15
「その量なら、恐らく二日分くらいかと」
ランプの落とす橙色のあたたかな灯りを踏むようにして夜道を進みながら、私は悔しさに唇を噛み締める。王都から持ってきたノクシールの分量が、たったの二日分程度しかないと知って。
果たしてそれだけで、あの子は助かるのだろうか。一歩進む度、嫌な考えばかりが、むくむくと湧き上がってくる。私が持っているノクシールだけで、あの子を助けられるのだろうか。今の私たちには、そのたった二日分のノクシールしか頼るものがないというのに――。
「病状の進行具合によって、服用量や日数は変わってきます。数日飲み続けなければならない子もいますが、一度で快方に向かう場合も、もちろんあります」
どうやら不安が顔に出てしまっていたらしい。隣を歩む青年が、ふとこちらを見遣り、穏やかな声音でそう説明してくれた。きっと大丈夫ですよ、と。私なのかあの子なのか、或いはどちらともに向けたのか、気遣いの言葉もやさしく言い添えて。そんな彼の白い手に握られたランプが僅かに揺れ、道を照らす橙光が木立に揺れる。踏み締める野草が、夜気を吸って随分と柔らかい。
ロアン・ドレールと名乗った彼は、やはり医者だった。あの村で唯一の。すっきりとした細い長躯、癖のあるやわらかなグレイの髪の毛、黒縁のシンプルな丸い眼鏡、その奥に見える青緑色の大きな瞳。どこかあどけなさを感じさせる顔立ちをしているが、齢は私よりも五つ上であるらしい。それでも、まだまだ“若い”と呼ばれる年頃であるのには違いないけれど。ことに医者という職においては、なおさら。王都で見かける医者たちは、見習いを除いて、彼より十も二十も、或いは四十年も年嵩の者ばかりだったから。
「あの子の体力が、あとどれくらい残っているか……それ次第でしょう」
肩越しにちらりと背後を――そこを歩んでいる夫妻と子どもを――一瞥し、ロアンさんは悩ましげに眉根を寄せた。きっと大丈夫ですよ、と、彼はそう言ってくれたけれど。暗闇に沈んだ木々を、まるで不安を象ったかのような漆黒の影たちを見るともなく眺めながら思う。“大丈夫”というその言葉が、ひどく不確かな希望に過ぎないことを一番理解しているのはきっとこの人なのだろう、と。
ロアンさんの案内に導かれながら夜道を進んでいると、やがて木立の合間に、見覚えのある尖塔がすっと姿を現した。小塔を備えたふたつの尖塔と、ずっしりとした造りの半円形のアプス。入口の真上には小ぶりな薔薇窓が設けられ、中央には主神を示す聖印が彫り込まれている。白い月明かりに照らされた礼拝堂は、出てきた時と少しも変わらぬ静けさで佇んでいた。廃墟同然と化していながら、それでもなお凛とした威厳を宿した姿で。
「何故そんな遠回りを?」と、村を出る時にロアンさんから問われたのだけれど――。ひと気のまるでない、夜闇の中にひっそりと建つ石造りの礼拝堂を眺めながら、私は半ば愕然とし、息を呑む。どうやら私は、本当に遠回りをしていたらしい。それも、かなりひどい――マルセルさんにまで心底呆れられるくらいの――遠回りを。そう認めざるを得なかった。村を出てからここに戻るまでの道は、私が矢印を鵜呑みにして辿った道の、実に半分にも満たなかったから。
「奥にベッドがありますので、そこに――」
入口へと続く石段に片足をかけながら振り返ると、女性と目が合った。蜂蜜のような、澄んだ琥珀色の瞳と。ヴィオラという名の彼女は、細い両腕でしっかりと子どもを抱えながら、ゆるゆるとかぶりを横に振った。ひどく哀しげに表情を歪ませて。そんな彼女の腕の中で、毛布に包まれた男の子――アレクという名らしい――が、ごほごほと苦しそうに咳き込み、身を捩る。母親の胸元を、まるで縋るように握り締める小さな手にも、くすんだ緑色の斑点が浮かんでいた。
「ベッドは嫌がるんです。……背中の斑点が痛むみたいで」
彼のその小さな身体の、いったいどのくらいの範囲にまで斑点は広がっているのだろう。上半身だけか、それとも全身か――。もし夥しい数の斑点が、身体のそこここに出来ていたとしたら。たった二日分程度のノクシールで、彼を救うことは果たして出来るのだろうか。
再び胸を過った不安を慌てて払い捨て、私はぎゅっと片手を握り締めながら、傍らに立つロアンさんを見上げた。
「掃除はしているのですが……それでも堂内には、まだ塵や土埃が多くて」
小ぢんまりとした礼拝堂とはいえ、半日で、それもひとりで掃除できる範囲には、どうしても限りがある。初めてここに足を踏み入れた時よりは、多少ましにはなっているだろうけれど。それでも、気管支に炎症を起こしているであろう子どもにとっては、まだまだ酷な環境であることは明白だった。
それ以上何も言わなくとも、ロアンさんはすぐに意を察してくれたようで、月明かりに照らされた建物を一瞥し、それから咳き込むアレク君へと視線を移す。空を切るような掠れた呼吸が、痛々しくてたまらない。
「それなら、中よりも外の方が良いでしょう。僕たちはここで待っていますから、リディアさんは薬の方を」
こくりと力強く頷いて、私は迷いなく扉に手をかけると、勢いよく堂内へと駆け込んだ。整然と並んだ長椅子、真っ直ぐに伸びた身廊、その奥に据えられた祭壇、静かに佇む純白の主神像。窓から差し込む月の光だけを頼りに、長椅子の間を縫うように抜け、太い柱に区切られた側廊を、ただ懸命にひた走る。慌ただしい足音を響かせて。
そうしながら辺りを見回してみたけれど、ルシエル様の姿はどこにも見当たらなかった。ここは“寝床”だと言っていたので、もしかしたら静謐な夜気の中に身を潜めて眠っているのかもしれない。そんな空気を、騒々しい足音で乱してしまっているのは、少しだけ申し訳なく思うけれど。しかし今は、そんなことを気にしている余裕はない。
側廊の奥で足を止め、少し錆びついた錬鉄製のノブを握って小さな扉を押し開ける。途端に視界に飛び込んできたのは、月光に煌々と照らされたソファだった。ベイウィンドウの下部に設えられた、ベッドも兼ねる広い――それでも人ひとり分程度の大きさの――窓台。そこに、青白い光を纏いながら腰掛ける人影があった。台形に張り出した壁に背を預け、立てた左膝に頬杖をついて、静かに硝子の向こうを見つめている人影が。
月明かりに淡く縁取られた、その儚くも美しい横顔を目にした瞬間、不意に胸の奥が震えた。驚きというより、ぞくりとした何かに撫でられて。私は暫し呼吸を奪われ、魂の抜けた人形のように立ち尽くす。薬を取りに来たことも、外でアレク君たちが待っていることも忘れて。真っ白い、空っぽの状態で。
そんな私の存在にたった今気付いたかのように、ルシエル様の瞳がすっと、流れるような滑らかさで動いた。ゆっくりとこちらへ向けられた視線が、入口に突っ立ったまま身動ぐことも出来ずにいる私を、容易に絡め取る。相も変わらず、淡々とした眼差しだった。拒絶も受容もしない、沈黙に近しい目。
けれど、その無言の眼差しに捉えられたことで、私は漸く呼吸を取り戻すことが出来た。それと同時に、村での出来事も、道すがら交わした会話も、薬を取りに来たことも、堂の外でロアンさんたちが待っていることも――頭の奥底に沈んでいた記憶が、次から次へと、一気に浮かび上がってくる。
ルシエル様は私を見つめただけで、結局何も言わないまま、再び窓の外へと目を向けた。そのことに、私は安堵に似た吐息をそっとこぼし、壁際に置かれた机へと足早に向かう。
年月を経て艶を増した飴色の机。その上に置かれた鞄が、どこか居心地悪そうに見えるのは、気の所為だろうか。そんなことを考えながら鞄の留め具を外し、詰め込んでいる品々の中から、目当てのものを取り出す。持ち歩き用にと、まだ王都で暮らしていた頃に買った、洒落っ気のない質素な小箱。銀色のスナップ錠を解いてそっと蓋を持ち上げると、薬の独特な香りが微かに鼻先を掠めた。小分けにされた粉薬、シロップを混ぜて固めた丸薬、虫刺され用の軟膏、そして――小瓶に詰められたノクシール。たった二日分しかないけれど。それでも、ルクス熱に苦しむアレク君を助けられるかもしれない、唯一の薬。