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澄んだ赤褐色のお茶が注がれた白磁のカップを、そっと両手で包み込む。ふわりと薫る柑橘の香りが、朝の空気にとてもよく合う。どこか懐かしさを感じさせる、ほんのりと甘く、乾いた陽だまりのような匂い。
その香りを楽しみながら一口啜ると、忽ち口内に、茶葉のまろやかな深みと、オレンジピールの爽やかな甘酸っぱさが溶け合いながら、じんわりと広がってゆく。飲み込んだ後も、喉の奥や肺の辺りにまで果実の明るい香りが淡く残っている気がして、つい頬が緩んだ。こんなに美味しいお茶を飲んだのは、いったいいつぶりだろう。ヴィオラさんの作る料理はどれも、頬が落ちそうになるほど絶品だったけれど、どうやら彼女は、お茶を淹れるのも得意らしい。
「昨日はありがとう。来てくれて嬉しかったわ」
先に焼き上がったパンをバスケットに移し終え、自分用に淹れたお茶のカップを手に、ヴィオラさんはテーブルの向かいの椅子にゆったりと腰掛ける。こんがりと程よく焼き色のついた、薄茶色の丸いパン。湯気の立つそれからは、焼きたて特有の香ばしい匂いが立ち上り、空気の中をじわじわと満たしていく。その匂いに、思わずこくりと唾を呑んでしまいそうになって、私は慌てて視線を逸らした。食い意地が張っていると思われたくなくて、あくまで何でもないふうを装いながら、もう一度、そっとお茶に唇をつける。
それにしても、焼き立ての匂いというのはどうしてこうも、人の食欲を刺激するのだろう。
「……本当は、お金とかの方が良いと思ったんだけれど」
そんな私を見つめながら、同じようにカップを両手で包み込んだヴィオラさんが、やわらかく微笑む。それはひとりの“女性”というより、まるでひとりの“母親”として浮かべられたような、とても穏やかであたたかな笑み。なんとなくだけれど、その表情は、アレク君を見つめていた時の顔にどこか似ている気がした。たとえば昨日、料理を口いっぱいに詰め込み、リスのように頬を膨らませた彼を見守っていた時や、眠たげに目を擦る彼を寝室へ連れて行こうとしていた時に見せた、あのやさしい笑みに。
「貴女があまりにも痩せていたから、これは食べさせなきゃ、と思って。……母性本能というのかしらね」
そう言って、彼女はふふっと笑った。開け放たれた窓から差し込む葉漏れ日を、白く滑らかな頬にやわらかく受けながら。
きっと彼女に、他意はないのだろうけれど。それでも、無意識に自分の見窄らしい格好――長旅で色褪せた服、土埃で白く汚れた靴、そして王都を出た時よりも痩せた身体――を頭の中に思い浮かべ、そのあまりの情けなさに恥じ入る。嘗ては洗いたての清潔な服に袖を通し、髪の毛もきちんと手入れをして丁寧に結い、時には装飾品を身につけることもあった。ほんのひと月も経っていないはずなのに、それらはもう、随分遠い昔のことのように思える。
「すみません……その、なんというか……お見苦しいところを……」
「あら、気にしなくて良いのよ。それだけ大変な旅だった、ってことでしょうから」
僅かに目を伏せながらお茶を啜り、カップの縁からゆっくりと唇を離して、ヴィオラさんは苦笑を滲ませた吐息を小さくこぼす。
「……たくさん酷い目に遭ったのでしょうね、きっと」
ぽつりと、まるで独り言のようにこぼされたその言葉に、胸の奥がじんとする。王都を追われてからこれまでの境遇について、同情をしてくれる人なんてひとりもいなかった。何があろうと、それらは全て、“魔女だから”の一言で片付けられてしまう。魔女だからしかたない。魔女だから当然だ。憎悪を向けられることも、罵声を浴びせられることも、暴力を振るわれそうになることも、ろくに食事を摂ることも宿屋で満足に眠ることが出来ないことも、何もかも全部。
「貴女は、とても強い子なのね。強くて、とても優しい子」
ふわりと口元を綻ばせたヴィオラさんを、私は気不味さから直視することが出来ずに、手元のカップへそっと視線を落とす。澄んだ赤褐色の水面に、薄っすらと、朝陽の小さな粒が浮かんでいる。不安げに揺れる瞳とともに。
「……いいえ。私はそんな人間では、ありません」
幾つもの落胆と、幾つもの絶望と、幾つもの諦念があった。これまでの日々の中に、それらは山のように、ずっしりと積み重なっている。王都を追われて以降の私は、決して純粋な人間ではなかった。そんな清らかさとはまるで程遠い、心身ともに薄汚れた人間だったと思う。蔑んでくる人々を、恨まなかったわけでは決してない。怒りを抱かなかったわけでも、悔しさを覚えなかったわけでも、もちろんない。時には死を望みさえもした。いっそ処刑してくれれば良かったのに、と、そう思ったことは一度や二度だけではなかった。
ただいつからかそれらを、“諦める”ようになってしまっていたという、ただそれだけのこと。そうしなければやっていけなかったから。だから私は、ヴィオラさんの言うような、強い人間でも、優しい人間でもない。
「そんなことないわ」
私の考えを、まるで見透かしているみたいな声音で、ヴィオラさんはやさしくもきっぱりと否定する。静かに視線を上げると、こちらを真っ直ぐに見つめる彼女と、目が合った。アレク君とお揃いの、とろりとした甘い蜂蜜のような琥珀色の瞳。
「だって貴女は、私たちを……あの子を、助けてくれたじゃない。色んな目に遭って、人間を心底嫌ったり憎んだりしていてもおかしくはないのに。それでも貴女は、あの子に手を差し伸べてくれたでしょう?」
そう言って、ふっと目を細めると、ヴィオラさんは静かに持ち上げたカップを口元へと運ぶ。その悠然とした様子を、私はただじっと眺めていた。頭の半分をぼうっとさせ、もう半分で彼女の言葉を何度も何度も繰り返しながら。
アレク君を助けたい、と思ったのは本当だ。でも、マルセルさんの悲痛な怒声をぶつけられればぶつけられるほど、もういい、という思いが胸に湧いたのもまた事実だった。あの時私は、全てを諦め、投げ捨て、逃げようとしていた。ロアンさんもヴィオラさんも、そしてルクス熱に苦しむアレク君を、みんな見捨てて。どこへ行こうが、誰と出会おうが、何も変わらない。そう思っていた。だから私は、決して正しい人間なんかではない。
けれど、それでもあの時、私が逃げなかったのは――。カップを包む手にそっと力をこめながら、私は脳裏を過ってゆくい幾つもの記憶を噛み締めるように、ゆっくりと瞬く。荒れた石畳、月の青白い光、開かれた扉から漏れるあたたかな灯り、肌を撫でた穏やかな風。
――悪魔だろうが魔女だろうが、私は幾らだって魂を売ってやるわ!
あの叫びを、認められただとか、信じてくれただとか言うのは、おかしいのかもしれないけれど。でも、あの時ヴィオラさんがそう言ってくれなければ。痛々しくも純粋で真剣な目で見つめられなければ。私は病に苦しむ子どもがいると分かっていながら、その子の生命が危ないと分かっていながら、いつも通りの“諦め”で、彼を見捨てて逃げていただろう。彼女の、母親としての強さと懸命さがなければ。
そして――。今ここにはいない“彼”の、美しい横顔を思い出しながら、私はあたたかなお茶を一口啜る。ヴィオラさんの縋りは、確かに最後の決め手のようなものだったかもしれない。けれど、そもそも彼女たちに声をかけるべきか否か迷っている時に、そんな私の背中を押してくれたのは、紛れもなくルシエル様だった。彼はあの場にいたわけではないし、何か言葉をくれたわけでもないけれど。それでも、嘗て彼のもたらしてくれた救いが、彼の与えてくれた言葉が、ふいに視界を横切ったような気がした淡いラベンダーグレイが、私に勇気を与えてくれた。
「もし……もし、私がヴィオラさんの仰るような人間なのだとしたら。それは――」
握っていたカップをテーブルの上に置き、真向かいに腰掛けるヴィオラさんの、淡く輝くような琥珀の瞳を真っ直ぐに見つめながら、私はやわらかく微笑んだ。
「たったひとりでも、認めてくれる人がいたから。たったひとりでも、信じてくれる人がいたから。……だから私は、強くなれたのかもしれません」
国中の誰にも理解されなくても。大勢に疎まれ、蔑まれたとしても――。
それでもたった一人、認めてくれる人がいれば。信じてくれる人がいれば。理解してくれる人がいれば。きっと人は、立ち上がれるのかもしれない。




