21
目が覚めると、朝だった。側廊の壁に沿って刳り貫かれた幾つもの窓から、澄んだ朝の光がたっぷりと差し込んでいる。精巧な装飾の施されたリブも、美しい弧を描いたアーチも、それらに支えられた石造りの天井も、堂内を満たすやわらかな光に照らされて仄白い。堂のあちらこちらにはまだ塵や土埃が積もっているというのに、不思議と、空気は軽やかで透き通っていた。早朝というだけで、鼻を通って肺に流れ込む息が、どこか清新に感じられる。夜の余韻を払い、朝陽が世界を染め直してゆくような感覚。きっと外に出れば、もっと爽やかで心地のよい風が漂っているのだろう。一日のうちで最も瑞々しく、生命の息吹を感じさせる、そんな空気が。
ぼんやりとしたまま、見るともなく天井を眺めていた。そこに映える陽の光を、薄っすらと滲んだ陰影を。そうしながら、未だ夢と現の狭間を揺蕩っている意識が完全に晴れるのを、ひたすらに待つ。堂内はとても静かだ。風のざわめきも、鳥の囀りも、もちろん足音さえひとつも聞こえない。眩い世界にたったひとり取り残されたような、そんな不思議な感覚に浸ったまま、私はゆっくりと瞬きを繰り返す。まるでぬるま湯の中に浸かっているようだ、と思う。或いは、陽光に程よくあたためられた真綿に包まれているようだ、と。
けれどやがて、それらは意識の覚醒とともに薄れ、溶けるように消えていった。私は深く吸い込んだ息を細く長く吐き出し、そろそろ起きなければ、と腕を動かす。無意識に。いつも寝起きざまにそうしているのと同じように。――けれど、その瞬間だった。
「痛っ……!」
右肩の辺りに鈍く重たい痛みが走り、思わず情けない声が漏れる。痺れるような激痛が、背中から腰へ、腰から足へと、連鎖するように瞬く間に駆け抜けてゆく。唐突な痛みに、咄嗟に身動ごうとするけれど、全身の節という節がこわばっていて、少しでも動かせばびきびきとした音を立てそうだ、と思った。まるで自分の身体が、一枚の固い板にでもなったようだ、とも。ゆっくりと首を巡らせることも、腕を伸ばして背中を支えることも、或いは自分の今の状態を確認することすら、とても出来そうにない。
顔を顰めたまま息を吐き、私はなんとかもう一度起き上がりを試みようと、身体を動かす。ぎこぎこと、錆びついたゼンマイ仕掛けの人形のような、なんともぎこちなく情のない、不格好な仕草で。しかしそれでも痛みは再び身体を襲い、小さな呻きが唇の合間からこぼれた、その時――
「そりゃあ、まる二日も寝てたらそうなるよ」
くすくすと愉しげな笑い声が不意に耳に届き、心臓が跳ね上がった。ぎょっとして、首を動かそうとした拍子にバランスを崩し、そのまま長椅子からずるりと転げ落ちる。ひんやりとした大理石の床に、どしんと音が立ちそうなほど見事に尻餅をついた衝撃が、ただでさえこわばっていた節々に追い打ちをかけ、呼吸が詰まった。
何でこんな目に遭わなければいけないのだろう。尾てい骨に重く響くずきずきとした痛みに、私は胸の内で半べそをかきながら、ゆっくりと顔を上げる。身体だけでなく、心まで痛くてたまらない。折角、清々しい朝のはずだったのに。
そう思いながら、原因のひとつである声の聞こえた方へ、私は恨めしげに視線を向ける。寝ていた長椅子の、そのすぐ後ろ側。そこに、ひとりの男が立っていた。
頭の高い位置でひとつに結わえられた、長く真っ直ぐな黒髪。白磁のように滑らかな肌。涼やかな切れ長の目と、その中心で仄かに光を湛える赤褐色の瞳。
いつからそこにいたのか分からない彼を、私は愕然と見つめる。恨めしさも痛みも、すっかり忘れて。ただただ、そうすることしか出来なかった。どうしても目を離せなくて。
初めて会ったばかりのはずなのに、何故だかそう感じない。寧ろ、見覚えがある、と思う。私はこの人を、ずっと以前からよく知っている、という不思議な既視感。曖昧だったたその感覚は、しかしすぐに確信へと変わった。刹那、私は息を呑む。驚愕と困惑が、荒々しく胸を締め付ける。きつく、まるで鷲掴むかのように。
そんな私を、彼はふっと笑みを深めながら、静かに見下ろしている。人間のようで、その実人間とはまるで程遠い、神々しいく美しいかんばせ。彼の纏う気配は、ルシエル様のそれとよく似ていた。崇高で、凛としていて。それは、彼が“人ならざる存在”であることを物語る、何よりもの証左だった。
「ベル、様……」
ぽつりとこぼれた呟きに、彼は――ベル様はにやりと口角を上げる。「正解」と、まるでそう言うかのように。
見覚えがあると思ったのも、当然のことだった。何故なら彼は、主神であるルシエル様の“最側近”とされる、豊穣を司る神なのだから。宗教関連の書物には、ルシエル様の名と並んで、彼の名もまた必ずといっていいほど記されている。王都の外れには、ベル様を祀る由緒ある大礼拝堂があり、そこへ足繁く通う者たち――特に農業を生業とする者たち――も多い。
「やあ。漸くお目覚めのようだね――明けの子」
そう言いながら、ベル様はどさりと長椅子に腰掛け、神らしからぬ――あまりにも人間臭い――仕草でぐっと伸びをする。彼は主神に次ぐ存在であり、智に優れた威厳ある高位神のひとりのはずだ。ルシエル様が最も信頼を寄せる神として、彼の成した偉業の数々が、あらゆる書物に綴られていた覚えがある。
しかし、欠伸をこぼしながら首を左右に傾けるその姿は、書物の中で語られる気高き神とは似ても似つかなくて、私は拍子抜けしてしまう。もちろん、そうしていながらも、彼の纏う神々しい気配は、ほんの少しも薄れはしないのだけれど。
「それにしても、まる二日とは、随分よく寝たもんだねえ。ルシエルなんて、疾うに飽いてどっか行ったよ」
長い脚を優雅に組み、飴色に磨かれた長椅子の背凭れへゆったりと身を預けながら、ベル様は呆れたように肩を竦める。
まる二日――。信じがたい言葉を頭の中で何度も反芻しながら、私は身体のあちこちから上がる悲鳴をどうにか堪え、たどたどしく身を起こす。最後の記憶といえば、長椅子に腰掛けた時のことだろうか。村へ戻るロアンさんたちを見送り、一息つこうと堂内へ戻って長椅子に腰を下ろした、その瞬間のこと。すっかり朝陽は昇っていて、窓から差し込む光が、身廊や祭壇を仄白く照らしていた。さっき見た光景と同じように。けれどいくら記憶を探ってみても、それ以降のことはまるで思い出せなかった。時間がすぱっと切り取られてしまっているみたいに、少しも。綺麗に空白になってしまっている。
村で彼らに出会ったことも、ルクス熱やノクシールのことも、深紫色に輝いた聖紋のことも、つい数時間前のことのように、何もかも鮮明に憶えているというのに。まさかそれらが、二日も前の出来事だなんて――。
「まあ、“聖女の力”を使ったんだから、疲れて気を失うのも無理はないか。しかも、初めてだったみたいだし」
「……えっ?」
何でもないことのように紡がれた一言に、私は思わず素っ頓狂な声を漏らす。一際強く、鼓動が跳ねるのを感じながら。荒波のような戸惑いが、胸の奥から凄まじい勢いでせり上がってくる。
「あれは……あの時の奇跡は、ルシエル様のお力のはずでは」
おずおずと問いかける私に、ベル様はふっと口元だけで笑った。まるで全てを見透かしているかのように。真っ直ぐに向けられる赤褐色の瞳が、心の奥深いところまで入り込んでくるような気がして、胸の中がひどくざわめく。そこに沈む、不安や恐怖や戸惑いといった数多の澱を、ひとつ残らず見られてしまっているようで。
たじろぐ私を見つめたまま、ベル様はすっと口角を上げた。僅かに細められた目に、戯れを含んだきらめきが宿っているように見えるのは、気の所為だろうか。私の反応を、或いは心の揺らぎを、まるで愉しんでいるかのように思えるのは――。
「違うよ。あれはルシエルじゃない。君の力だ。――君の、“聖女”としての力」




