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小瓶を手渡すと、ロアンさんはほんの一瞬だけ、眼鏡の奥の目を僅かに瞠らせた。
それも無理はないだろう、と思う。小瓶に貼られたラベルには、中に入っている薬の名とともに、調剤した者の名が記されているのだから。それはある意味で、これが“本物のノクシール”であることを示す、何より確かな証左だった。本物で、しかもかなり精度の高い極めて上質なものである、とも。
「驚きました。まさか、あのグレオリウス・フォルタンが調剤した薬とは」
「……以前は、そういった伝手がありましたから」
ロアンの言葉に、自嘲とも苦笑ともつかない笑みを微かに返しつつ、私は汲みたての水の入ったカラフェを、石段に腰掛けたヴィオラさんの隣に置く。
グレオリウス・フォルタンは、王都で最も名の知られた薬師であり、その腕の高さを認められ、王家の専属薬師としての任に就いて久しい。薬というものは、同じ材料を使い同じ手順を踏んでも、技術力の違いによって精度にばらつきが出てしまう、と言われている。故に、品質の良い薬を調剤する薬師は重宝され、中には宮廷や上流貴族の専属となる者も少なくない。グレオリウス様もその内のひとりであり、彼の作る薬は王国一どころか、この大陸一の精度を誇るとまでいわれている。
そんな彼に薬を依頼するなんて、一般の平民には出来ないことなのだけれど。カラフェから、綺麗に洗った硝子のグラスにそっと水を移しながら思う。今はこんな私でも、嘗てはそういう“伝手”があったのだ。聖神院のトップに位置する“聖女”として、或いは、殆ど儀礼に則っただけに過ぎないものではあったけれど、王国の若き太陽である王太子殿下の“婚約者”として。
ロアンさんは水の注がれたグラスに、小瓶の中身をそろりと、細心の注意を払いながら垂らす。ぽたぽた、と。深い藍色をした少しとろみのある液体が、小さな粒となって透明な水面にぶつかった。それはすぐに水面を覆うように広がり、幕が降りるようにグラスの底へ、すうっと溶け落ちてく。マドラーがないので、仕方なくグラスを軽く振って混ぜると、水はすっかり澄んだ藍色へと化した。これが、数十年前に開発された、ルクス熱唯一の特効薬である――ノクシール。
「ゆっくり飲ませてあげて下さい」
ノクシールを溶かしたグラスをヴィオラさんへ手渡すロアンさんの横で、私はゆっくりと腰を屈め、荒々しい呼吸を繰り返すアレク君の、だらりと力の抜けた小さな手を両手でやさしく包み込む。色の白いやわらかな皮膚は、高熱のせいで少し汗ばんでいて、微かに震えてもいる。首、顎の裏、耳朶、腕、掌――。そのあちこちに浮かぶ、幾つものくすんだ緑色の斑点が痛々しい。
どうしてこの子が、こんなにも苦しまなければならないのだろう。
遣る瀬無さに胸を締め付けられながら、傾けられたグラスの縁から、少しずつ藍色の液体が流れてゆくのを、息を詰めて見守る。紫色に変色した小さな唇の合間から、それはとろりとアレク君の口内へと滑り込み――けれどすぐに、彼はひどく顔を歪め、咳き込んだ。吐き出されたノクシールが、脂汗の浮いた口元に飛び散る。私はスカートのポケットから慌ててハンカチを取り出し、粒のような汗とともに、そっとそれを拭い取った。
「アレク、お願い。これを飲んで」
懇願するようなヴィオラさんの切ない声に促され、アレク君はぼんやりと瞬きをし、ゆるゆると唇を開く。意識は朧気ながらも、それでもこれを飲まなければならないと、どこかで理解しているのかもしれない。或いは、母親の願いに応えなければ、と。
ノクシールは、非常に苦みの強い薬だ。幼い子どもにとっては、それだけで飲むのは辛いだろう。けれど、蜂蜜やシロップを混ぜて苦みを緩和させることは、どんな状況だろうと厳禁とされていた。そうすると、折角の薬効が薄れてしまうから、と。
「そうそう、偉いわ、アレク。ちゃんと飲めているわ」
決して量は多くないけれど、それでも少しずつ、時間をかけながら薬を流し込んでいく。アレク君は苦しげに顔を歪めながらも、それでも唇を閉じることはなく、こくりこくりと、一生懸命に喉を動かしていた。小さな喉を、幾つもの苦痛に耐えながら。
やがてグラスの中身が尽きると、誰からともなく、ふっと安堵の息がこぼれた。あと何回服用しなければならないのかは、分からないけれど。それでも、まだ一度だけとはいえ、ひとまずノクシールを無事に飲めたことだけでも、ひとつの大きな前進だ。一旦は、安心だろう。
どうやらそれはヴィオラさんも同じであるようで、幾分やわらいだ表情で空になったグラスを石段に置き、そうして健気に頑張った我が子を愛おしそうに抱き締めた。身体の至る所にあるという斑点を気にしながら、やさしく。それでも、出来うる限りの力で、ぎゅっと。
母は強し、と言うけれど――。アレク君を落ち着かせようと微笑むヴィオラさんの、美しく整ったかんばせをそっと見つめながら思う。いつ誰が、それを言い出したのかは分からないけれど。でもその言葉はきっと正しいのだろう、と。