14
叫び声がぴたりとやんだ路地は、息苦しくなるほど静まり返っていた。青白い静寂が、闇とともにじっとりと辺りに沈殿している。どこか遠くの方で、梟の鳴く声が聞こえたような気がした。或いは鳩かもしれない。夜風に揺れる枝葉がかさかさと乾いた音を奏で、自然が生み出す微かな――ある意味で豊かな――音だけが、広場と路地を包み込んでいる。
暫くの間、誰も口を開こうとはしなかった。彼らは私を、私は子どもを抱いた母親を、何も言わずにじっと見つめ続ける。どれほどの時が経ったのか分からない。短いようにも、長いようにも思える、時の感覚を喪失させるような不思議な沈黙。
その沈黙を唐突に破ったのは、女性の傍らで茫然と立ち尽くしていた男性だった。恐らくは、子どもの父親なのだろう。彼はぎょっと肩を飛び上がらせ、顔をみるみる青褪めさせてゆく。そうして、肉厚の唇を震えさせながら、まるで化け物でも眼の前にしているみたいに、搾り出すような声をあげた。
「ま、魔女っ……!」
その一言が鼓膜を打った瞬間、背筋をすうっと冷たいものが駆け抜けてゆく。分かっていたはずなのに。こうなることなんて、最初から。それでも、と、声をかけたのは私の意思であり、だから落胆するなんて筋違いなのだろうけれど。それでも、後悔せずにはいられなかった。恐怖から、次第に怒りへと表情を歪めてゆく男性の姿を見れば見るほど。言わなければ良かった、と。声なんてかけなければ良かった、と。見なかったことにすれば良かった、と。結局は“魔女”と罵られるだけなのだから。
「ふざけるなっ! 魔女の持ってる薬なんか、誰が信じるか!」
やっぱり、と、胸の内で呟きながら、私は微かに自嘲する。何も変わらない。変わるわけがないのだ。きっとこれから先も、ずっと。私は誰からも拒絶され続けるだけ。
薬を――ルクス熱の特効薬であるノクシールを持っているのは、本当のことだった。それは決して嘘ではない。ノクシールは、ルクス熱の他にも幾つかの病に効くとされ、聖女として施療院を訪れた際、その効能を目にし、念の為にと個人的に常備していたものだ。まだルクス熱が蔓延する前の、在庫が潤沢にあった頃に。自他を助けるのに、もしかしたら役立つかもかもしれないから、と。王都で最も信頼のおける薬師に頼んで購入した、正真正銘の本物。
王都を追われた際、元々少なかった私物を、それでも殆ど処分してしまったのだけれど。常備していた薬だけは、ひとつも手放さずに全て鞄へ詰め込んだ。どんな旅になるか、まるで分からなかったから。薬は持っているに越したことはない、と考えて。
もちろんその時は、自分が使うことだけを念頭に置いていた。他人のことまで気にかける余裕などなかったし、ノクシールに関しても、当時はまだ在庫に不安はなかったのだから。
でも――。父親の、突き刺すような冷ややかな瞳から視線を逸らし、汚れた靴先を見下ろしながら思う。そんなことを彼らに語ったところで、いったい何になるというのだろう、と。“魔女”の言葉に耳を貸す人なんて、“魔女”の言葉を信じる人なんて、誰ひとりとしていない。今までずっとそうだったのだから。本当のことを話したところで、“魔女”という烙印があるだけで、それは全て嘘に塗り替えられる。善良な人々を欺く為についた、卑劣な嘘に。
「うちの子がルクス熱に罹ったのは、きっと……きっとこいつのせいだ! 魔女が呪いを持って来やがったんだよ!」
「マルセルさん、落ち着いて下さいっ!」
今にも殴りかからんばかりの剣幕で怒鳴りつける男性を、青年が慌てて制する。黒縁の、丸い眼鏡の奥の瞳を、悲しげに揺らめかせながら。しかし、宥めようと肩に伸ばした青年の手を、マルセルと呼ばれた男性は荒々しく振り払う。興奮の熱は冷めるどころか、むしろ勢いを増し、火花を散らすような眼差しで、私を真っ直ぐに射抜きながら。
「国中でルクス熱が流行ってるのも、お前のせいだろっ! “聖女”のふりなんかするから、神の怒りを買ったんだ!」
「違いますっ! ルクス熱は、歴とした“病”です! 魔女の“呪い”でも、神の“怒り”でもありません!」
そう否定する青年の、強く絞り出された必死な声を、けれど男性は「うるさいっ!」と怒号ひとつで容赦なく叩き伏せる。
「こいつが全部悪いに決まってる! こいつがっ……こいつが疫病を呼び込んだんだよ!」
「マルセルさんっ!」
もういい、と思った。愚かだったのは私なのだから。懸命に男性をとめようとする青年の、月光と室内の灯りに縁取られた横顔を見つめながら、私は小さく嘲笑する。私を罵りたくなる男性の気持ちも、分からなくはなかった。誰かを責めずにはいられない、その哀しみに似た苛立ちや遣る瀬無さが。だから、もういい、と思う。何もかももういい、と。
もし本当に、あの子が私のせいでルクス熱に罹ったのだというのなら――。白くやわらかな首に浮かぶ、くすんだ緑色の斑点を見ながら、胸の内で諦念のこもった溜息をつく。斑点は、発病してすぐではなく、ある程度時間が経ってからしか現れない。だから、私がこの村に足を踏み入れるよりも前から、あの子は既に病に冒されていたのだろう。そう見て取れたが、それでも、ここに留まり続けるべきではない、と思った。一刻も早く立ち去った方がいい、と。憤怒に駆られた父親の為でも、そんな彼を必死に止めようとする青年の為でもなく、ただあの小さな男の子の為に。
もう一度、今度は唇の合間から微かに溜息をこぼし、私はそっと踵を返す。このままどこか遠くへ消えてしまいたい、と、そんな衝動に胸を強く締めつけられながら。あの礼拝堂でも、ルシエル様のもとでもなく。誰も知らず、誰もいない、遥か彼方の“無”のような場所へ。ただひっそりと消え去ってしまいたい、と。――そう思いながら、一歩を踏み出しかけた、その時だった。
「……本当に、薬があるの?」
ざわめく空気の中に、ぽつりと、か細い呟きがこぼれ落ちる。瞬間、辺りが途端に静まり返った。草木を揺らしていた風さえも、ぴたりと止まったかのように。
それは、父親の激しい怒声や、諌めようとする青年の声とは比べものにならないほど小さかった。夜風に攫われ、すぐにも消えてしまいそうな、そんなひどく弱々しい声。けれどその一言には、この場にいる誰からも言葉を奪うだけの、静かで確かな力強さがあった。
鼓膜を打ったその声に、私は思わず息を呑む。諦めだとか失望だとか、消えてしまいたいなどという思いも、そんなものは一瞬にして頭の中から消えていた。ただただ女性の声だけが反響し、真っ赤になった双眸が、涙で濡れたかんばせが、ありありと脳裏に浮かび上がる。
他に何も考えられず、どうして良いのかも分からないのに――気付けば身体が勝手に動いていた。ゆっくりと振り返り、石畳に座り込んだままの彼女へ、まるで吸い寄せられるように視線を向けると、目が合った。潤んだ琥珀色の瞳が、じっとこちらを見つめている。この世界に私と彼女のふたりだけしかいないみたいに、真っ直ぐ。
「本当に、薬があるの? この子は、助かるの?」
暫し落ちた沈黙を、女性の切実な声が、哀しく切り裂く。何が起きたのか分からず、呆気に取られていた父親が我を取り戻し、すかさず女性の肩に手を添える。妻の顔を覗き込む男性のかんばせには、嘲笑とも苦笑ともつかない笑みが浮かんでいた。
「おいおい、何言ってんだよ。薬があるなんて、嘘に決まってんだろ。あいつは“魔女”なんだから。もしかしたら毒薬かもしれんぞ」
そう言いながら男性は母親の傍に腰を屈め、正気を取り戻させようと、両肩を揺さぶる。けれども女性の視線は、私に据えられたままだった。そこからぴくりとも動かない。傍に夫がいることも、彼に肩を揺さぶられていることも、まるで気付いていないみたいに。
「ねえ、本当に薬があるの?」
「……はい」
じっと向けられる瞳の、縋り付くような、痛々しくもどこまでも純粋な真剣さに、私はどうしても抗うことが出来ず、小さく頷いた。
「今、手元にあるわけではありません。……でも」
言葉を探すように、唇が僅かに震える。
「礼拝堂に戻れば――あります」
それは私の意思というより、どちらかというと、彼女の瞳に根負けした故の返事。けれど、それでも不思議と後悔はなかった。つい先ほどまで、あんなにも諦念と失望に押し潰されていたというのに。胸の内にいつの間にか、微かに温もりのようなものが灯っていた。
「しっかりしろ! あいつは“魔女”だぞっ! 全部嘘に決まってる! あいつは俺たちを騙そうと――」
「だから何だって言うのっ!」
男性の言葉を遮るように、女性が鋭く声を張り上げる。震えるほどの怒気も、涙混じりの懇願もない。その叫びには、ただただ母親としての強く揺るがぬ意志が込められていた。
「薬があるのならっ……それでこの子が助かるのならっ……」
夫の腕を払い退け、彼女はよろめきながらも立ち上がる。ほっそりとした両腕に、大切な我が子をしっかりと抱き締めて。
「悪魔だろうが魔女だろうが――私は、幾らだって魂を売ってやるわ!」
空気そのものを震わせるような迫力ある声に気圧され、男性は言葉を失い、まるで石になったかのように呆然と妻を見つめる。そんな彼を、女性は静かに、けれど凛とした瞳で見下ろしていた。美しい琥珀色に、覚悟の光を宿して。
女性の叫びが夜の空気に溶けていくと同時に、場を覆っていた騒然がすっと引いた。まるで、世界が息を潜めたかのように。彼女の確たる決意に、誰もが息を詰めたまま、言葉を探すことすら出来ずにいる。そんな私達の間を、やわらかな夜風がふわりと吹き抜けてゆく。静寂を撫でるように。
「……少し、お待ちください」
やがてその静けさを、青年の落ち着いた声が、やさしく揺らした。
「すぐに灯りを持って来ますから」