02
「天の祝福を継ぐ白き花よ。黎明の剣たる若き太陽よ」
祭壇に祀られた主神・ルシエルの像と、その前に佇む王太子・エリオット殿下の前で恭しく頭を垂れ、洗練されたしなやかな動きで胸の前で両手を組むアリス嬢の姿は、さながら“聖女”そのものだ。きっとこの場にいる誰もが、そう思っていることだろう。台座の上から静かに見下ろす主さえも。
「汝らの歩みは、久遠の調和を地にもたらす光なり。我が名において誓わん――今ここに、新たなる御代の扉を開け」
彼女の紡いだ神聖なる御言葉に、誰もが息を呑む。アリス嬢の声音が止んだ後も、彼女の紡いだ“神託”の余韻は、空気の奥に静かに揺れていた。誰もが言葉を失い、動くことも出来ず、ただその場に立ち尽くす。まるで時間が止まったようだ、と思った。ぴんと張り詰めたような沈黙が聖堂内を満たし、そんな只中にあっても、アリス嬢は祈りの姿勢を崩さない。全ての視線を一身に浴びながら。神々しく、崇高で、完璧な姿で。
「……おおっ」
誰とも知れぬ声が、どこからともなくぽつりと漏れた。その吐息とも感嘆ともつかない微かな声が、短くも長くもあった静寂を破り捨て、どっと沸き起こった歓声が、忽ち聖堂全体へと、波紋のように広がってゆく。驚きに目を見開く者、歓喜に涙を流す者、顔を見合わせ何かを囁き合う者たち。
「神託……! 本当に神託がっ……!」
「なんと……これほど明確にお声が届くとは!」
「主神ルシエル様が……アリス嬢を、お認めになったのだ!」
“奇跡”という言葉のもとに一つに溶け合い、大きな熱狂の渦と化した人々を見渡しながら、アリス嬢はふわりとやさしく、慈愛に満ちた微笑みを湛えている。
そんな彼女のもとへ真っ先に歩み寄ったのは、清廉な白いカソックに身を包んだ老齢の大主教だった。豪奢な馬車に乗り、孤児院まで自ら足を運んで私を迎えにきてくれた、あの大主教その人だ。今も彼の顔には、あの時と同じ――いや、もしかしたらあの時以上の、嬉々とした笑みが浮かんでいる。
その瞬間、私はつくづく理解しなければならなかった。その笑みがもう二度と私に向けられることはないのだ、と。
「アリス嬢。どうやら君が、“本物の聖女”のようだな」
ざわめきの中でもよく通る凛とした声で、王太子・エリオット殿下は、アリス嬢のかんばせを真っ直ぐ見つめながらゆっくりと歩み寄る。その動きに迷いはなく、辺りに漂っていた緊張も熱気も、全てを一気に収束させてしまうような、威厳に満ちた足取り。
「主の御姿を拝し、更には神託まで賜るとは」
そう言いながら殿下はアリス嬢の前に片膝を付き、滑らかな白い右手を恭しく持ち上げると、そこに浮かぶ金色の聖紋へと、静かに口づけを落とした。神に認められし、天の祝福を継ぐ者へ。黎明の剣たる若き太陽が捧げる、誓いの接吻。
その光景を、私はただ呆然と見つめていることしか出来なかった。現実の外側に、ただひとり取り残されているみたいに。
私が“聖女”として認められた時も。“婚約者”とされた時も。彼は一度として、私の前に跪いたことも、聖紋へ口づけてくれたこともなかった。それどころか、手に触れられたことさえ、ただの一度もない。
それなのに――。華奢な白い手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がる殿下の、端正な横顔を眺めながら思う。何もかも違う、と。私の時とは、何もかもがまるで別物のようだ、と。
世界にただ二人きりででもあるみたいに、真っ直ぐ、熱を帯びた眼差しで見つめ合う彼らの姿に、私はぺたりと、力なく床に尻をつく。これから何を言い渡されるかなんて、考えるまでもない。どんな言葉を投げられ、何を奪われてしまうかなんて。
現実へ引き戻されたように、殿下がアリス嬢から視線を外す。漸く私へ視線を向けたエリオット殿下と目が合っても、だから私は少しも驚かなかった。穢らわしいものでも見下すような、侮蔑的で冷酷な碧い瞳に晒されても。
「リディア・セレノワール。貴様が“聖女”を騙っていたという事実は、神自らの御業によって明らかとされた」
憤怒の滲んだ力強い声に、聖堂内のざわめきが、水を打ったように静まり返る。四方八方から身体に突き刺さる、まるで槍のような視線が痛くてたまらない。助けを求めたところで、無駄だろうと分かってはいたけれど。それでも、一縷の望みをかけて大主教へそっと目を向けてみると、彼は感情の伺い知れない冷たい顔で、そそくさと視線を背けてしまった。
「神意を冒涜し、聖なる座を穢した咎は、まさしく大罪に値する。もはや弁明の余地もない」
偽っていたつもりなどない。神を欺こうとしたつもりも、冒涜したつもりも、もちろん決してない。
けれど、そんな言い訳をしたところで、私の訴えに耳を傾けてくれる人なんて、この場には誰もいないだろう。私を“本物の聖女”として連れてきた大主教ですらああなのだから。いったい誰が、“偽物の聖女”の烙印を押された人間を救ったりなどしてくれるだろう。
「よって、貴様には王都からの追放を命ずる。即刻、ここを立ち去れ。無論、これをもって、私との婚約も破棄とする」
僅かな躊躇いすらない、明確で揺るぎのない、堂々とした冷酷な声。一時は“聖女”であったはずなのに。一時は“婚約者”であったはずなのに。そんなことなどまるで麗さっぱり忘れてしまったみたいに、彼は冷ややかに私を見下ろしながら、裁きの言葉を突き立てた。
――そうしてこの日、私はすべてを失うこととなった。地位も、居場所も、そして婚約者も奪われ、信じてきた神にさえ、見放されて。