19
ただ、助けたかった。この小さな命を。偽善だろうとなんだろうと。永遠とも思えるほど続く苦痛から、救いたかった。ただ、それだけ。ただそれだけだったのに。
――あいつは“魔女”なんだから。もしかしたら毒薬かもしれんぞ。
マルセルさんの言葉が、頭の中に響き渡る。ひとつひとつが鋭い棘のようになって、あらゆるところに突き刺さりながら。毒薬――その一言は特に、私の胸をひどくざわつかせた。目に見えない手で直接鷲掴まれ、激しく揺さぶられているみたいに。何も考えられなかった。何も考えたくなかった。もし今、少しでも何かを考えてしまったら、地獄の底に呑み込まれてしまいそうだと思ったから。どろりと黒く濁った、底なし沼のような地獄の奥に。
それなのに、意に反して思考が働いてしまう。毒薬――焦りの滲んだ、或いは嘲笑を孕んだ声で紡がれた、その一言に突き動かされるようにして。ただ助けたかった。ただそれだけだった。
けれどそれらが、どうしても言い訳のように思えてしまう。自分という存在と、自分の心を守る為の言い訳に。それはある意味で、逃げだった。現実から逃げようとしている。吐血し、朦朧として呼吸もままならない状態のアレク君から。そんな彼の名を必死に呼びながら抱き締めるヴィオラさんから。或いは、ひどく打ち拉がれているマルセルさんや、どうにか現状を打破しようと次手を考えているロアンさんから。私は“助けたい”と思いながら、同時に逃げようとしている。眼の前の光景が、恐ろしすぎて。――いや、私自身がこの子を殺してしまうかもしれないという、その事実に恐怖して。
偶々あの村の存在を知り、有り得ないほどの遠回りをした末に足を踏み入れ、そして偶然、彼らに出くわした。ルクス熱に冒された子どもとその両親、そして二人に縋り付かれた年若き医者に。王都から遠く離れた辺鄙な場所に存在するあの小さな村に、ルクス熱を癒やす薬はなかった。この国で最も栄えた王都ですら枯渇している薬は、ひとつも。けれど、奇遇にもそこを通りかかった私は、その薬を持っていた。しかも、最も名の知れた薬師の作った、精度の高い薬を。だから私は、彼らにそれを告げた。子を救いたい一心で。ノクシールならあります、と――。
それが、全ての間違いだったのかもかもしれない。意識があるのかないのかも分からないほど、息も絶え絶えになったアレク君の小さな手を見下ろしながら思う。あんなこと、言わなければ良かったのかもしれない。私が持っていた薬は、私が与えた薬は――彼にとって“毒”だったのだから。マルセルさんの言った、“毒薬”というあの一言は、だから正しい。“魔女”である私が持っていたのは、この子にとってただの“毒薬”でしかなかったのだ。
でも――。歯を突き立てた唇を、更に強く噛み締めながら、私はまるで今にも泣き出すみたいに、くしゃりと顔を歪めた。アレク君に毒薬を与えたことが罪なら、でも、もし彼が“そういう体質”でなかった場合、あの時声をかけなかったら、きっとそれが罪になる。そう思うこともまた、結局はただの現実逃避なのだろうか。自分の罪から目を背ける為の。ならば私は、どうすれば良かったのだろう。どうすることが正しかったのだろう。
自分の無力さを、こんなにも恨めしいと思ったことはない。ルシエル様は私を、“本物の聖女”だと言ってくれたけれど。しかし私は、“聖女”として何かが出来た試しはない。王都にいた頃も、そこを追われてからも、ただの一度も。瘴気を祓ったり、加護をもたらしたり、病を癒したり。書物に記されていたような、“本物の聖女”ならば出来るはずのことが、私には何ひとつ。
アリス嬢なら、その全てが出来るのだろうか。彼女の美しいかんばせや、波打った艷やかなペールピンクの髪の毛ではなく、胸元に飾られていた白い薔薇の装飾を脳裏に浮かべながら、私は胸の内で自嘲する。審判の場で、ルシエル様の姿を視たというアリス嬢なら。彼から神託を授かったというアリス嬢なら。聖神院や王家直々に認められた“本物の聖女”であるアリス嬢なら、病に冒されたアレク君を癒やすことが出来たのだろうか、と。嘗てルシエル様が、死の淵にいた私の命を救って下さったように。
私はやはり、“本物の聖女”などではなく、悪しき“魔女”なのだと思う。何故ルシエル様の姿が視えるのかも、声を聞き、会話をすることが出来るのかも、分からないけれど。それでも私は、“聖女”なんかではなく、人々に災いをもたらす“魔女”なのだ。ルクス熱に苦しむアレク君の命を、更に深く削ったのは、紛れもなく私なのだから。やっぱり私は、ルシエル様が何と言おうと、“本物の聖女”などではない。
だから――。アレク君の小さな手を包む両手をそっと額に宛てがい、私は深々と頭を下げる。だからどうか、死の世界へと連れてゆくのはこの子ではなく私にしてください、と、縋るように祈りながら。死ぬべきなのは、生きていることを罰せられるべきなのは私で、この子ではない。この子では、絶対にない。
切々と祈りを捧げながら、頭の中に思い浮かぶのは、ルシエル様の顔だった。不思議なことに、ついさっき目にした、ベッドに腰掛けて外を眺めている彼の顔ではなく、遠い昔の、病に臥せっていた私を助けて下さったあの時の、右手の甲に指先を触れて下さったあの時の顔。そのふたつは少しも違わないはずなのに、でも私の中で、それらは全く別のものだった。自分でも理由は分からないけれど。それでも私が祈っているのは、縋っているのは、今もまだ部屋にいるのだろうあのルシエル様ではなく、あの夜私を救ってくださったルシエル様なのだった。未だ鮮明に、まるで昨日のことのように、頭に、眼に蘇らせることの出来る、神々しく美しいかんばせ。
――ルシエル様。
ふと、耳の奥深いところで、女性の声が響いたような気がした。全く聞き覚えのない、可憐で明るい、喜びに満ちたような声が。その声に誘われるようにして、私は知らず知らず瞑っていた瞼を、静かに持ち上げる。我が子の名を呼ぶヴィオラさんの声、怒っているのにひどく湿ったマルセルさんの声。夜風に揺さぶられた枝葉の擦れる音、梟の鳴き声、蝙蝠か何かの微かな羽音。
それらの様々な音に混じって、あの声はまた、鼓膜の裏側にふわりと広がった。花の香を纏ったような、やさしく柔らかなぬくもりとともに。
――貴方様に、またお逢いすることは出来ますか。