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思わず足を止め、周囲を見回してしまったのは、その叫び声があまりにも痛ましく、胸を締め付けるような切実さに満ちていたからだった。
陰鬱な影を落とす白亜の天使像、まんまるい月を浮かべた水面、小さな石が幾つも転がった石畳、乾いた土の上でそよぐ草の群れ、青白い月明かりにぼんやりと照らされた小径。
声の主は、すぐに見つかった。商店が並ぶ通りとは反対側の、民家が密集する路地の一角。そこに、明らかに周囲とは異なる、橙色のやさしい明かりが漏れていた。開かれた扉の内側からこぼれる、ぬくもりを感じさせる灯り。でこぼことした、決して造りの良いとはいえない道に落ちたその光の中に、小柄な女性がひとり、力なく座り込んでいた。臙脂色のリボンで結わえられた、長く豊かなブロンドの髪の毛。麻色のやわらかなワンピース。くっきりとした輪郭の小作りな顔。
よくよく目を凝らしてみると、パフスリーブの袖から伸びるほっそりした両腕に、毛布に包まれた小さな男の子が抱かれていた。体調が悪いのかぐったりとしており、ふっくらとした顔は生気がまるで感じられないほど青白く、小さな肩を忙しなく上下させながら、ただただ荒い呼吸を繰り返している。
そんな二人の傍らには、ひどく心配した面持ちで半ば茫然と立ち尽くす男性と、戸口の先にしゃがみ込む青年の姿があった。青年は母親と子どもに寄り添うように身体を傾け、苦悩と困惑の入り混じった表情で、唇をきつく噛み締めている。そんな彼を、母親は何度も鼻を啜りながら、必死の形相で見上げていた。まるで縋りつくように。
「このままだと、この子はっ……!」
涙混じりの声が、薄闇に包まれた路地を切り裂くように響き渡る。子どもを抱く腕に、ぎゅっ、と力がこもるのが、遠目からでも見て取れた。何が何でも我が子を守りたいという、母としての力強さと、切々とした誓い。今にも飛びかからんばかりの勢いで、女性はぐっと身を乗り出し、青年に懇願の言葉を繰り返している。お願いします、と。この子を助けて下さい、と。何度も、何度も。
けれど、母親に何度請われようとも、青年は詫びるように、弱々しく顔を横に振るだけだった。随分と年若く見えるけれど、恐らく彼は医者なのだろう。この小ささの村なら、もしかしたら唯一の。
「助けてあげたいのですが……ルクス熱に有効な薬が、今ないんです」
ルクス熱――。遣る瀬無さの滲む声で告げられたその名が耳に届いた瞬間、私は思わず息を呑んだ。
ルクス熱とは、子どもがよく罹る季節性の流行病だ。初期症状は高熱と気管支の炎症であり、そのせいで、しばしば風邪と誤診される。けれども、病状が進むと、全身にくすんだ緑色の斑点が現れ、強い痛を伴う。それがルクス熱の決定的な症状であり、斑点が現れて漸くルクス熱だと発覚することが殆どだと言われている。故に、適切な処置が遅れ、気付いた時には既に手遅れということも、決して珍しくはない。大人よりも体力のない子どもは、連日の高熱と激痛に耐えられないのだ。その結果、悲しいことに命を落としてしまう子も少なくない。
しかし、そんなルクス熱には、“ノクシール”という名の特効薬が存在する。数十年前に開発されたもので、開発者である薬草師の名が由来であるらしい。改良が重ねられた今では、副作用のない安全性の高い薬として認知されており、その上調合に使用する薬草や薬液が比較的簡単に、且つ安価に調達出来るので、医者や修道院に頼めば誰でも容易に手に入れられるほど広く普及してもいる。――平時であれば、の話だけれど。
そうでないのは、近頃王都を中心に、ルクス熱が例年以上に、凄まじい勢いで猛威を振るっているせいだ。様々な年齢の子どもたちの間で爆発的に広まり、貴族から平民まで身分を問わず罹患者が続出し、医者たちの手が回らなくなっている上に、唯一の頼みの綱であるノクシールまでもが枯渇しているという。
けれど、実際に不足している理由は、単なる患者の急増ではない。腹立たしいことに、ノクシール不足の主な原因は、子を持つ富裕層による独占だった。彼らは医者や聖神院に多額の賄賂を渡すことで、ノクシールを秘密裏に大量に買い占め、蓄え込んでいる。
正義感の強い記者により、その事実が新聞に取り上げられたのはいつだっただろう。しかし、賄賂や独占が明るみに出てもなお、結局状況はなにひとつ変わらないままだった。今この瞬間も、王都のあちこちで、或いは王国中の町や村で、あの子と同じように、高熱と激痛にあえぐ子どもたちがいるというのに。
薬がない、という青年の言葉は、だから事実なのだろうと思う。ここは王都からかなり離れた、辺境に位置する小さな村だ。王都でさえ薬の入手が困難な状況にあるというのに、こんな辺鄙なところでは、ノクシールの流通は絶望的に違いない。高熱や気管支の炎症に関しては対処療法をとれたとしても、特徴的なあのくすんだ緑色の斑点はノクシールでしかどうしようも出来ない。――もちろんそんなことは、あの青年自身が誰よりも分かっているだろう。医者なのだろうから。そして、このままでは眼の前の幼い命が失われてしまうということも、きっと。
「お願いします、先生っ! 解熱剤を飲ませても、熱が全然下がらなくて……!」
薬がないと知ってなお、それでも必死に助けを求め続ける女性の、悲痛に歪んだ横顔を見つめながら、私は奥歯をきつく噛み締める。胸の奥がざわついてしかたがない。
この光景を見なかったことにするのは、簡単だ。耳を劈くような叫び声を、聞かなかったことにすることも。今ならまだ、出来る。彼らは私に気付いていないのだから。足早に来た道を引き返し、この悲惨な光景から目を背けてしまえばいい。そうすれば、何も背負わずに済む。関わりさえしなければ。全部忘れてさえしまえば。何もかもなかったことにしてしまえば。――鞄の中にある物も、その記憶も、全て。
そう思うのに、けれど身体は、頑なに動こうとしなかった。逃げ出すことも出来ず、私はただ薄闇の中に立ち尽くし、高熱と痛みに苦しむ子どもを、涙ながらに懇願する母親を、そしてそんなふたりと同じほど苦しげな表情の青年を、じっと眺めていることしか出来ない。――頭の中に、これまでの日々で投げつけられた数多の悪罵が、次から次へと蘇ってくるせいで。憎悪に満ちたたくさんの顔と、侮蔑を孕んだ幾つもの声と、それらの凍てつくような冷たさまでもが、鮮明に。
ルシエル様は、私が“本物の聖女”だと仰っていたけれど。それでも、この国の人々にとって、私が“魔女”であることに変わりはない。“聖女”を騙った、忌むべき存在。この世にいてはいけない、陋劣で卑しい存在。
ここなら大丈夫かもしれない、この人なら大丈夫かもしれない――そんな淡い期待を、今まで幾度裏切られてきたことだろう。希望なんて持つだけ無駄だ、と。そんなものは虚しいだけだ、と。何度、そう思い知らされたことだろう。
だから彼らへ声をかけても、同じ結果になるだろうことは明白だ。“魔女”だと分かった瞬間、彼らは私を睨みつけるに違いない。今まで幾度もそうされてきたように。そうして、私の存在を否定するだろう。怒号と罵詈雑言の嵐とともに。もしかしたら、あの子がルクス熱に罹ったのは私のせいだと責められるかもしれない。
けれど、それでも――。右手の甲に浮かぶ聖紋に、そっと指先を添えながら、私は静かに目を伏せる。鼓動が、ひどく騒がしい。どくん、どくん、と、激しく脈打っている。その音で、耳の奥も頭の中もいっぱいだった。女性の悲痛な叫びも、苦悩の滲んだ青年の謝罪の声も、何も聞こえない。まるで、世界ごと硝子の壁で隔てられてしまったかのように。
――何となくだ。……他に理由はない。
そっと瞼を上げると、ふいに、ラベンダーグレイの髪の毛が視界を横切ったような気がした。ふわりと、ほんの一瞬だけ。
「あ、あのっ……!」
意を決して絞り出した声は、情けないほどか細く震えていた。一斉に向けられた三つの視線が、顔や身体に突き刺さる。怪訝そうな目、泣き腫らして真っ赤になった目、驚きに見開かれた目。私はごくりと小さく喉を鳴らし、ゆっくりとひとつ瞬く。緩く編まれた三つ編みは、もう視界のどこにもない。けれど不思議なことに、胸の内のざわめきは、少しずつ落ち着きを取り戻そうとしていた。
「――薬なら、あります」