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 私は、自分の両親がどういう人なのかを、知らない。物心ついた頃から既に、“両親”と呼べるような人は傍にいなかった。母がどういう性格でどういう顔をしていたのか、私のことをどう思っていたのか。私は何ひとつとして聞かされていない。もちろん、父のことも。


 だから、“親の愛情”というものが、ずっと理解出来ずにいた。いや、“そういうものがある”と理解は出来るけれど、実感が伴わない、と言った方が正しいだろう。孤児院育ちで、院長や修道女たちに囲まれて育った私は、そういう環境であったが故に、“親”という存在は、最初からどこか遠いものだった。まるで物語の中にしか存在しない人たちのような。寧ろ、「コウノトリに運ばれてきた」と、誰も信じるはずのない子ども騙しのようなことを言われた方が、よほど納得出来るくらいに。


「私たち、結婚してもう長いんだけれど、なかなか子どもに恵まれなくてね」


 私の視線に気付いたのか、ヴィオラさんがふっと顔を綻ばす。アレク君を見つめる彼女の眼差しは、とてもあたたかい。まるで太陽のような、或いは穏やかな春風のような。


「この子はね、そんな私たちのもとに漸く来てくれた、“宝物”なの」


 そう語るヴィオラさんの、心を震わせるようなやさしい声音だけで、彼女がアレク君を心の底から本当に慈しんでいるのだと、出会って間もない私にもひしひしと分かる。可愛くて可愛くてたまらないのだろう。愛おしくて愛おしくてたまらないのだろう。この子の為なら悪魔にでも魔女にでも魂を売る、と、彼女は言っていたけれど。あれはただの強がりではなく、彼女の本心だったに違いない。大切な我が子の為なら何でもしてやれる。何にでも頼ってやる。たとえその相手が、王国中の人々から憎悪を向けられている、悪しき“魔女”だったのだとしても。


「だから、何としてもこの子は――」


 ヴィオラさんが穏やかに目を細めながら言いかけた、その時だった。ごほっ、と、今までにない濁った咳が耳に届いたのは。 

 それは、とても聞き覚えのある音だった。遠い昔によく聞いていた音。忘れかけていたはずのそれが瞬時に蘇り、私ははっとしてアレク君の顔へ視線を落とす。――そして、息を呑んだ。彼の唇が、その周りが、ぞっとするほど赤く染まっていたから。


「アレクっ!」


 ヴィオラさんの悲痛な叫びや夜気を裂き、黒く沈んだ森の中に響き渡る。抱き締めた小さな身体を必死に揺さぶる彼女の白い手が、月夜の下でもはっきりと分かるほど激しく震えていた。


「どうして……」


 吐血で汚れた唇の合間から、掠れた吐息が微かにこぼれるのを聞きながら、私はただ愕然とする。ノクシールに副作用はないはずだ。安全性の高い薬と、認められている。だから小さな子どもにも処方が許されているのだとグレオリウス様は仰っていたし、ロアンさんだって同じことを言っていた。それなのに、どうして――。


「お、おいっ! どういうことだ!」


 背後から、マルセルさんの焦った声が聞こえる。私は訳が分からず、傍らに立つロアンさんを見上げた。救いを求めるように。縋り付くように。またあのやさしい声で、大丈夫ですよ、と言ってほしくて。

 けれども彼は、色の白い顔を更に青くさせ、アレク君を呆然と見つめていた。そのあどけなさの残ったようなかんばせが、少しずつ、ゆっくりと歪んでゆく。苦しげに。哀しげに。色が薄れるほど噛み締められた唇が、彼の内に湧き上がる悔しさを、ありありと物語っているかのようだった。


「――拒絶反応」


 ぽつりとこぼれた、小さな呟き。しかしその一言は、私たちを奈落の淵から突き落とすには十分すぎるものだった。


「ノクシールには、副作用はないはずでは……」


 その上この薬は、あのグレオリウス様が調剤したものだ。他のどんな薬師が作るよりも精度は高いはずで、何か間違いがあったなどということは、到底考えられない。あの優秀なグレオリウス様に限ってそんなことは、絶対に――。

 そんな私の思考を、眼差しから察したのだろう。ロアンさんが、そっとかぶりを振った。何も間違ってはいない、と、そう否定するように。


「ええ、基本的には。……これはノクシールの副作用ではなく、拒絶反応です」


 私の問いに答えながら、ロアンさんは遣り場のない歯痒さを押し殺すように、右手を力強く握り締めた。


「ごく稀ですが、いるんです。調合に使われている薬草の成分が、体質に合わない人が。そういう場合、身体がその成分を異物とみなし、拒絶反応を起こしてしまうんです」


 つまりアレク君は、ノクシールに含まれる何らかの成分を受け入れられない体質だった、ということだ。ルクス熱に苦しむ彼を、唯一救えるはずだった薬の、まさにその成分のどれかに――。


 どさりと、マルセルさんが地面に崩れ落ちる音を背中で聞きながら、私は壊れかけの人形のようにゆるゆると、ヴィオラさんの腕に抱かれたアレク君へ視線を向ける。大好きな母親を見上げているのか、それともその向こうの夜空を見ているのか。母親譲りなのだろう琥珀色の瞳は、先ほどよりも薄く濁り、どこか虚ろだった。


 そんな彼の、汗の浮いた青白い顔を見つめながら、私は絶望に打ち拉がれる。まるで頭上から氷水を浴びせられたように、冷たいものがすっと身体を貫いてゆく。それに打ち砕かれた何かが、ばらばらと音を立てながら胸の底へ沈んでいった。硝子のような、薄氷のような何かが。身体のそこここを切り裂きながら。


 もし、この子が助からなかったら――。込み上げる恐怖を必死に抑え込むように、私は震える唇に歯を突き立てる。もし、この子が助からなかったら。

 それはきっとルクス熱のせいではなく――私のせいだ。

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