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私を裁いたその口で、今さら赦しを乞うのですか?  作者: 榛乃


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24

 村へ戻っていくロアンさんの背を見送り、それから私は、井戸から汲み上げたばかりの冷たい水で顔を洗った。眠気を覚ます為ではなく、さざなみのたった心を落ち着かせる為に。朝陽に照らされた水面に、小さな光の粒を幾つも浮かべた水はとても清らかで気持ちが良く、肌に浴びる度、身体の芯がぴんと伸びるような気がした。透徹な冷たさで、頭の中がすうっと晴れ渡るようにも。


 新鮮な空気を肺いっぱいに深く吸い込み、それから私は、すぐに礼拝堂の中へと戻った。疾うに飽いて、どこかへ行ってしまったというルシエル様を探して。彼の居場所としてまず思い浮かんだのが、側廊の先のあの小部屋だったから。


 けれども部屋の中に、彼の姿はなかった。ベイウィンドウの下のベッドにも、壁際の机にも、はたまた中身が空っぽの本棚の前にも。窓から差し込む白く眩い光が満ちたそこには、朝特有の透き通った静けさだけが漂っていて、誰の気配も感じられない。念の為にキッチンや物置も覗いてみたけれど、もちろんそんなところにルシエル様がいるはずもなく――。


 こういう時、いったいどうすればいいのだろう。そう途方に暮れながら身廊の只中に突っ立ち、祭壇の上の主神像をそっと見上げる。そもそも相手は神だ。いくら“視える”からといって、人間のように常にその姿が“視える”わけでは決してない。これまでは、ルシエル様が自らの意思で姿を現してくれていたに過ぎず、だから、彼の姿を自分の意思で“視たい”時にどうすれ良いのか、今の私にはまるで分からなかった。ただ愚直に探し回ること以外は、何も。


 取り敢えず、出来ることから始めよう。そう思い直し、私は堂の外へ出ると、蔦の蔓延った白い壁づたいに、時計回りに礼拝堂を一周する。立ち込める土草の匂い、風に揺れる木々の枝葉、どこからともなく聞こえる鳥の囀り。

 何も植わっていない煉瓦造りの花壇を通り過ぎ、建物の後ろへと張り出すアプスの裏側を抜け、顔を洗った名残で土の濡れた井戸の傍を横切り――やがて入口の石段まで戻ってきた私は、がっくりと肩を落としながら、重たい溜息を深々と吐き出す。期待をしていたわけではないけれど。それでも、 ルシエル様の姿がどこにもなかったことに、落胆せずにはいられなかった。


 これまで通り、ルシエル様が自ら現れてくれるのを、ただ待つだけしかないのだろうか。そっと持ち上げた右手を青空に翳し、甲に浮かんだ聖紋を見つめながら思う。金色だった線は、今やすっかり深紫色に染まっている。ルシエル様の瞳の色と同じ、アメシストを思わせるような美しい色。例えばこの聖紋が再び輝いて、彼の居場所を教えてくれたらどんなに良いだろう。そんな力が“聖女”に備わっているのかは、分からないけれど。でも、“神と聖女はふたりでひとつ”と、ベル様は言っていた。“ふたりでひとつ”なら、相手の居所を感じ取ることは容易に出来そうなものだけれど。もしかしたら、ただ私にその力がないだけなのかもしれない。


 どうしたものかと考え倦ねながら、深紫色の聖紋をじっと見上げていると、翳した手の向こう側を、一羽の鳥が横切ってゆくのが見えた。空と同じ青色の翼をした、雀ほどの大きさの小さな鳥。

 何となく気になって、私は手の甲から逸らした視線を、鳥の飛び去っていった方へと向ける。そこはただ木々が植わっているだけで、他には何もない。道と呼べるようなものも、人影のようなものも、何も。


 けれど、何故だか無性に、その鳥の後を追いたい衝動に駆られた。引き寄せられるような、導かれるような。ただの気の所為かもしれないけれど。それでも、どうにも抗うことが出来ずに、私はゆっくりと腰を上げた。少し分け入って、何もなかったら戻ってくれば良い。そう自分に言い聞かせ、すっかり見えなくなった鳥の残影を頼りに、木立の間へと足を踏み入れる。


 少しずつ奥へ入ってゆく間、身体も頭も、不思議な感覚にとらわれていた。そんなふうな気がする、と言った方が正しいのかもしれないけれど。手の甲に痛みが走るわけでも、熱が帯びるわけでもなく、或いは胸がざわついたり、背筋を冷たいなにかが滑り落ちるわけでもない。それなのに、自分は何か不思議な感覚にとらわれている、という気がしてならなかった。輪郭のぼやけて曖昧な感覚に。


 暫く進むと視界が開け、小さな木々の切れ間に出た時、私の目はすぐに一本の樹のもとへと吸い寄せられた。


 すっと真っ直ぐに伸びた長躯、透き通るように白くなめらかな肌、風にゆるく靡く淡いラベンダーグレイの髪の毛。ほっそりとした、けれども骨の張った男らしい指がそっと枝へ伸び、たわわに実った赤く小さな果実を摘んで房からやさしく引き離す。彼はそれをゆったりと口元へ運び、薄く開いた形の良い唇の間へ入れた。噛むというより、まるでやわらかな唇で挟むように。


 たったそれだけの、何でもない仕草なのに。私は目が釘付けになったまま、ごくりと唾を呑む。ただ赤く熟れた小さな果実を食べようとしているだけなのに。どうしてこんなにも、艶めかしく見えるのだろう。あまりにも官能的で、なんだかいけないものを見てしまっているような、羞恥心や背徳感がぞっと押し寄せてくる。それなのに、今まさに唇の奥へと果実を滑り込ませようとする彼のその横顔から、私は少しも視線を逸らすことが出来なかった。嚥下する時に動いた、白くくっきりとした喉仏からも。


「あ、あのっ……!」


 居た堪れなくなり、私は気不味さを誤魔化すように声を張る。けれどその声は、自分でも呆れてしまうほどか細く、そして震えていた。胸の内の動揺が、そのまま声に滲み出てしまったみたいに。

 しかし彼は、そんな私の様子などまるで気に留めたふうもなく、すっと流れるように顔を動かして、静かに私へと目を向けた。朝の光を浴びて淡く輝く深紫色の瞳と、感情の伺えないいつもの淡々とした眼差し。彼の右肩には、あの小さな鳥がとまっていた。青い翼と、白くふわりとした胸毛が特徴的な、愛らしい小鳥。


「まる二日間眠っていたと、ベル様から聞きました。そ、その……ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ございません」


 そう言いながら深々と頭を下げると、足元に白い野花が咲いているのが目に入った。幾つもの小さな蝶形花が丸く寄り添うように集った、可憐なシロツメクサ。


「……べつに。迷惑はしていない」


 おずおずと顔を上げると、ルシエル様の視線は既に私から逸れていた。白い指先が小さな赤い果実を摘み、ゆるやかな所作で、再び口元へと運んでゆく。


 迷惑はしていない、という彼の言葉に、安堵すればいいのかどうか、分からなかった。迷惑でなかったのなら、それはそれで良い。でも、ルシエル様のその言葉は、気遣いだとか遠慮だとかそういうものでは決してないのだと、紡がれた声の冷淡さがありありと物語っていた。迷惑を受けたか否かとかそういう以前に、そもそも彼にとって私のまる二日の眠りなど、所詮どうでもいいことに過ぎないのだ。気にするまでもない、取るに足りない些細な出来事。

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