた時、あんなにも驚いていたのですね。


 淡く色づいた指先を、ぽってりと肉厚な花弁にやさしく触れさせながら、彼女はそっと顔を近づける。甘く上品な、濃厚な香りを肺いっぱいに吸い込んで、身体中でそれを堪能しようとするように。何度も呼吸を繰り返し、やがてこわばっていた頬が緩み、彼女はふっと、やわらかな微笑を浮かべた。真っ白い花を、愛おしげに見つめながら。

 その横顔に、つい目を奪われてしまったのを、憶えている。まるで清らかなクチナシの花そのもののようだ、と。こんなにも透き通った美しい笑みが、この世に本当に在るのかと、不思議に思ったほどだ。


 ――たとえば子どもの手は、とても小さくて、あたたかくて、ミルクのようなやわらかい匂いがするのですよ。


 それは知っている、と、喉元まで出かかった言葉を呑み込み、ルシエルは生い茂る艷やかな緑の合間に咲く白い花々へと目を移す。大聖堂の裏に広がる庭園に植えられたこのクチナシは、彼女がこの地へ来た時に、それを記念して植樹したものだという。当初は小さな苗木だったそれは、今やすっかり大きく立派に育ち、毎年初夏から盛夏にかけて、無垢な白い花を咲かせている。彼女の、穢れをまるで知らぬ心がそのまま実ったような、清麗な花をたっぷりと。


 ――お年寄りの手は、少しひんやりしてて、皺が寄っているのに、でも皮膚が滑らかでもあって、不思議な感じがします。


 クチナシの花から顔を離し、彼女はくるりと軽やかに振り向いて、楽しげにほどけた目でルシエルを見上げる。くっきりとした二重の、丸く大きなふたつの目。陽光を浴びていつもより淡く色付いた瞳に、思わず吸い寄せられるように視線を落とす。すると彼女は、ふふっと穏やかに微笑み、ルシエルの頬へそっと両手をのばした。やわらかな靴におさまった、慎ましやかな踵を持ち上げて。ほっそりとした長い指、透き通るような白く滑らかな肌、緩く弧を描くふっくらとした桃色の唇、風に揺れる艷やかな長い髪の毛。


 まるで包み込むように、ルシエルの頬に両手を添えた彼女は、親指の腹でそうっと肌を撫でた。皮膚の感触を楽しむように、或いは、そこから伝わるぬくもりを慈しむように。


 ――そしてこれが、私の手です。みんなからは、子どもみたいにあったかいって言われるんですけど……どうです? 分かりますか?


 確かに彼女の手は、昔から――脚や背中をよじ登ろうとしていた子どもの時分から――あたたかかったと思う。大地に燦々と降り注ぐ太陽の光のように。けれど、そのぬくもりが他の人間とどう違うのか、ルシエルには比べる術がなかった。吹き抜ける風の心地よさや、澄んだ小川の水の冷たさや、枝がしなるほど実った果物の少しひんやりとした果皮の感触とは違って。


 ――昔と変わらん。


 そう答えると、彼女は意外だと言いたげに目を見開かせ、それからくすくすと声をこぼして笑った。


 ――憶えていて下さったんですね。子どもの頃の、私の手。


 彼女は感情がとても豊かだ、と、幸福そうに垂れた目尻を見つめながら、ルシエルはつくづく思う。感情がとても豊かで、それがそのまま素直に表に出てくる。偽るだとか、隠すだとか、そんなことは一切せずに。嬉しい時は心底嬉しそうな、悲しい時にはひどく悲しそうな顔をする。純粋すぎるほど。それは美徳なことではあるが、しかし一方で、危ういものでもあった。善くも悪くも、と、だからベルは常々そう口にする。善くも悪くも純真すぎるんだよ、と。――いつか足元を掬われかねない、とも。


 ――ルシエル様。


 彼女のやさしい声音を鼓膜で受け止めながら、ルシエルはそっと目を伏せ、頬を包むぬくもりに意識を向ける。たったひとつだけしか知らない、今も昔も変わらぬぬくもりへ。瞼の裏に隠れていても、彼女がふっと、花が綻ぶように笑みを深めたのが、気配で分かった。クチナシの上品な香りが、ふわりと鼻先を掠めてゆく。彼女がよく身につけている、清潔であたたかみのある、甘美な香りとともに。


 ――このぬくもりだけは、どうか、憶えていてくださいませんか。……私がいなくなっても、ずっと。



***



 凪いだ水面に、ぽたりと雫が落ちる。淡く広がった波紋が、鏡のように映っていた景色を静かに揺らす。その奥で、懐かしい顔が、微かに笑ったような気がした。けれど、輪郭はすぐに朧げに崩れ、穏やかな光とともに水の底へ溶け、儚く消えてゆく。それが何であったのか、もはや判然としないほど、澄んだ水と渾然一体となって、底の見えない奥深くへと。


 そこでふいに意識が浮上し、ルシエルは眠気の残った重たい瞼をゆるりと持ち上げる。視界に飛び込んできたのは、仄白い光に満ちた世界だった。その世界が、棲み慣れた小部屋であることをぼんやりと認識しながら、ルシエルはそっと息を吐く。どうやら疾うに真昼であるらしく、きらきらと瞬きながら差し込む陽光がひどく眩しい。思わず目を細め、ルシエルはのろりと動かした左手を目元に翳して、光を遮った。それでも、指の僅かな隙間から、黄金色の光がちらちらとこぼれてくる。見事な快晴であるのは、窓の外を見ずとも分かった。それを喜んでいるかのように、小鳥が数羽、重なり合うように囀っている。石壁を渡る風、蔦の葉が立てるかさかさとした葉擦れの音――。


 身体のそこここに、今もまだ夢の名残が揺蕩っているような気がする。クチナシの濃厚な甘い香りと、子どものようにあたたかな掌の感触とともに。そう思うと、身を起こすのがひどく億劫だった。頭を働かせることも、瞬きをすることも、呼吸をすることも、何もかも。

 あのクチナシの木は、今も大聖堂裏の庭園に植わっているのだろうか。あの頃と変わらぬ清廉な白い花をたっぷり咲かせて。――他の全ては疾うに、焔の中で灰と化してしまったけれど。あの花だけは今も、あそこで生き続けているのだろうか。


 たとえ今も健やかに生きているとして、それが何だというのだろう。鮮明に蘇ろうとする無邪気な笑顔から逃げるように、深く吸い込んだ息を細く長く吐き出しながら、ルシエルはゆっくりと身体を起こす。乱れた前髪を掻き上げながら窓の外へ目を向けると、空には突き抜けるように澄んだ青色が広がっていた。雲ひとつない蒼穹を、茶色い羽をした小さな鳥が飛んでゆく。


 知った喜びと、知ってしまったが故の苦しみ――。それらは表裏一体だということを、あの善くも悪くも純粋な彼女は知っていたのだろうか。知っていて、憶えていてほしいと言ったのだろうか。それがどんなに酷なことであるかを、分かっていながら。仮にそうだったとしても、彼女を恨むことなど出来るはずがないのだけれど。


 扉の向こう側で何かが動く気配がして、ルシエルは小さく溜息をこぼしながら、ほどいた三つ編みに、そっとやさしく指を通す。嘗て彼女が、よくそうしてくれていたように。

 堂に誰がいるのかなんて、確かめるまでもない。聞き慣れたふたつの声が、何か言葉を交わしているのを空気の震えから感じ取りながら、ルシエルはそっと目を伏せる。瞼の裏の暗闇で、あのぽってりとした純白の花が、笑うように揺れていた。


 ――ルシエル様の髪の毛を編むのは、私の特権ですね!

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