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 礼拝堂からそう遠くないところに、先日訪れた村とは別の、小さな集落が存在することを知ったのは、祭壇の掃除を終え、川に仕掛けた罠の様子を見に行った帰り道でのことだった。


 地図など持ち合わせていないので、そもそも礼拝堂の周りの土地がどうなっているかなど、当然ながらろくに把握していない。川は偶然見つけただけで、他にあるものといえば、小さな窪地ともっさりと茂った林、雑草が伸び放題に生えた広場がある程度で、それ以外には何もないのだとばかり思い込んでいた。


 しかし、気まぐれな散策ついでに道を外れたその先で、古い立て札を見つけた。村の名前らしき文字の羅列と、恐らくは方角を示す矢印の書かれた、朽ちかけの立て札を。普通は、新しい村の発見に喜び、わくわくするものなのだろ。けれど、何より真っ先に頭に浮かんだのは、そんな喜ばしい感情ではなく、憎悪に満ちた人々の顔と、無遠慮に投げつけられる罵声の数々だった。


 新しい場所へ行ったところで何も変わらない、というのは、これまでに散々経験してきたことだ。そのせいで諦念を覚えたし、期待なんてものは無駄だということも知った。だから、立て札など見なかったことにしようと、一度は思ったのだ。記憶の中から綺麗さっぱり消し去って、はじめからそんなものはなかったのだと思うことにしよう、と。

 けれど、川に仕掛けた罠に、小魚どころか枯れ葉すら引っかかっていなかった光景を思い出し、私は思わず頭を抱える羽目になった。朝食はチェリーとアプリコットで済ませたが、それで空腹が満たされるはずもない。しかも今日は、掃除に洗濯にと、朝からずっと動き通しだ。どの道、この先もあの礼拝堂に留まると――勝手ではあるけれど――決めた以上、食料や日用品の調達場所を確保するのは必須である。村の開拓は、どうしたって避けては通れない。


 散々考え倦ねた末、私は深い溜息をひとつ吐いて、矢印の指し示す方に真っ直ぐ伸びる小道へ歩みを進めた。小石の混じる薄茶色の土、両脇を縁取るように林立する木々、瑞々しい緑色をした雑草、その間で、気持ち良さそうに風に揺れる色とりどりの小さな花々。


 そっと頭上を仰げば、青々と茂る枝葉の隙間から、まるで絵の具で塗り上げたような、澄み切った空が覗いていた。眩しいほどくっきりと鮮やかな、美しい青い色。所々に箒で掃いた跡のような巻雲が幾つも細く伸び、鈍色をした鳥が小さな翼を懸命に羽ばたかせながら飛び去っていく。甘く爽やかな草花の香り、日差しであたためられて乾いた土の匂い。太陽は疾うに真上を通り過ぎ、傾いた位置からやわらかな陽光を燦々と降らせている。

 なんてすっきりとした、清々しい天気なのだろう。こういう日は、もしかしたら何か良いことのひとつでも起こるかもしれない。


 そんなふうに――頬を撫でる風に気を緩めていた数時間前の自分を、今は全力で殴り飛ばしたくてしかたがなかった。いや、あの古びた立て札の前で意を決したその瞬間の自分を、先ず真っ先に叱りつけるべきだろう。なんて馬鹿なことをしたんだ、と。今更後悔したところでもう遅いのだと、そう分かってはいても。


 そもそも、あの矢印は何だったのだろう。とっぷりと日が暮れ、夜の帳に包まれたひと気のない広場をこそこそと横切りながら、もう幾度目になるかも分からない溜息を、深々と吐き出す。あの矢印を信じた私が、馬鹿だったのだろうか。それが指し示す先に伸びる小道を、何の疑いも抱かず、ただひたすらに進み続けた私が愚かだったのだろうか。


 しかし、そうするのが“普通”というものではないだろうか。足先にぶつかった小石が、ころころと石畳の上を転がってゆくのを、ぼんやりと目で追いながら思う。あんな風に矢印が示されていたら、きっと誰だってそれを信じるはずだ。土地勘のない者なら、尚更。この道を進めば、立て札に名前の記された村に辿り着けるのだろう、と。きっとみんなそう思うはずだ。


 しかし結果は、そうではなかった。小ぢんまりとした広場の真ん中に設えられた、恐らくはこの村の象徴なのだろう天使像の噴水の傍を通り過ぎながら、私はがっくりと肩を落とす。あの矢印を信じ、ひたすら小道を歩み続けたというのに、どれだけ進んでも、村らしきものは一向に見えなかった。それどころか、どんどんと森の奥深くへ踏み込んでいくばかりで。

 夕日が差し始めたあたりで、諦めて引き返しておけば良かったのだろうけれど。もう少し、あともう少しだけ――と、そんな浅ましい欲をかいたのが運の尽きだった。もしかしたらすぐそこかもしれない、と。今日はきっと良いことが起こるかもしれないから、と。そんな考えさえ浮かばなければ、私は今頃、礼拝堂の長椅子に腰を下ろして、早朝に磨いた祭壇を静かに見上げていたかもしれない。その上に佇む、純白の主神像とともに。細やかに彫り込まれた装飾の、そのひとつひとつすら全て愛おしむように。


 結局あの矢印の先に、“村”なんてものはなかった。あったのは、ぽつんと現れた、看板も何もない分岐路だけ。それを前に、呆然と立ち尽くしたのは言うまでもない。どうする術もなく、勘だけを頼りに右の道を選び、更に幾つかの角を曲がって漸く視界が開けたと思ったら、そこは村らしき場所の、太い大通りのど真ん中だった。


 通りに沿って建物は幾つも並んではいるけれど、窓から明かりがこぼれている家はひとつもなく、村の中央を突っ切るようにして伸びる大通りにも、人の姿どころか動物の気配すらない。そこここに濃い闇が蔓延り、しっとりとした夜風が、静寂に包まれた大通りを吹き抜けてゆく。


 ルシエル様は、いつまで経っても戻らない私を、どう思っているのだろう。広場を抜け、商店街と思しき建物の連なる通りへ歩みを進めながら、宝石のような深紫色の瞳を脳裏に浮かべる。私の不在を、あの方は気付いているだろうか。しかし、たとえ気付いていたとしても、大方出て行ったのだと思っているに違いない。心配なんて無論していないだろうし、寧ろ迷惑者がいなくなって清々してさえいるだろう。


 勝手な想像だけれど、それでもちくりと胸が痛んで、私はそっと苦笑をこぼす。――と、その時だった。どこからともなく、女性の悲痛な叫び声が聞こえてきたのは。


「お願いです! どうかっ……どうかこの子を助けてください!」

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